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 ライブハウスの床へ叩きつけられる寸前、衝撃の代りに、グニャッと生温かい感触で史子は包まれた。

 見ると、達樹が危うい所へ飛び込み、抱きとめようとした挙句、彼女の下敷きで潰れそうになっている。

「あ……達樹! あなた、大丈夫!?」

「君の為なら、僕、何だって」

「でも、あたし、けっこう体重あるよ」

「……問題ないです。それ、史子さんの魅力でもあるし」

「はぁ?」

「怒ると怖いけど、ふくよかで、ポッチャリ笑顔が可愛くて」

「あ……アンタ、いつまでふざけて……」

 下敷きになったまま、達樹が口にした唐突な賛辞に、史子はすっかり動転し、頬を真っ赤に染めた。

 初めて話した時と言い、今と言い、アンタ、何かといきなり過ぎるのよ。

 それに距離も近い。

 何しろ、彼女のお尻の下にピッタリ彼の胸が密着していて、黒いブラウスへ彼の吐息が当たる気がする上、伝わってくる体温は胸の動悸を早くする。

 照れ隠しに思い切り怒鳴りつけてやりたかった。言いたい事なら他にも山ほど有るが、取り敢えず達樹から身を離すと、

「僕はふざけてませんっ! 大体ね、史子さん、自己評価が低すぎるんです」

 床でベチャッと潰れたまんま、彼の方が先手を取った。

「お付き合いしている間、僕、あなたの事を何度もきれいだって言いましたよね。でも、いつも笑い飛ばされ、時には逆切れされた」

「あ、あんたがTPOをわきまえないからよ、今みたいに」

「じゃ、何時言えば、ちゃんと聞いてくれたんですか?」





 史子が言葉に詰まる間、周囲でカメラのフラッシュが幾つか瞬いた。

 舞台から床へ落下した時に後ずさった観客達 その好奇の視線が突き刺さる。恐る恐る顔を上げると、天井のカメラもまだ動いているらしい。

 ネット中継は続いているんだろうか?

 これじゃまるで羞恥プレイのオンライン生配信で、気持ちの上じゃ公開処刑に近いような……。





 右見て、左見て、一刻も早く逃げ出したい史子の心境を他所に、達樹は一層熱く言葉を重ねていく。

「君……自分の事が好きじゃないんですね。いつも周りと己を比べ、時々つまらなそうに溜息をつく姿、見ているのが辛かった」

「余計なお世話よ」

「ただ、あなたにもっと自信を持って欲しかったんです。僕なんかじゃ勿体ない人だって事も」

 そこまで言い、ようやく達樹は体を起こす。真顔が少し歪んだのは、何処か痛めたせいだろう。

 あっ、と手を出しかける史子へ向け、達樹はふっと自嘲気味に笑う。

「でも、考えてみたら説得力なんてある筈ない。そもそも僕だって全く自分に自信を持てない陰キャなんですから」

 その声が掠れ、か細くなり、失踪以前の恋人の雰囲気が若干戻ってきたように史子は感じた。

「友達に騙され、あなたにも凄い迷惑をかけて……僕、もう死にたいって思った。でも、どん底から、ある人の言葉で立ち上がる事ができたんです」

「それ、あんたが言ってたボス?」

「ええ、もし二つの選択肢の間で迷う事があったら、常に自分のやりたくない方を選べ、死んだつもりならできるだろ、って言われました」

「……又、随分と無茶ぶりを」

「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。とことん開き直る内、違う風景が見えるんじゃないか? そう言われたら、そんな気もしまして」

「……真に受けたんかい、あんた」

「最初は心の傷が痛んだけど、その内にホラ、かさぶたを何度もはがすと皮膚が固くなって、血も出なくなるでしょ。あんな感じで、怖いと思う気持ちが薄れ、何も感じないように……」

 ん~、ソレ、克服したというより、アチコチ壊れてるだけの気がする。

 その時、史子はそう思ったが、今は言わない方が良いと思った。

「僕、今はもう一日24時間、ヤケクソの絶好調です。さっきの舞台だって、キリン役、ウケてましたよね? 見てて熱かったでしょ?」

 い~え、死ぬほど寒かった。

 その時、史子はそう思ったが、今は言わない方が良いと思った。
 
 あまりの不憫さに、自然と伏し目がちになる彼女の態度をどう見たやら、達樹は更に勢いづき、

「だから、これも今は大きな声で言えます」

「は?」

「史子さん、あなたはきれいだ! もっと、もっと、自信を持ってください!」

「はぁっ!?」

「そもそも僕が君を好きになったの、あの忘年会の時だと思ってますか?」

「違うの?」

「もっとずっと前からです。もう一目惚れだったんだから。誰が何と言おうと、僕にとって君は世界で一番、き、き、きれいな……」

 およそ似合わない台詞を大声で繰り返し、彼はゲフッと喉を鳴らした。腹を打ったせいか、続けて何度もゲホ、ゲホやった挙句、慌しく目を白黒させる。

 本物のキリンが何て鳴くか知らないが、多分、これほど情けなくはないだろう。やっぱり、相変わらずのダメ男。

 だが、この時の史子は、四年前のデジャブを感じつつ、当時とは違う暖かい気持ちが自分の中へ満ちて来るのを感じていた。





 それから数時間後。

 ライブ配信は終了して、静まり返ったステージの上に、徹也と亜理紗が並んで佇んでいる。

 まだ二人の間には赤い布を被った台座が置かれたままだ。

「……なぁ、これ、どうする?」

「徹也が一週間かけて作ったのに、無駄になっちゃったね」

「ああ」

「それで良いんだって、今は思うけど」

 顔を見合わせて溜息をついた後、亜理紗が赤い布を取り、徹也がベニヤ製の側板を外した。

 離婚式の小道具にしては、その中身は余りに異様だ。

 中央にカプセル状のガラス容器があり、先端が自動車用の点火プラグへ繋がっている。

「指輪をハンマーで潰す時、台座を強く叩くとプラグがスパーク、容器内のガソリンを引火させる。それで周囲1メートルくらい火の海になって、俺達、派手に死ねる筈だったんだよな……」

 徹也の指先がガラスの容器を弾くと、ガソリンの表面にさざ波が立った。

「おやおや、パンダさんにウサギさん、随分と危ない玩具で遊んでるんだねぇ?」

 暗いステージの端、闇の奥から声がする。

「誰だ!?」

 徹也が声の方へ駈け出す寸前、のっそりとカメのオルガン奏者がステージ袖から現れた。

「あなたは……」

「もしかして田宮の部下か?」

「い~え、キリン神父が言ってたでしょ。あたしゃ、あいつのボスなのよ」

 『中の人』が声をあげて笑い、意外とリアルで、少しグロくもあるカメのマスクが微かに揺れる。
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