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第一章 今どきの話 (まさか、オヤジが恋敵!? 1)
しおりを挟む<1999年6月28日(月曜日)>
(1)
月曜日の五時限目に来る現国の授業は、いつだってヤバい。
都立・金浜高校2年2組、教室後方の窓際で、黒岩真希は怒涛の眠気に抗い、瀬戸際で持ち堪えていた。
黒板の前では担任教師の武藤が、四十過ぎて急速に剥げた後頭部を照からせ、教科書の小説を読んでいる。
芥川龍之介の傑作をあれだけつまらなく読むなんて、殆ど冒涜だよな。
一応、小説家志望の真希は口の中で悪態をつき、自分に気合を入れ直す。
光代特製の超大盛り弁当が腹に居座り、小雨がぱらつく気怠い空模様と、退屈な教師の朗読で気が遠くなりそうだが、授業中の居眠りだけは避けたい。いつもの悪夢を見て声を上げたら赤っ恥だし、今は他にもうなされそうな理由がある。
あの品川テロ事件の最中に見たオヤジの顔。鉄の塊みたいに見えたあの顔は、一体、何だったんだ?
勿論、何度も本人に訊いた。
でも、気のせいだと答えたきり、後はダンマリ。
じゃ、飛んできたジェット機の翼は何で弾き返されたんだよ!?
頭にきて食い下がると、俺の手前の地面に落ちて撥ねただけ、と轍冶は言う。違うと言うなら証明しろ、と真希を睨む。
何しろ異常な状況だったし、そこまで断言されると、自分でも気のせいに思えてくる。
それに、あの時は来宮七海の面倒も見なければならなかった。
轍冶を「ガンテツ」と呼んで抱きついた後、七海は意識を失い、取り敢えず二人で黒岩製作所まで運んだ。
すぐ医師に往診を頼むつもりだったが、その必要は無かった。
間も無く目を覚ました七海は、不思議そうな顔で真希、轍冶の顔を見回し、品川駅付近で彷徨っていた時の事を何も覚えていないと呟いたのだ。
自宅がある大森町から京急本線に乗り、北品川駅近くの進学塾へ向っていた所までは記憶があるらしい。ブラスバンドの練習で疲れており、ウトウトする内、気が付いたらここに寝ていたのだと言う。
おそらく寝ぼけた状態で電車を降り、野次馬の群れに流されて京浜道路を歩く姿が、真希の目に留まったのだろう。
それにしても何故、七海は轍冶のあだ名が「ガンテツ」だと知っていたのか?
こちらも答えは見つかりそうにない。「ガンテツ」も「光輪」も、七海には言った覚えが全く無いのだから。
それとなく前列の七海の席へ目をやると、視線を感じた彼女が振向き、少しはにかんだ笑顔を浮かべる。
ろくでもないテロ騒動の、唯一の収穫がこれだ。真希に彼女ができた。きっかけはどうあれ、仲よくなればこっちのもの。
本当の所、友達より若干マシという感じかもしれないが、七海と一緒にいると他の男子の羨望の眼を感じて、真希は最高の気分になった。
妬いた事はあっても、妬かれた事はない人生と遂にオサラバだ。
自然と口元が緩む真希の顔を又、誰かの視線が突き刺す。肌で感じて横目を向けると、なんと相手は戸川衣里。何か言いたそうな顔で真希を見、すぐに衣里は俯く。
もしかして、今頃、俺の良さに気付いたって感じ?
やたら調子の良いことを考えながら、真希は何度目かの欠伸を噛み殺した。
(2)
黒岩家の洗濯機は台所の勝手口を出た先、離れの小屋に設置されていて、職員の作業服まで一手に賄える業務用の大型である。
ドラム式の洗濯槽に大量の汚れ物を放り込み、福間伝は丸椅子の上の新聞紙を開いた。一息つくと台所の方から、芳しいポトフの匂いと光代の鼻歌が漂ってくる。
フフンフ、フフンフ、フフフフン、フン、フン、フフンフ~ン。
毎度おなじみ「サザエさん」のテーマソングを口ずさみ、又しても大量の具材を煮込んでいるようだ。先々週、ヒジキの煮物があれだけ余ったのに性懲りもない。
品川のテロ事件の後、結局、亜紀も美貴も家には帰ってこなかった。実際、それ所ではなかったのだろう。
カンイチ・タワー内の人質に死者が出ず、市街戦に巻き込まれた市民もいなかった点は奇跡的だが、負傷者は多く、物的被害も甚大で試算された復興費用は5億を超える。
世論の風向きも変わった。
あくまで内閣総理大臣の命令を受諾した後に動くという「防衛出動」の原則を破り、部下に緊急発進を命じた機甲自衛隊・笠井宗明幕僚長の責任を問う声がある一方、より迅速、且つ柔軟にテロ攻撃へ対処できる実働部隊の必要性が叫ばれている。
やれやれ、メカのドンパチはアニメの中だけで十分なのに、世間様は何でわかんないかねぇ……
伝は大きな頭を左右に振り、新聞紙を元の丸椅子の上へ戻した。
彼女を悩ます心配事は他にもある。例えば今、台所から流れ続ける鼻歌だ。同じテンポで延々繰り返される明るく呑気なフレーズは、何処か無理しているようにも聞こえる。
元々、光代にそういう傾向はあった。
決して体が強い方ではなく、特に高齢出産で真希を産んでからは年に何度か高い熱を出すのだが、そういう時は却って笑顔を絶やさず、家事も普段通りこなそうとする。光代が醸し出す大らかな温もりは、半ば天然、半ばは努力の賜物なのだ。
今年は特に体調がすぐれないみたい、と伝は以前から感じていた。
光代が辛そうに壁へ凭れていて、医者に診てもらったら、と直接勧めた事もある。そんな矢先、発生したのが品川のテロだ。
あれから光代は一層明るく振舞っている。それは即ち、身も心も、前より無理をしなければならない理由が生じたという事。
もしかして、原因はあの娘かしら?
真希の同級生だという来宮七海が家に運び込まれてきた時、顔を見た光代は確かに驚いていた。原因はわからないが、しばらく呆然と立ち尽くしていた姿が、伝の記憶に刻まれている。
しかも七海は、事件の後も何度か、黒岩製作所を訪ねて来た。
隠していても、身近にいれば光代の動揺が伝わって来る。轍冶だって感じている筈なのだが、特に妻を気遣う素振りは見せず、鉄面皮を崩さない。
鈍感なのか、それとも、あんな顔して年甲斐もなく若い女の子に鼻の下を伸ばしているだけなのか?
これが真希ぼっちゃんなら、舌先三寸で思いっきりイジれるんだけどねぇ……
いつもの妄想を右脳の隅でこねくり回し、伝は洗濯槽の回転を止めた。
静かだ。時には、こういう午後も良い。
衣類を取り出そうとし、ふと鼻歌が聞こえなくなったのに、伝は気づいた。続いて台所の方から、何か落ちた音がする。
「……奥様!?」
小屋を駆け出し、すぐ先の勝手口へ入ると、床に膝をつき、真っ青な顔で呼吸を整える光代の姿が見えた。
「奥様……奥様、大丈夫!?」
駆け寄る伝に、光代は気丈な笑顔を作る。
「フフ、ゴメンね。少し眩暈がしちゃって」
「お医者様、呼びます」
黒電話がある居間へ向うと、その腕を光代の手が掴んだ。
「だめっ!」
「……でも、奥様、ひどい顔色。近頃、具合の悪い日が増えてません?」
「みんなに心配かけたくないの。悪いけど、今の事は誰にも話さないで」
「……でも」
「体が弱いのは前からでしょ。それに、ちゃんとお医者様には行くつもりだから」
「……その内、じゃダメですよ」
「2.3日中に必ず。約束する、伝さん」
答が返ってくる前に、光代は自分の小指を伝の小指へ絡め、強引に指切りげんまんのポーズを作った。
最早、伝には頷く事しかできない。
まだ21の小娘だった頃、真希出産後の肥立ちが悪い光代の手伝いをすべく黒岩家へ奉公に来て、早や16年。
常に変人扱いされてきた伝を孤独の淵から救ってくれたのは光代であり、その健気で大らかな微笑みにだけは、未だどうしても逆らえないのだ。
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