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二人きりの時間 2
しおりを挟むカペラが乗馬用の服に着替え外へ出ると、用意された馬が首を横に振っただけで怯えた伯爵夫人が、侯爵の腕にすがりついたところだった。
横乗り用の鞍がつけられた馬は、おとなしそうな瞳をしていたが、伯爵夫人が大げさに怖がるものだから、幾分か神経を高ぶらせているようにも見える。
「そう怖がっていては、馬も不安になります。初めてではございますまい?」
「ええ。ただ、いつもは後ろから支えてくださる方がいたものですから。……すぐに慣れます。前で馬を引く者をつけていただければ――」
「そんなことをしていたら、日が暮れてしまいますよ」
どうやら一人で乗った経験がないのか、浅いらしい。
侯爵はエリックとカペラの方を確認した。
両脇に荷物を積んだエリックの馬には、さらにもう一人乗れる余裕はなく、カペラには相乗りできるほどの腕前はなさそうだと判断した彼は、自分の馬に跨ると、馬上から手を差し出した。
「では、私の後ろにどうぞ。エリック手伝って差し上げろ」
「失礼します」
彼女の細く絞られた腰にエリックが手を当て、軽々と持ち上げる。
馬上で侯爵の腰に両手を回し、その背中にぴったりと胸を押し付けた彼女が、ちらりとカペラを伺い、勝ち誇ったように微笑んだ
目の端でそれを捉えたカペラは、ぷいとまっすぐ前を向き、慣れた様子で馬に乗ると手綱を緩める。
荷をつけた馬に乗ったエリックが彼女を先導するように少し前に出た。
後ろから侯爵が伯爵夫人を気遣う会話が聞こえてくる。
続いて、彼女の媚びるような嬌笑。
伯爵夫人の一挙手一投足――いや、存在自体が、いちいち彼女の心を揺さぶってくる。
わざとだろうか。
ふとそんなことを考えたが、カペラは小さく首を横に振ってまっすぐ前を睨み、目的地へと意識を向ける。
今はわけのわからない感情に振り回されている場合ではない。
彼女がグレン侯爵の元へ嫁いだ目的ははっきりしている。
そこに、愛だの恋だのが絡まるから、不安になるのだ。
カペラは大きく息を吸い込んだ。
森の中の空気は湿気を含んではいるが、雨で汚れが洗い流されたせいか、すがすがしささえ感じられる。木立の間を規則正しい上下のリズムで走り抜けていると、気持ちが平常へと導かれていくようでもあった。
やはり馬を選んだのは、正解だった。
未明の決意を思い出している彼女の横を、侯爵と伯爵夫人の乗った馬が速歩で通り抜けていく。
ルセイヤン伯爵夫人の甲高い笑いと、もっと速くとせがむ声がカペラの耳をつき、落ち着きかけた心を乱した。
せっかく気持ちを切り替えようとしていたところを邪魔されたような気がして、カペラはわざと馬の速度を落とす。
どうせ向かう先は同じだ。エリックもいることだし、道に迷うこともないだろう。
カペラは二人が走り去って行った方向を見つめてため息をついた。
「――気になりますか、侯爵様のこと?」
気がつくと、エリックが隣に馬を並べていた。
「そうじゃない、けど――」
いつもなら、心配をかけまいと強がっていたかもしれない。
けれど、それができないほど、彼女の心は不安定になっていた。安定させねばと思えば思うほど、焦りと苛立ちのせいで上手くそれができない。
グレン侯爵の考えも、エリックの気持ちも、よく分からなかった。伯爵夫人の目的も。
木漏れ日が葉の上に残っている雨の露に反射してきらめき、カペラは目を細めた。
静まり返った森の中に、馬がゆっくりと枯葉を踏む音だけが規則的に響く。
侯爵たちはすっかり先へ行ってしまったようだ。
不意に、二人きりなのだと気がついて、カペラの頬が熱くなった。
アルダートン城に移ってきてから、いつも彼はグレン侯爵のそばに控えていて、ゆっくりと話をする機会はなく、こんな風にゆっくりと二人きりになるのは、本当に久しぶりだ。
今なら、聞いたら、答えてくれるだろうか。
彼が自分を――毎晩侯爵の目の前でカペラに快楽を与えることを、どう思っているのか。
せめてそれが分かれば、エリックを素直に受け入れることも侯爵に抗議することもできる。
カペラは小さく喉を鳴らした後、思い切って口を開いた。
「エリックは――」
ガサッ――
カペラの言葉の途中で木の上を小走りに何かが駆け抜け、頭上から水滴が落ちてきて、エリックの意識がそちらへ向かう。
小動物の通り過ぎて行った方向を見つめていた彼が、カペラには視線を戻したときには、カペラの決意はすっかりどこかへ行ってしまっていた。
時に黒に見紛う深い茶色の瞳が彼女の心をぎゅっと掴み上げたかのように、胸を苦しくさせる。
一瞬、舞踏会のあったあの日の午後に戻ったような錯覚にとらわれた。
別々の馬に乗っていなければ、吸い寄せられるように唇を重ねていたかもしれない。
「……リス、かしら?」
自分の不埒な想像を掻き消すように、わざとカペラは明るく言った。
「大きくありませんでしたから、そんなところでしょう」
たいして意味のない質問にも律儀に返すエリックは、あの時と何も変わってはいない。
変わったのは、カペラを取り巻く状況だけだ。
二人で馬を走らせ、高台からサーシスを見下ろしたあの日。――エリックと一緒にサーシスの農業を再興させていく夢を見ていた。
施工するための資金がなかったが、今思えば、彼さえそばにいて支えてくれるなら、二人の関係がどうであっても、あれはあれで幸せだったような気もする。
でも今は――と、そこでカペラは考えを止めた。
侯爵の代理人とはいえ、エリックはカペラのそばにいて、あの時はただの案だった潅漑工事も着工されている。
その変化は、悪化ではなく、むしろ前進ともいうべきもので――これ以上、何を望むというのか。
「すみません、先ほどはよく聞き取れませんでしたが、なんと聞かれましたか?」
「えっと、あの、エリックは……侯爵、のことを、どう思っているのかな、って」
本当に聞きたかったことはそんなことではないのに、自分に対する気持ちを再度聞く気を失くしてしまったカペラは目的語を変えた。
せめて、彼が嫌な思いをしていないのなら、それでいい。
「ああ。――そうですね、頭の切れる方だと思います。ただ少し皮肉屋なところはありますが」
何かを思い出すように苦く笑ってそう答えたエリックに、カペラは彼らの関係の強さを感じさせられた。
ただの主従というだけではない、何か。
「そうじゃなくって、……好き?」
「好きか嫌いかの二択であれば、好きな方です」
何のためらいもなく、イチジクのコンポートは好きかと聞かれて好きと答えるような気軽さで彼は答えた。
カペラが聞きたいのは、そんな軽い答えではない。なんとなくはぐらかされたような気もして、カペラはもう少し突っ込んで聞いた。
「嫌なこととか、されてない?」
「嫌なこと、とおっしゃいますと?」
「その、夜……とか、遅くまで侯爵の書斎、に、いるみたいだから――」
「まあ、――確かに、そういう意味では侯爵様は精力的ですね」
わずかな変化も見逃さないようにと、じっと見つめるが、いつもと同じ、冷静で穏やかな彼の表情の裏に、カペラは何も読み取ることが出来なかった。
本当に、二人の間にカペラが思うようなことはないのだろうか。
「そ、うなんだ。……嫌じゃ、ないの?」
「新しい発展や進展があるので、苦ではありません。お嬢……カペラ様にお気遣いいただくほどのことではございませんよ」
「私は……」
気遣っているわけではない。
エリックを侯爵に取られたような気がして――ただの、嫉妬だ。
そんな感情を持った自分が急に恥ずかしくなって、カペラはエリックから目をそらした。
「私よりも、カペラ様のほうが、心痛をお持ちなのでは?」
「え?」
「ここのところ、沈んだ表情をされていらっしゃいます」
「……」
「おこがましいですが、もしもそれが私のせいなのでしたら――」
「違うの!」
いきなり上がった大きな声に、馬の耳がピクリと反応した。
カペラは慌てて首筋を撫で、落ち着かせる。
「それは……違うの」
「……どうやら、私のせいらしいですね」
顔をあげたカペラの目の前で、エリックが申し訳なさそうに目を伏せて首を振った。
「――十年も近くでお嬢様を見てきたのですよ。嘘をつかれているときは、すぐにわかります」
「……」
無意識に引かれた手綱に従順に、カペラの馬の速度が落ちる。
エリックも、まるでカドリールでもしているかの様に、速度を落として彼女の隣に馬を並べた。
「……私の立場で、こんなことを口にするべきではないと分かってはいますが、口にすることでお嬢様が安心なされるなら――」
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