狂乱令嬢ニア・リストン

南野海風

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320.新しい屋敷へ

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 周囲には、地を踏む派手な震脚の音がしただろう。
 私は頭の中で音がしたが。ガンと。

 皇帝の駆け付け一発。
 しっかりと震脚まで踏み、腰を入れて放たれた「氣」の拳。重くないわけがない。皮膚と肉を抜け骨を鳴らし内部を揺らす、しっかりとした拳だ。

 ――気に入った。実に面白いじゃないか。

 そうであろうとも。
 我々武人の挨拶など、これくらい単純でよかろうとも。なあ皇帝よ。

「――ふっ、フハッハハハハハァッ! 好いな! 好いなぁ老師! これは見まがうことなき子龍ではないか! 朕の渾身でも避けんどころか芯中一つぶれぬぞ!」

 ……子龍、か。

 古い言葉で、「龍」は「武」のことだ。
 器、闘争本能などという意味も含むが、総じて「武」で合っている、はずだ。

 そして「子龍」は、そのまま「武術の申し子」だ。なお大人でも使われるものなので、私が子供だから子龍と言われたわけではない。

「失礼した、客人よ。暫くおらなんだ武客ゆえ、嬉しすぎて抑えが利かなくなってしもうたわ。――其の方の龍、確と拝見した。どうか無礼を許されよ」

 拳を引き、佇まいを整え、右の掌に拳を納めて軽く頭を下げる。狂気の虎がすっかり形を潜め、理知的な人となっていた。

「ジンジ・カザナ・ルガンド六世だ。よろしく頼むぞ、子龍よ」

 やはりこれが皇帝。ジンジ・カザナ・ルガンド六世か。

「大変結構なご挨拶・・・をありがとうございます。私はニア・リストン、此度はお招きいただき恐縮です」

 もっと小さな頃に行儀作法で習い、今でもよく使うカーテシーで挨拶する。
 私も武人として挨拶したかったが、いつものドレス風のワンピースなのでこちらの方が相応しいだろう。

「ああ、先に言っておこう。其の方は客人ではなく武客、政とは切り離された存在である。言葉も礼儀作法もうるさく言う気はない。堅苦しいのはいらんぞ」

 ……?

「通じんか? 要するに其の方は武を乞われて招かれた客ゆえ、この国の武の師であり、朕の武の師でもあるということだ。弟子に気を遣う師など高が知れておるだろう」

 ああ、なるほど。
 武客の本当の意味がわかった気がする。

「ではそのように。ご配慮ありがとう、陛下」

「うむ」

 


 では食事しながら話でも――という流れになりかけたが、高官たちから「準備してない」「仕事が終わってない」などと言われ、皇帝は断念。

「……仕方あるまい。船旅で疲れておろう、今日は休まれよ」

 名残惜しそうな皇帝から辞去の許しが出たので、宮殿の敷地内に入る前に解散となった。向こうから走ってきて殴られたから、正確に言うと私は敷地に一歩も入ってないのだ。

 リントン・オーロンの案内で、今度は私に用意された家へと向かう。
 宮殿内にはないが、上段の浮遊区画にあるそうだ。

「リノキス。よく抑えたわね」

 道中、こそっとリノキスに囁きかける。

 皇帝が殴り掛かってきた時、私はむしろ皇帝より、後ろのリノキスの方が真っ先に気になった。

 まさか殺意まみれでカウンターでも仕掛けるんじゃないか、と。

 皇帝の拳は、別に当たったところで大したことがないのはわかっていた。
 が、リノキスのそれは違う。
 さすがにそれは止めるつもりだった。皇帝を殴っちゃダメだろう。

 そして実際反応していたのは、ミトの方である。
 私を守るために、前に出ようとした気配があった。

「いや、あれは違うじゃないですか……」

「違う?」

「お嬢様に害を与える気がなかったじゃないですか。襲い掛かってきたわけじゃないし、不意打ちでもないし。正面から『試す』って言ってましたし。あれで割り込むのはちょっと違うかと……」

 お、そうか。そうかそうか。

「やっとあなたもそういう武の機微がわかるようになったのね。そうよね、あれは武人の挨拶よね。挨拶の邪魔をするなんて野暮な真似は、むしろそれこそ失礼よね」

「……はは……そうですね。そんなの理解できるようになるほど鍛える気はなかったんですけどね……」

 疲れた顔で力なく笑うリノキス。何言ってるんだ、一番弟子。これからもばんばん鍛えるからな。




 しばし歩いた先の扉の前で、リントンが立ち止まった。

「ウーハイトン流の家屋より、アルトワール風の家屋の方が過ごしやすかろうという配慮から、こちらのお屋敷を用意しました」

 と、カギを差し込み扉を開ける。

 中は……おお、確かにアルトワール風の小さな屋敷がある。庭の手入れもしっかりされていて、まるでここだけ故郷にあるかのようだ。

「修行用に庭は広く取っておりますが、お屋敷はそんなに広くありません。少ない使用人で回せる程度の家でいいと仰っていたので……」

「ええ、充分だわ」

 元から家の広い狭いは特に気にしてないし、修行スペースが広いのは助かるし。これくらいがちょうどいいだろう。

「リノキス、ミト、荷物を運んで」

「「はい」」

 元から多くない荷物を持って、二人は屋敷へと向かう。重く嵩張る荷物は後から届けられる予定である。

「先程陛下も言っていましたが、今日のところはゆっくりお過ごしください。ウーハイトンから使用人を出したり、見張りの兵を出したりもできますので、必要なら言ってください」

 うん。
 ウーハイトンの勝手がわかっている現地人の使用人は、きっと必要になると思うので、リノキスたちと相談してから決めたいところだ。



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