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宴の前に 1

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 強かった風が収まり、小窓から差し込む夕日が臨の読んでいる本に格子型の影を落とした。

 壁の掛け時計を見ると、もう午後五時過ぎだ。

 守人が言った「今夜のイベント」は何時行われるのか、詳しい予定を臨は教えてもらっていない。

 はっきりしない分、恐怖ばかり募った。
 
 守人が側にいる間は、むりやり強気を駆り立てて陽気に振舞ったけれど、一人になるとやはりダメ。本を読んでいても、中身が頭に入ってこない。

 臨の生き延びる道があるとしたら、守人本来の人格を呼び覚ますか、二つの人格を統合した上、彼を味方にして脱出を図る事だけだろう。

 限られた時間の中で、その為の心理的な刺激を臨は守人へ仕掛けたつもりでいる。そして、ある程度の手応えはあった。





 通常、臨床心理士のカウンセリングは一週間に一度だけで、他の接触は極力避けるのが原則。

 それは患者の、カウンセラーへの必要以上の依存を回避する為である。

 同時に距離を保つ事で患者がカウンセラーの意図を推し量る様に誘導し、自分が相手にどう見られているか再考させ、より健全な自己認識へ繋げる狙いもある。

 臨がここへ来てからの細やかな会話と短いインターバルは、守人の、彼女への強い依存をむしろ促すものだ。臨床心理のタブーを敢えて冒す事で、より強い干渉力を得ようとしたのだが、その成果は有ったのか、否か?

 本当の所、自信は全く無い。

 思えば、郊外のラブホテル付近で消息を絶った時と、五十嵐のマンションに突如現れた時とでは、守人の性格に別人の如き変化が生じていた。

 解離性同一性障害が顕在化したのだとしても、その差は極端であり、『赤い影』に拉致された後、何者かの手で、何らかの高度な心理誘導を施された可能性が大きい。

 急激過ぎる変化なら、その分、人格の回帰も起きやすく、そこに臨の活路もある筈なのだが……





 陸奥大学での会話を彷彿する穏やかな時を過ごした昼食の後、守人は施錠された洋館の外へ臨を連れ出してくれた。

 ずっと家の中で息が詰まると訴えた臨への気遣いだそうだが、ベランダの方から庭へ踏み出す守人の表情は緊張で強張り、何か恐れているように見えた。

 しばらく歩き回ってわかったのは、本当に周囲には何も無く、山中で完全に孤立した建物だと言う事。頑丈な扉や窓に嵌った格子からして、単に社会と距離を取ると言うより隔離のニュアンスを感じる。

 庭等を一通り歩き、それで戻るかと思っていたら、守人は臨の手を引き、そのまま洋館を囲む森へ足を踏み入れた。

 もしかして逃がしてくれるの?

 一瞬、臨はそう期待したし、実際に守人は監視カメラを避ける様にして進んでいく。

 人質の見張りとしては有り得ない行動だ。しかも施設からある程度遠ざかった所で、守人は走り出す。

 手を引かれるまま、臨も走る。

 コレってちょっとロマンチックかも、なんて二人きりの逃避行に胸が熱くなるのも束の間だった。

 緩やかな傾斜が何処までも続き、先の見通しが非常に悪い。それにかなりの高地であるらしく、臨はすぐ息が切れて、自ずと足が止まってしまう。

「ちょっと休ませて……」

 守人は舌打ちし、臨が木陰で呼吸を整える間、周囲に注意深く目を配る。

 何を警戒しているのか、すぐに分かった。
 
 森の奥で幾つか黒い塊が蠢いているのが見え、その一つが近づいてきて、唸りながら歯を剥き出す。
 
 野犬だ。

 それもシベリアン・ハスキーの成犬で、怯える臨の目には子牛ほどの大きさに感じられる。背後の数匹も距離を詰めて来ていた。こちらは種類も大きさも様々、激しい敵意を示す点だけが共通している。

 都会の野良犬など比べ物にならない獰猛さだ。施設の戸締りが頑丈な割に、外の警備が手薄な理由はこいつらにあったらしい。

「もう、わかったろ?」

 臨の耳元で囁き、再び彼女の手を引いて、守人は洋館へ逃げ帰った。途中、何度か攻撃を受けたが、その度に錆びたメスを奮い、臨を庇ってくれている。

 何とか屋敷へ辿り着き、玄関の扉を開いて中へ逃げ込んだ後、臨は床にへたり込んだ。

「わかったよな……悪あがきは無駄なのさ」

 もう一度、臨の耳元へ囁き、守人はテーブルの赤い仮面を小脇に抱えて屋敷を出て行く。

 逃走を諦めさせる目的で外を見せたのかな?

 臨にはそう思えたが、山林で舌打ちした時、辛そうだった守人の背中から自身の未練を断ち切りたい、との密かな願いも見え隠れする。

 できるものなら二人で逃げたい、と守人は内心思っていたのでは?





 それにしてもあの大きな犬。

 山中とは言え、あんな群れが自由に彷徨うなんて普通は無いよね。

 元々ペットだとしても、すっかり荒んで野生化していた。

 人の手を離れてから長い時間が経たないと有り得ない事だろうし、もし有り得るとしたら、その場所は……





 臨が考えをまとめようとした時、玄関の扉が開き、守人がサロンへ入ってくる。

 服装はいつもの『赤い影』を模したものでは無い。無地のTシャツ、ストレートのデニムパンツと至ってカジュアルだ。

「あの人が、君を呼んでる」

「特別なイベント、いよいよ始まるって訳?」

「今更、言うまでもないだろ」

 守人の声が掠れている。

 恐怖と言うより内心の動揺が感じられた。先程と比べても、一層『僕』への揺り戻しが進んだ感じだ。
 
「もう意味の無い抵抗をしないで欲しい。頼むから、僕を困らせないでくれ」

 自分を『僕』と呼ぶ守人の声はか細く、痛々しいほどだ。

 臨を拉致した夜、『私』として誇示した傲慢な自信、攻撃性は鳴りを潜めている。

 臨は逆らわず、洋館の表へ停められている白いセダンの助手席へ乗り込んだ。守人がハンドルを握り、洋館の車回しから敷地を抜けて、山道へ出て行く。

「この車で逃げれば、犬にも遭わなかったのに」

 臨の呟きを守人は無視した。

 苛立ちを噛み殺す彼の表情からすると、おそらく昼の時点で、この車は無かったのだろう。『イベント』の為、施設へ来た何者かが乗ってきたのかも知れない。

「ね、今からでも遅くない。今度こそ、このまま逃げよ」

 守人が沈黙を保つ間、車は細い山道から二車線の舗装路へ乗り入れ、ほどなく山間の集落へ入った。
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