女衒の流儀

ちみあくた

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 ふわりっ、と肩口へ羽織が掛けられ、その布地越しに、能谷桑二郎は頬を寄せる女の温もりを感じた。

「主様……お別れが辛うありんす」

 甘え声が少々掠れている。

 振返ると、馴染みの遊女・汐路の目尻に小さな皺を見つけた。格子窓から差す淡い朝日に、容姿の微かな衰えが浮ぶ。

 汐路は遊女の中では中堅にあたる散茶の格で、中々の別嬪だ。
 
 三十路には間があり、まだ華の在る年頃なのに若さが偏重される遊郭にあっては何処か草臥れ、色褪せた印象さえ漂わせている。
 
 或いは、廓での過酷極まる日々が、女の盛りを縮めてしまうのかもしれないが、
 
「次は、何時来てくれなんす?」

 今度は前から両腕を回し、汐路が体重を預けてきた。

 きぬぎぬ、と呼ばれる廓の手管だ。

 一晩泊まった客の帰り際、身繕いを手伝う振りをして、真に惚れた男は御身一人、などと囁く。
 
 市井の夫婦の在り方を模倣し、客と遊女の逢瀬を重ねていくのが廓の決まり事とは言え、所詮、偽りの情。

 馬鹿らしい、と桑二郎は思った。

 平穏な世なら兎に角、幕藩体制崩壊の危機が囁かれる危急時に何と呑気な駆け引きだろうか。

 汐路をあしらう内、妙に白けた気分になり、桑二郎は口をつぐんだ。
 
「主様、まさか、他の女へ気持ちをお移しなすった?」

 汐路の眼差しが俄かに鋭くなる。

「もし、浮気なんぞなさったら、お侍様と言えど、吉原じゃ御法度でありんすよ」

 馴染みの遊女ができた時点で、もう他の女の元へは決して通わないと誓うのが吉原で遊ぶ男の建て前だ。これも又、夫婦を模倣するが故の定め。

 桑二郎はますます馬鹿らしくなり、あからさまに鼻で笑った。

「おい、汐路、法度とやらを破れば、俺はどうなる?」

「きついお仕置き、致します」

「東照神君以来の譜代御家人たるこの俺に、廓に巣食う者どもがどう仕置きする? 何ができると言うのだ?」

「……主様、この街を舐めちゃいけません」

 汐路は、『法度』を蔑ろにする客の傲慢に対し、我が儘な幼子へ教え聞かせる口調で言った。
 
「強いお人だっているんです。お侍にも引けをとらない程に」

「ほうっ、神田於玉ケ池、玄武館にて腕を磨き、北辰一刀流免許皆伝を得た俺より下賤の輩が強い、と申すか?」

 尚も言いかえそうとする遊女を再び鼻で笑い、最早耳を貸さずに、桑二郎は遊郭・左之屋を後にする。





 揚屋町の辻から仲の町通りへ歩を進め、吉原唯一の出入口である大門へ向う途中、桑二郎は降り注ぐ陽光に目を細めた。

 この街の朝は実に気怠い。

 行交う連中ときたら道楽者や遊び人、忘八者と称す廓の使用人ばかりで夜の華やかさと大違いである。だが、それでも大門の外に漂う切迫した空気や厭世感と比べるなら、穏やかな光景と言って良いだろう。

 時は慶応四年の晩春。昨年十月に幕府から朝廷へ大政が奉還されてからと言うもの、江戸の治安は荒れる一方だ。
 
 不逞の輩が巷に溢れ、朝廷の威を駆る薩摩と長州が彼らの背後にいて、いずれ江戸を総攻撃するとの噂が絶えない。
 
 一方、徳川方にも呼応する動きがあった。
 
 徹底抗戦を主張する武闘派が彰義隊を名乗り、四月初めに浅草本願寺から上野寛永寺へ拠点を移して、日々、勢力を拡大させているらしい。このままでは戦いの火蓋が切られるまで左程の猶予もあるまい。
 
 桑二郎も内心では、既に彰義隊への参加を決めていた。
 
 このまま徳川家が権威を失い続け、一介の大名へ成り下がってしまったなら、幕臣の扶持は賄えない。即ち、多くが浪人の身の上となり、路頭へ迷う事だろう。
 
 なら、いっそ落ちぶれる前に一暴れ。武士らしく死に花の一つも咲かせてやろうじゃないか。
 
 未だ齢二十五の盛んな血気を押え切れず、桑二郎は両の拳を握りしめた。
 
 この上は一刻も早く上野へ……。
 
 思わず足を速めたその時、桑二郎は大門手前に群がる人々の輪を見つけた。やんやと囃す野次、歓声が、勢い良く耳へ飛び込んでくる。
 
 はて、喧嘩でも始まったか?
 
 好奇心に駆られ、近付いて野次馬をかき分けると、二人の男が武器を手に向い合っていた。内一人は何と、桑二郎の知己である。
 
 垢抜けた縮緬の小袖に身を包む若侍で、名を戸倉伊助と言う。

 七十俵五人扶持の俸禄に甘んじる徒士組の桑二郎と違い、伊助の父は勘定奉行勝手方の与力だ。

 この乱れた時世にありながら尚、それなりに金回りが良い。玄武館で共に剣の修行へ勤しんだ頃には、何度か酒色の馳走に預かった事さえ有る。
 
 そこそこ腕は立つと思っていたが、すっかり余裕の失せた顔色からして旗色は芳しくなさそうだ。
 
 まぁ、出くわしてしまった以上、知らぬ振りもできまいなぁ。

 桑二郎は忘八者の法被に身を包む伊助の喧嘩相手へ視線を移した。表情に乏しい細長の目、恐ろしく広い肩幅、長い胴と短い脚が印象的な三十男である。

 伊助に刀を突き付けられているのに、その表情には一片の曇りもなく、妙に落ち着き払っていた。
 
 法被の袖口からのぞく上腕や、肩から胸の辺りがごつごつと岩の如く盛り上がり、はたから見ても並ならぬ腕力が伺える。
 
 使う得物も異様だ。

 棒手振りの商い(店舗を持たず、路地を徘徊して売り歩く商法)で使う六尺(約182cm)の天秤棒を握っているのだが、その太さが尋常では無い。
 
 丸太と見紛う代物である上、鈍く黒光りする樫で出来ており、相当に重い筈。或いは芯に鉄を仕込んでいるかもしれない。
 
 そんな物騒で扱い辛い六尺棒を、男は軽々と振り回し、伊助を威嚇する。
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