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厄難 1

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 そのあとも、伯爵夫人はエリックにべったりで、カペラの入り込む隙はなかった。
 馬を並べてゆっくりと帰路についたが、エリックの前に横座りになった伯爵夫人は、潤んだ瞳で彼から目を離そうとしない。
『誰にでも体を許す女だ』
 グレン侯爵の言葉が脳裏を過った。
 まさか、使用人にまで――とは思うが、『誰にでも』というのであれば、エリックも狙われている可能性がないわけではない。
 カペラには全く面白くない話ではあるが。
 伯爵夫人に迫られたら、エリックはどうするだろうか。
 彼のことだから、大切な客人を無碍に扱いはしないだろう。それも仕事のうちと割り切るか、あるいは彼女の魅力に堕ちてしまうか――
 そんなことを考えていたら、面白くなさそうに僅かに唇を突き出したところを、ちらりと横目で伺った伯爵夫人に見られてしまった。
 赤い唇の端が下劣な笑みをカペラだけに見せ、彼女は手をエリックの頬に伸ばす。

「その深い茶色の瞳……。とても、神秘的で――、吸い込まれそう」
 ゆっくりと唇が狙いを定めて迫っていく。
 彼女の行動が目に入っていないわけではないだろうに、エリックは先ほどと同じく平然と、まっすぐ前を向いたまま馬を操っている。
 目をそらしたいのだが、進行方向を向いていると、どうしても目に入ってきてしまう。
 あと十数センチ――
 エリックがあの真っ赤は唇で穢されるのは、見たくない。とはいえ、立場上やめてとも言えず、カペラはただ唇を噛んで見ていることしかできない。
 なにか、エリックか伯爵夫人の気を引くことが出来ればいいのだけれど――
 カペラはまっすぐ前を向いたまま、視線だけを周囲に巡らせて何か使えるものはないかと探る。
 来る時みたいに小動物でも駆け抜けてくれればいいのだが、タイミングよく現れるはずもなく。
 こうなったら、わざと落馬して、エリックの注意をこちらに向けてしまおうか。あるいは、道を外れるか――いや、二人きりにするのは逆効果かもしれない。
 カペラが案を練っていたところで、エリックが静かに口を開いた。
「失礼ですが、ルセイヤン伯爵夫人。前がよく見えませんので、少し頭をお下げ頂いても構いませんか?」
 彼女の唇はエリックの唇まであと指一本分というところだった。
 まさか、彼女の魂胆に気が付かないわけでもあるまいに、彼は依然として正面を見据えたまま、伯爵夫人に冷やかにそう言い放った。
 彼女は「あら、ごめんなさい」と悪びれもせずに口にすると、唇を奪おうとしていたことなどなかったことの様に、大人しく元の体勢に戻る。
 そして、エリックの胸に肩を預けるようにもたれかかり、鼻にかかった声で親しげに会話を再開した。

「ねえ、エリック。あなた、出身はどちら?」
 彼女は下からじっと彼の瞳を覗き込んでいる。
 薄い青か緑色がベースとなった虹彩を持つ者が多いこの辺りの地方では、見かけることのない濃茶色ダークブラウンの瞳の色が気になったのだろう。
 カペラは耳をそば立てる。
 事情を知っている彼女は、わざわざ彼に出自を聞いたことがなかったが、この十年で、彼の記憶が戻っていないとは限らない。
 しかし、エリックの口から洩れたのは「……わかりません」という残念そうな声だった。
 だが、伯爵夫人は逆に答えをはぐらかされたと思ったようだ。
「あら、それで誤魔化しているつもり?」
 申し訳なさそうにエリックは事情を簡単に説明したが、それを聞いても伯爵夫人の瞳に宿る好奇な色は消えなかった。
 それどころか、その記憶を掘り出してみたいとばかりに輝きを増している。
「いつだったか、あなたの様に深い茶色の瞳の色の少年を、どこかのお屋敷で見たことがあるわ」
「……」
「商人と一緒だったかしら。たしか、海の向こうから連れられて来たと言っていたけれど――」
「海――」
 何か感じ入ることがあったのか、珍しく彼は見るともなしに空を仰ぎ、伯爵夫人の言葉を反芻するように口にする。
 彼が前方から注意をそらしたその時だった。
「いやぁ――っ!!」
 静かな森の空気を高い悲鳴が切り裂いた。
 その声を耳元で聞かされ、驚いた馬が急に速度を上げて、暴走し始める。
 エリックは伯爵夫人が振り落とされないようにしっかりと片手で抱きかかえ、もう片方の手で手綱を引いて御しようとした。
 しかし、馬は速度を落とすことなく、何かから逃げるように――あるいは、背中の異物を振り落とさんがために、森の木立の中を急に進路を変えながらジグザグに駆け続ける。
 馬の背の上でエリックはなんとか体勢を整えようとしているようだったが、上下左右の激しい揺れに翻弄され、上手くいかないようだ。
「振り落とされないように、しっかり馬の首にしがみついていてください」
「え……ええ――」
「運が良ければ、止まります。ただし、その体勢では落ちると馬の下敷きになりますから、決して落ちないように」
 伯爵夫人を安心させるためにっこりと笑ってエリックは言った。
 それからタイミングを計って、伯爵夫人を前方――馬の首の方へ押し付ける。
 その途端、ただでさえ敏感になっていた馬が、首にしがみつかれた刺激で急に進行方向を変え、エリックを振り落とした。
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