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しおりを挟む部屋へ入ると患者のバイタルデータを監視する電子機器や点滴用のスタンドが目につき、その傍らのベッドで複数のケーブルに繋がれたまま、酸素吸入器の丸いマスクを口に被った父・幹雄が横たわっていた。
あの大柄だった体が今は小さく感じられる。
いや、実際、縮んでいるのだろう。今から19年前、59才の時に職場で脳溢血を起こした父は重度の障害を抱え込んだ。
リハビリと治療の為、入退院を繰り返す日々を持ち前の気力で乗り越え、一時は年相応の健康を取り戻したかに思えたが、二年前、76才になった父は庭で転倒して頭を打ち、硬膜外血腫の診断を受けた。
幸い、その時の症状は比較的軽く、一か月程度の入院で済んでいる。
むしろ深刻だったのは精神面だ。リハビリで克服した筈の足腰の麻痺がぶり返し、父は自信を失った。
それまで障害を苦にする素振りを見せず、老夫婦二人の気兼ねない暮らしを楽しんでいたのに、短期間で人はこうも変わってしまうものだろうか。
俶子一人では介護がおぼつかない為、好幸と円が同居を始めてから、幹夫の依存心は強くなる一方だ。付けっぱなしのテレビへ虚ろな眼差しを向け、自分では何もしない。殆ど家の外へ出ない生活を過ごす内に肉体は一層衰え、骨格まで変ってしまう。
そして今年の猛暑で酷く風邪をこじらせた。
挙句、寝たきり生活へ陥り、今日から5日前、8月1日の夜半に父は意識が混濁した状態で病院へ運び込まれたのだ。
そんな幹夫の様子と病室へ持ち込んだ身の回りの品をチェック、追加で持って来るべき物は無いか夫と相談した後、円は折り畳み椅子に掛かっているコートを羽織った。
「じゃ、私は一度、家へ戻ります。叔父さん達を駅まで迎えに行かなきゃ」
「あぁ、昼前には東京に着くって、達吉さん、言ってたもんな」
「ええ」
「お前、朝早くに俺と交代してから、ずっと父さんを看ていたんだろ。ぶっ続けで疲れてないか?」
円はさり気なく肩を竦めてみせた。
「けど、お母さんも早くここへ来たいでしょうし、一人で来させるのは怖いから」
「そうだな……今の母さんじゃ」
申し訳ないと好幸は思う。でも、どちらか父に付き添う必要がある以上、どんなに疲労が溜まっていても、妻に頼るより他は無い。
床へ直に置かれたショルダーバッグを肩に掛け、円は急ぎ足で病室を出て行く。
最初に入った救急病棟からこの部屋へ移され、今日で三日目なのに、意外と病室の空気は澄んでいた。
意識の戻らない幹雄に食事は取れない為、栄養分は点滴だけだ。一応おむつはしているけれど排泄物は無く、尿道にカテーテルを入れている為、小便の匂いも無い。
その清潔さが却って、削ぎ取られていく命の量を示している様に思えた。
体調不良から肺炎という流れは、おそらく高齢者の家族には良くある事なのだろう。しかし、現にその場に遭遇すると一つの命が失われていく流れの残酷さに改めて直面させられる。
ピンピンコロリなんて夢のまた夢。
人生からの退場には常に苦痛のプロセスが伴い、足掻いた所で勝ち目も救いも初めから無い。
付き添う家族もそれを覚悟しなければならないが、この病室の中は生体情報を示す電子音、外から聞こえる看護師の足音を除けば実に静かに感じられた。
離れて暮らしていた親と同居し、介護にあたったこの二年、頻繁に行くトイレの介助で四苦八苦したのが嘘みたいに穏やかな時が流れていく。
モルヒネが効いているのだろう。でも、夜になると一変する。痛み止めも効かない激しい発作が頻発する。
好幸は胸ポケットから愛用の手帳を取り出し、紐を挟んだページを見た。
細かく時刻が書かれている。父の発作が起きる間の時間を記したもので、その間隔は様々。30分置きのもの、10分置きのものもあるが、日を追う毎に間隔の平均値が短くなっていた。昨夜のものなど最短は五分以下だ。
苦しむ父が無意識に点滴の管やマスクへ手をかけ、バイタル測定の為のコードを抜こうとする事があって、その度、好幸は必死で抑え込んできた。弱っている筈なのに、発作時の力は恐ろしく強いのだ。
今、目の前の安らかに眠る父の姿は、それと比べると奇跡のようであり、母や叔父達が来るまでこのまま安静を保ってほしいと祈らずにいられない。
少しめくれた毛布を直してやりながら、好幸は幹雄に語り掛けた。
「なぁ、俺さぁ、昔の親父の夢、見ちゃったよ」
勿論、返事は無い。
「覚えているかい、新潟で俺が雪に埋もれそうになった夜」
そこまで言って、好幸は苦笑した。
もし意識を失っていなかったとしても、そんな些細な出来事を父が覚えているとは思えなかったからだ。
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