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 存分に暴れ、信長は満足したようだ。倒れ伏せたまま、動けない襲撃者の頭目へと歩み寄り、
 
「さて、この曲者の処分だが」

 胴体を蹴飛ばして仰向けにし、上から顔を覗き込んだ。

「名乗れ。何処の手の者だ」

 初老の男は、悔しさに唇を噛み、伝う血の滴が地面に落ちる。

「今川ではあるまい。義元の狙いは、織田を一息に踏み潰すか、手もなく降伏させて、己の力を諸国へ見せつける事じゃ」

 先程とは一転して、老成した学者の如き怜悧な口調で信長は詰問する。

「俺を闇討ちにすれば、尾張を取れたとしても今川の狙いが挫かれる。
又、斉藤義龍でもあるまい。陰謀好きのあやつなら謀殺を躊躇うまいが、今は利が無い。俺と今川を戦わせ、両者の力が擦り減った後に漁夫の利を得る方が遥かに好都合であろう、し」

 信長の爪先が、男の砕かれた膝を踏み、苦痛の呻きを引き出す。

「俺に容赦の無き事、知っておるな。早う白状するが身の為よ」

「……美濃部久ノ進。明智城で小見の方様を警護しておった者じゃ」

 小見の方の名を聞いた瞬間、信長ははっと息を呑み、らしからぬ怯みを表情へ浮かべて男から後ずさった。

「明智の家中なら、城を攻めた斉藤義龍を恨むべきだろうが。オイ、何故、我が殿を狙うんじゃ?」

 沈黙する主の代わりに、藤吉郎が久ノ進と名乗った男へ訊ねる。

「それはそこにいる、織田家の棟梁が一番良く存じておるのではないか?」

 久ノ進は激しい憎悪の念を掠れた低い声に載せ、信長を睨んだ。

「信長殿、三年前、明知城が襲われた折り、あなた様は最後の最後まで援軍を出そうとはせなんだ。義理の母にあたる小見の方様が城内へ潜みおるのを承知の上で……」

「それは、他にも敵がおったから」

 代りに踏み出す藤吉郎の弁明を、久ノ進は最後まで言わせない。

「小見の方様だけではないのだ。貴様ら下っ端は知るまいが、あの時、明知城には帰蝶様もおられた」

「帰蝶様……そんな馬鹿な!?」

 藤吉郎は驚愕で目を見開き、利家は絶句している。

「元来、帰蝶様は余りお体の強い方では無い。無情な夫に遠ざけられた心労もあったのだろう。母である小見の方様を頼り、明知城へ移って療養なされていたのだ」

 利家は勿論、藤吉郎さえ全く知らぬ事実であった。

 帰蝶が清州城にいないという噂は以前から有る。
 
 病気がちな彼女が療養の為に城を出る位なら何度となくあったが、夫の監視下で常に過ごしていた筈だ。
 
 だからこそ、もし帰蝶が密かに城を出たのだとしたら、何らかの隠された意図があったに違いない。
 
 後を訊くのが恐ろしかったが、利家は久ノ進の話に耳を傾け続けた。
 
「明知城陥落の折り、明智入道様は小見の方様と帰蝶様を密かに城から出し、落ち延びる道を探しておられた。しかし、逃げる最中に帰蝶様は流れ矢を受け……」

「お命を落とされたのか」

 藤吉郎の言葉に答えようとして、久ノ進は言葉に詰まった。記憶が蘇ってきたのであろう。こみ上げる涙を堪え、星空を仰いで、

「手当の甲斐なく帰蝶様は息絶え、小見の方様もその場で御自害なされたわ。不甲斐なき我らの目の前で」

 握った拳を地面へ叩きつけた。何度もたたきつけ、傷ついた拳の先からも血が流れ落ちる。

「その恨みを晴らしに参ったのだな」

 信長が漸く重い口を開く。

「信長殿、死の間際、小見の方様よりお預かりした問いがございます」

「俺が増援を送らなかった理由であろう。なら、猿が答えた事の他には何も無い」

「いや、そんな筈はござらぬ!」

 砕けた膝の痛みに耐え、久ノ進は体を起こして、信長の前に正座した。

「小見の方様がおっしゃるには、帰蝶様を明知城へ送り届けたのは、いつもの警護の兵ではなく、森可成の手の者と川並衆の一団であったとか」

「家中を騒がせず、静かに帰蝶を静養先へ届けたかった故のう」

「小見の方様は、その時から不審に感じておられたそうにござる。そして、城が落ちる間際になっても援軍が来なかった事で、疑惑は大きゅうなった。御自身も、帰蝶様も織田から見捨てられたのではないかと」

 信長の目が又、苦し気に歪む。

「あなた様は川並衆を操り、常に隣国の動静へ目を配っておられるそうな。でありながら明知城を狙う斉藤の動きに気付かなかった筈はありますまい」

「殺められる危険を承知の上で、俺が帰蝶を送り出したと言うか!?」

「いやいや……信長殿、あなた様が自ら殺したも同然だと、そう私は申し上げておるのです」

「無礼なっ!」

 たまらず飛び出した藤吉郎を、信長は片手で制した。

「お前の、いや小見の方の読みが正しいとして、俺に何の得があるのだ。何故、俺が正室の死を願わねばならぬ?」

「斉藤道三様が鬼籍に入ってから、時が経ち申した。その下手人たる義龍が美濃の領主である以上、最早、帰蝶様に人質としての価値は有りますまい。
それでいて誇り高く、扱いづらいあの方を、あなた様は厄介払いなさったのでは?」

 久ノ進の舌鋒は、狂気じみた熱を伴い、矢継ぎ早に発せられる。

「それに、新しい女子が出来たのでしたな。あの生駒の女、あ奴も帰蝶様の死を望んだのではありませんか?」

 沈黙していた信長の形相が変わった。

 一転、凄まじい怒りが眼差しに漲り、久ノ進を貫く。
 
「川並の女と尾張の盟主。ふふっ、まことに良き組み合わせかも知れぬ。実の母から疎まれ、弟まで殺した梟雄の、胸に秘めた修羅を小見の方様は前から恐れておられた。人の形をした鬼ではないか、と」

 信長は足を上げ、久ノ進を蹴飛ばした。

 後ろに倒れ、顔を土で汚し、それでも久ノ進は笑う。身をねじるようにして笑い、呪いの言葉を吐き続ける。

「信長殿。いやさ、信長。これからも貴様は味方の命を己が欲の餌食と為す、そんな呪われた血の持ち主よ。だからこそ」

 久ノ進が最後に何を言いたかったかは判らない。信長の抜いた太刀が、初老の男の喉笛を貫き、彼から言葉を奪った。

「下郎……下郎が!」

 息絶えた後も、久ノ進の体へ信長は繰り返し太刀を振り下ろす。

 そして、爆発した狂気は、利家と藤吉郎にも向いた。
 
 一瞬、殺意の切っ先を向けられ、戦慄で利家の全身が凍り付く。以前、彼が十阿弥を切った時に信長が見せたのと同じ眼光だ。

 もう誰にも止められない。やはり、この人は何も変わっていない。
 
 だが、利家がそう思い、死を予期した直後に信長はふっと小さな吐息を漏らし、瞼を閉じて己の狂気に蓋をする。
 
 僅かに肩を落とし、刀を収めたその表情は何故か哀しげに思えた。利家のみならず、藤吉郎にとっても初めて見る主君の顔だ。
 
「利家、やはりそなたの帰参は許さぬ。このまま、何処へなりと立ち去るが良い」

 一言言い残し、利家に何も言う余地を与えずに信長は舞台の方へ歩き出した。
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