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第26話 エルフと治癒士

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 思ったよりも退屈だというのが、エルザが迷宮に対して抱いた率直な感想であった。

 今のところ順調に進むことは出来ているのだが、あまりにも順調すぎたのである。
 まあ、ある意味では当然と言えば当然だったのかもしれないが。

 迷宮の中は、入り口がそうであったように洞窟そのままであった。
 むき出しの岩肌に、曲がりくねった道。
 縦は二メートルほど、横は三メートルほどと、決して広いとは言えない場所である。
 順調に進む事が出来た理由の大きな要因の一つだ。

 エルザ達のパーティーの内訳は、前衛が二の後衛が……一応二か。
 二人が先頭に立ち、魔物を足止めすれば、後方から狙いたい放題なのだ。

 弓などであれば問題はあったかもしれないが、エルザは魔導士である。
 魔法であれば軌道も着弾点も思うがままであり、問題はなかった。

 そして前衛の二人の動きは、何の危うげもないものである。
 後方から見ているだけではあったが、魔物を通す気配すらなく、完璧に足止め出来ていたのだ。
 迷宮を進む上で最大の障害である魔物を完封出来るのであれば、順調に進めないわけがなかった。

 とはいえ、もちろんそれは間違いなくいいことなのではあるが……まるで作業のようになってしまっていることに対し、つい退屈を覚えてしまうのはどうしようもあるまい。
 別に忙しかったり大変であったりする必要はないのだが、それでもせめてもう少し歯ごたえがあったりはしないだろうか。

「……ま、贅沢な話なんでしょうけど」

「はい? 何かおっしゃいましたか?」

 途端に返ってきた言葉に、視線だけを向けた。

 不思議そうに首を傾げている銀髪の少女は、昨日と同様ただの無害な少女にしか見えない。
 だがいくらそう思うとしたところで、彼女自身が治癒士であることを告げてきたのである。

 ならば気を抜くことなど出来まいと、小さく溜息を零した。

「ただの独り言よ。気にする必要はないわ」

「そうですか……それにしても、皆さん凄いですね。こう言ってはなんですが、言うだけのことはあると思いました」

「……言うじゃないの。ま、確かにそれぐらいのことを豪語したって自覚はあるけど……っと。――爆ぜなさい」 

 告げた瞬間、向けた視線の先にいた小さな影の上半分が、爆ぜた。
 エルザの放った爆炎の魔法によって弾け飛んだのである。

 ただその光景に僅かに眉をひそめたのは、その結果が予想以上のものであったからだ。
 これでもまだ威力がありすぎるのかと、溜息を吐き出す。

 だがまあ、仕方があるまい。
 危険だと言われている迷宮の魔物がここまで弱いとは思ってもいなかったのだから。

「……ま、ゴブリン相手じゃ仕方ないんだろうけど」

 呟きながら、視界の端に映った影に向け、再び魔法を放つ。
 先ほどのものよりもさらに威力を抑えたものであったのだが、結果は大差なかった。
 自分の半分もないその身体の上半身が醜い顔ごと消し飛んだことに、再度溜息を吐き出す。

 こうなってくると、もう余計なことは考えない方がいいのかもしれない。
 適切な威力の魔法を使えばその分魔力の消耗は抑えられるだろうが、その調整に気を回す方が疲れそうだ。

 そもそもエルザは、魔力が豊富なことで有名なエルフの中でも随一と言われたほどに保有する魔力が多いのである。
 元より今日は適当なところで切り上げるつもりだったし、この調子ならば魔力が尽きるようなことはないだろう。
 
 少なくとも今は気にしなくてもいいかもしれないと、そんなことを考えていると、前方で警戒を続けていた二人が戻ってきた。
 どうやら今ので最後だったようである。

「いや、ゴブリンの集団に遭遇した時はどうなることかと思ったけど、さすがだね」

 黒髪をなびかせながら笑みと共にそんなことを言ってきたユリアに、肩をすくめて返す。
 それはこちらの台詞であった。

「よく言うわよ。そっちこそ十はいたゴブリンを一匹もこっちに通さなかった上に、傷一つ負ってないじゃない」

「ま、言ってもゴブリンだしね。これでもキミ達よりも多少冒険者としての経験を積んでるんだし、このぐらいのことは出来て当然だよ。それに、ヘレーネも同じように出来たことなんだから、別に誇れるようなことでもないし。あ、いや、別にヘレーネの腕が大したことないって言いたいわけじゃないからね?」

「大丈夫。実際大したことじゃない。私達は所詮、ゴブリンを抑えていただけ」

「だよね。倒そうとしてたらもう少し変わってたと思うよ? でも全部キミが倒してくれたからね」

「それこそ大したことじゃないわよ。こっちは動かない的に魔法を叩き込んだだけなんだから」

 これは事実である。
 魔法さえ使うことが出来れば、子供でも出来ることだっただろう。

 そもそもゴブリンというのは、最弱の魔物と呼ばれているような存在なのである。
 一体一体は非常に弱く、魔物のランクとしては最下位のG。
 成り立ての冒険者ですら、油断をせず装備をしっかり整えれば倒すことが可能だ。
 それは迷宮の中でも変わらない。

 まあ、あくまでも迷宮の中では最弱だというだけで、ランクで言えばEからDあたりになるらしいが、それでも最弱は最弱である。
 数が多い場合はさすがに多少脅威ではあるが、足止めされているそれらを倒したところで、何の自慢にもならなかった。

「わたしからすれば、三人共凄いと思うのですが……そのせいで、わたしは未だ何も出来ていないわけですし」

 そんな風に、互いに謙遜なのか何なのかよく分からないことを言っていると、不意に銀髪の少女がそんなことを呟いた。

 その顔には申し訳なさそうな表情が浮かんでおり、思わずエルザ達は顔を見合わせる。
 言える事が特になかったからだ。

 少なくともこの少女が今のところ何の役にも立っていないのは事実である。
 あれだけ役に立つところを見せるとか言っていたにもかかわらず、だ。

 だがそんなことを承知の上であったし、今更の話でもある。
 とはいえ、こんな顔をしている人物に馬鹿正直にそんなことを告げれるほど、残念なことにエルザは冷酷ではなかった。

 たとえその様子が演技でこちらを欺こうとしているのだとしても、だ。

「……ま、あんたの出番がないってことは、いいことでしょ。それに全部が全部上手くいくとは限らないし……何かあったら、その時に役に立ってくれればいいわ」

「あっ……はいっ、その時は精一杯頑張りますね! いえ、そんな時は出来ればこない方がいいんでしょうが……」

 小さく拳を握り締める姿も、その後で慌てる姿も、歳相応の可愛らしさのある姿だ。
 その顔が整っていることもあって、普通はそこに微笑ましさなどを覚えるのかもしれない。

 しかしそんな少女へとエルザが向けるのは、ひたすらに冷徹な瞳のみである。
 エルザは冷酷ではないが、甘いわけでもない。

 いや……何だかんだで言葉を交わしてしまっていることを考えれば、あるいはこれでも甘い方か。
 ほとんど関わろうともしないユリアやヘレーネの方が、正しい反応なのだ。

 何せ相手は、治癒士――快楽主義にして刹那主義という、自分含めて周囲を破滅させることしか興味がないというクズだ。
 本当はこうしてパーティーを組み迷宮に来ることすら、自殺行為でしかない。

 それでもパーティーを組んでいるのは……まあ結局のところ、甘いからか。
 昨日の様子を見ている限りでは信じられない、というのもあるし……何よりも、一度関わってしまったからだ。
 誰かを、あるいは何かを破滅させようとしているのであれば、その前に自分の手で止めたいと、そんなことを思ってしまったのである。
 まったく自分でも呆れるほど甘く、愚かであった。

 そんな自分を否定せず付き合ってくれている二人には感謝しかない。
 まあ、これで四人になったので迷宮に行くことが出来る上、自分ならば何があっても対処出来るという自信があるからなのだろうが。

 その自信は過信ではなかったということは、既に示されている。
 エルザ達三人だけでも十分に迷宮の中で通用することが、こうして分かったからだ。

 そしてその事実は、今後の冒険者生活においても有利に働くことだろう。
 冒険者のランクというのは強さと関係ないと言われてはいるが、実際にはほぼ同義だ。
 ランクが上の依頼は必然的に同ランクの魔物と戦ったりすることも増えるため、相応の実力が必要となるからである。
 パーティーを組むことを前提とした上で、尖った能力を持つ場合など幾つか例外も存在してはいるも、基本的にはランクと実力はイコールの関係となっていると考えて間違いない。

 特にDランク以上となるとその傾向は顕著であり、エルザ達はこうしてDランク推奨の迷宮で何の問題もなく行動出来ているのだ。
 この時点でギルドからは最低でもDランク相当の実力はあると判断されるだろうし、ギルドも実力のある冒険者を下位ランクで遊ばせておくほど余裕があるわけではない。
 きっととんとん拍子で昇格出来ることとなるはずだ。

 ランクが上がればパーティーメンバーも探しやすくなるだろうし、行動の幅も広がる。
 二人が今回付き合ってくれたのはおそらくそこまでのことを考えてのことで、エルザもそのことも考えていたからこそ二人に今回の話をしたのだ。
 エルザは確かに甘いが、それだけでこんな危険と隣り合わせのことをするほど愚かではないのである。
 危険を犯すだけの価値があると思ったから、こんなことをしているのだ。

「……ま、正直なところ予想以上の結果ではあるんだけど」

 というのも、この迷宮に潜る推奨ランクはDランクとされているが、Dランクが主に潜るのは第一階層と第二階層だけなのである。
 それ以下の階層に行くには、Cランク以上の実力が必要とされていた。

 だが迷宮の中を順調に進むことの出来たエルザ達がいるのは、現在第三階層だ。
 つまりは、DランクどころかCランク以上の実力を持っていると示すことが出来たのである。
 これは予想以上というより、出来すぎなほどであった。
 まあ無論悪いことではないのだが。

 しかし予想以上の成果を手にすることが出来たこともあって、この少女と付き合うのは今回限りだろう。
 これ以上危ない橋を渡す必要はないし、おそらくギルドも渡らせてはくれまい。

 元々治癒士関係の依頼は、Bランク以上――否、前回はBランクのパーティーが壊滅したという話を聞くから、既にAランクにまで上がっている可能性はある。
 本来は、そんな依頼なのだ。
 FランクとEランクの混成パーティーに手が出せる依頼ではない。

 それでもギルドから回されたのは、自分達が評価されているのと、まずは自分達で様子見を、ということなのだろう。
 将来性があるからといって、自分達はまだ下位ランクであることに違いはないのだ。
 万が一壊滅してしまってもギルドとしてはそこまで痛くはない、ということである。

 そこに文句は言うまい。
 分かった上で受けているのだし、あんた達はこんな有能な人材を下手すれば失うところだったのだと、見返してやればいいだけだからだ。

「そのためにも……もう少し実績を積むとしましょうか。――爆ぜなさい」

 そんな呟きを漏らすのと同時、その音を掻き消すように轟音が響いた。
 視界の先に小さな影を見つけたために、先制で消し飛ばしたのだ。

「あれ、先に気付かれちゃったみたいだね? やっぱりさすがだよ」

 明らかにお世辞と分かる言葉を無視し、前方を睨みつけるように見つめる。
 エルザが反応するよりも先に、ユリアが反応していたのは知っていたからだ。

 本人から聞いた話によると、ユリアはEランクの冒険者という話だが……さて、本当はどうなのやら。
 先に述べたように、本来ここはDランク以上の冒険者が訪れるような場所なのだ。
 そんな場所に当たり前な顔をしている冒険者のランクがEだといわれて、果たして誰が信じるというのか。

 ランク詐欺という意味ならば、エルザもヘレーネも同じではあるが、エルザ達はあくまで他で似たような経験があるというだけだ。
 ユリアもそうである可能性はあるものの、ならばEランクなどという中途半端なところで止まっている意味が分からない。

 冒険者は大半が事情持ちということ以上に何か理由がありそうな気がするが……まあ、それはまた後でか。

「……何でDランクだと第二階層までなのかと思ってたけど、納得」

「そうね……第三階層では第二階層までとは比べ物にならないほどゴブリンが出るって話に聞いてはいたけど……正直予想以上だわ」

 視線の先には先ほどと同等か、それ以上のゴブリンが集まり始めていた。
 その光景にエルザは、なるほどこれが迷宮かと理解する。

 迷宮は基本的に階層を下に進めば進むほど困難なると言われていた。
 単純に魔物が強くなるとか、構造が広く複雑になるとか……あとは、遭遇する頻度が上がるとか。
 第三階層は特にその最後に該当するというわけだ。

 相手は最弱のゴブリンではあるも、あくまでもこの迷宮の中では、である。
 この数に毎度遭遇するというのであれば、確かに第二階層までとは比べ物にならない難度であった。

「さて……それで、どうしようか? この距離ならまだ逃げることは出来ると思うけど……今日のところは一先ず切り上げる?」

 ユリアの挑発するような……否、間違いなく挑発だろう言葉に、エルザは肩をすくめた。
 そんなもの、考えるまでもあるまい。

「まさか。確かに面倒ではあるけど、それだけでしょう? 少なくともあたしは何の問題もないわ」

「同感」

「そっか。それじゃ、さっきまでと同じようにってことで」

 そう言うや否や、ユリアは前方へと駆け出していった。
 その後をヘレーネが続き、先ほどと同じように二人でゴブリン達を抑え始める。

 その光景を眺めながら、ふとエルザは上を見上げた。
 迷宮の内部は入り口の外見同様洞窟のようになっており、剥き出しの岩肌が続いている。
 縦は二メートル、横は三メートルといったところで、だが本来薄暗いはずのそこがはっきりと見渡せているのは、頭上に浮かんでいる光を放つ球体のおかげだ。

 それもまたエルザの魔法であり、薄暗さを解消するために出したものなのだが……もう少し光量を抑えるなり何なりした方がいいかもしれない。
 ここまですぐに魔物が集まってくるのは、これのせいなのではないか、と思ったのだ。

 これが何回続いたところで問題ないと言い切ることは出来るが、面倒ではある。
 それに出来るだけ奥へと進むためには、なるべく戦闘は少ない方がいい。

 ここに来れただけでも十分ではあるが、奥に進めば進めただけ、エルザ達は評価されることになる。
 しかし実力があるというだけで奥に進めるほど迷宮というものは容易いものではなく、そもそも自分達だけで十分などと自惚れてもいないのだ。

 先に進むためには相応の準備と、他にも仲間が必要だろう。
 それらを手に入れるためには、まずはここでそれなりの結果を出す必要がある、というわけであった。

「……ま、とりあえずこれをどうするのかはこの戦闘が終わってからでいいかしらね。――爆ぜなさい」

 先のことを考えながら、遠方のゴブリンを消し飛ばす。
 ユリア達が足止めしているゴブリン達を次々と消し飛ばしていき、だがどうしても作業的になってしまうためか、思考はすぐに別のところへと移っていく。

 先のこととなれば、やはり一番の問題は加える仲間だが、これは既に目処を付けている。
 この街にいる冒険者の中で唯一のAランク所持者。
 ブラッディエッジなどと呼ばれている、正体不明の冒険者だ。

 普段は仮面などで顔を隠しているという噂であり、エルザも実際に会ったことはない。
 この迷宮の最高到達階層である五十階層への到達を単独で成し遂げたらしいが……やはりその人物と組めるのが一番だろう。

 だが、そのためには生半可な結果では駄目である。
 向こうから接触してくるなどと、夢を見るようなことは言わない。
 試しに組んでみてもいいかもしれないと、少しでもそう思わせることが出来れば十分で、だがそのためには最低でも第十階層あたりまでは行きたいところである。

 無論さらに奥へと行けるのであればそれに越したことはないのだが――と、そんなことを考えていた時のことであった。

「っ――エルザさん!?」

「――え?」

 銀髪の少女の声に反射的に顔を向け、だが直後にそうでないのだということに気付く。
 顔を向けるべきは、そっちではないのだ。

 慌てて逆の方向へと顔を向ければ、視界に映ったのは小さな身体と醜い顔、それと、鈍い光。
 それらのことを認識したの身体に痛みが走ったのはほぼ同時で――

「っ――爆ぜなさい!」

 しかしそれ以上を認識するよりも先に、眼前に魔法を叩き込んだ。
 目の前のそれ――ゴブリンが呆気なく消し飛んだが、その果てを見届けるまでもなく自分の身体を見下ろす。

 何が起こったのかは、一目瞭然だ。
 ゴブリンの持っているナイフのようなものに刺されたのである。

 咄嗟に腕で庇ったために致命傷には程遠いが、それでも放っておいていいものではない。
 ユリア達は抜かれていないはずなのにどうしてゴブリンが、と思いながらもナイフのようなものを引き抜き、その場に捨てる。

 傷口を押さえながら壁に視線を向け、そこで気付いた。
 壁の中に隠れるようにして、小さな穴が開いていたのである。
 おそらく何処かへと通じており、今のゴブリンもそうして現れたのだろう。

「……油断大敵、とはよく言ったもんね。まあいいわ、反省は後」

 とりあえずポーションを飲まなければと、刺された腕で腰に差してあるポーションの瓶へと手を伸ばし――そのまま身体の力が抜けた。

「あ、あれ……? なに、が――ごほっ!?」

 瞬間、猛烈な吐き気に襲われ、せりあがってきたものを吐き出す。

 だが吐き出したものを目にしたことで、何が起こったのかを理解した。
 エルザが吐き出したのは血であり、しかしそこまでの傷ではないはずだ。
 ということは、先ほど刺されたものに毒が塗られていたのだろう。

 ゴブリンが毒を使うこともある、ということは知っていたものの……実際に使ってくることは稀だったはずだが――

「……ついてない、わね。でもまあ……不幸中の幸い、って、ところ、かしら」

 念のためにと、解毒剤を用意してあるのだ。
 これならば死ぬようなことはあるまい。

 だが死ぬことはないが、今日はここで引き返すしかなさそうだ。
 解毒剤は毒の進行を食い止めはするものの、すぐに治るわけではない。

 当然だ。
 毒は様々な種類があるため、万能薬など作りようがないからである。
 むしろどんな毒でも進行を止められるというだけでも十分だろう。

 そのため、本格的な解毒は街に行ってからになるだろうし、すぐに可能かは分からない。
 最悪数日休むことになりそうだ。

 だがまあ、自分を戒めるという意味ではよかったのかもしれない。
 思い返してみれば、確実に自分はこの程度ならば余裕だと気を抜き、油断していた。
 そういう時にこそ痛い目を見るのだと……この世界は優しくなどないと、知っていたというのに。

 しかしこれで、今後迷宮で油断することはあるまい。
 命の危険があるような状況ではなく、ここでだったことを考えれば、まだ不幸中の幸いだ。

 ……いや。

「エルザさん……大丈夫ですか……!?」

 そう考えてしまった自分はやはり甘いのだと、その声を耳にした瞬間に自覚した。
 そうだ、考えてみたら、この状況は何かを仕掛けるのに絶好の機会ではないか。

 その思考に今まで至らなかったのは、無論信頼からではない。
 何だかんだで自分達には何もしないだろうという思い込みであった。
 結局自分のことを一番評価していなかったのは、自分なのだ。

 しかし反省をしたところで、全ては遅い。
 遠方へと視線を向ければ、ユリア達はこちらの異常に気付いてはいるようだが、まだゴブリンの相手をしている。
 向こうは向こうで手が離せまい。

 となれば、頼れる相手は一人しかおらず……さて、毒を放ったままでいるのと、治癒士を頼るのとでは果たしてどちらがマシか。
 逡巡したのは一瞬で、直後に溜息を吐き出した。

 良心に期待するつもりはまったくないが、自分は手を下す価値もない相手だと思われていると信じるしかあるまい。

「……見ての通り、って見てあんたに分かるかは知らないけど……まあ、致命傷ではないわ。ただ、毒が塗ってあったみたいだから、とりあえずその対処が先決ね。解毒剤は腰に差してあるから、悪いけど飲ませてくれる? 緑色の液体なんだけど……ああ、ただ、絶対あたしには触らないで。触ったらどうなるか、保障しないわよ」

 それは脅しではなく、本音だ。
 そして相手が治癒士であることとは関係がない。

 そもそもエルフは心の底から認めた人物以外に身体を触れさせることはないのである。
 こんな状況であろうともそれは変わらないし……もし触られてしまったら、魔法で消し飛ばさないという自信はない。

 だがそれを理解しているのかいないのか、きょとんとした様子で銀髪の少女は首を傾げた。

「触らないで、ですか……? んー、触らないと少し効率が悪くなってしまうのですが……まあ、仕方ないですね」

「は……? あんた何を言って……?」

 身体に触る触らないで、解毒剤の効率がどうして変わるというのか。
 いや、やはり何かを仕掛けるつもりだということか。

 何をするつもりなのかと、眉をひそめ――

「――『癒し』と『浄化を』」

 瞬間、少女の手が淡く光だした。

 その光はすぐに自分の身体を包み込むようにして広がり、あっという間に全身を覆いつくした。
 まるで陽だまりにでもいるような暖かさと安らぎを覚え……直後に、目を見開く。

 毒による痛みも身体の異常も少しずつ抜けていき……何よりも、腕の傷が塞がりだしたからだ。

「…………嘘」

 魔法にも、精霊術にも、他の何であろうとも、他人の傷を癒す効果というのは発現し得ない。

 それは、唯一他人の傷に効果を及ぼすと言われている治癒の力であろうとも同様だ。
 治癒という名こそ付いてはいるが、その効果は解毒薬に似ているもので、あくまでも傷を悪化させずに維持するという効果しかないはずである。
 治癒士というクラスの元となった力ですらその程度であり、実際に傷を癒すという効果を持つものとは三種の霊薬しか存在しないのだ。

 だが現実に、エルザの傷は治り始めている。
 しかも、異常とすら言える速度で、だ。
 上級のポーションですら有り得ず、あるいはエリクサーでも及ばないかもしれない。

 自分は一体、何を目にしているのか。
 何をされているのか。
 何が起こっているのか理解出来ず、エルザはただ呆然とその光景を眺めていることしか出来ないのであった。
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