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初夜 1

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 廊下の向こうから祝宴の賑やかな様子が聞こえてくるのに交じって、金属の擦れる高い音が聞こえてきた。司祭の杖の先に取り付けられた輪の音だろう。
 聖水と香を携えた侍者を伴って、初夜の褥を祝別にむかってきているようだ。
 グレン侯爵が、公爵夫人が出たのとは違う扉を開け、入るようカペラを促した。
 数本のロウソクが灯された薄暗い部屋の真ん中に天蓋付きの大きな寝台が横たわっている。
 カペラはゴクリと唾を飲んだ。
「初めて、か?」
「あ、当たり前です」
 意外そうに侯爵は眉をあげた。
「……なんですか?」
「いや、別に」
 拳を口元にあて、何かを考え込むように視線を落とした侯爵。
「……好きな男は、いないのか?」
「あなたには関係ないでしょう」
 カペラの頬がさっと赤く染まったのを見て彼はにやりと嗤った。
「確かに、関係ないな。――ほら、さっさと入れ」
 侯爵が扉を閉めると同時に、廊下に面した扉が開いた。
 司祭の後ろから公爵夫人が納得がいかない目つきで二人に視線を走らせる。
 その視線に、カペラの背筋が伸びた。背後で、グレン侯爵が鼻で嗤う。
 そんな中、居心地の悪い雰囲気を掻き消すように、司祭が杖を振り褥の祝別の儀式が始まった。
 神妙な顔で祝詞を唱え、錫杖を鳴らし、精霊に祈りをささげて、灌水器から聖水を振りかける。それから再び祈り言葉をささげた後、寝台の周りに麦をまいて、香油を二人の額に塗った。
 カペラはその儀式の間中、ほんの数か月前までは修道院にいたというのに――と考えていた。
 今、婚約をし、初夜を前にしているなど、信じられない。


 祝別が終わると、司祭と介添人の見守る中、グレン公爵が彼女を軽々と横抱きにした。
 それが儀式の一環だとはわかっていても、いや、わかっているだけに、この後の展開を想像して小さく身震いする。
 ただの儀式だから――
 自分にそう言い聞かせつつも、数度しかあったことのない相手に全てを曝け出し、初めてのことに身を委ねるというのは、不安であり、怖い。
 そして、自分たちのその行為を他人に見られているというのだから、さらに羞恥もある。
 そんな彼女の耳元に、侯爵はそっと唇を寄せた。
「ただの儀式だ。……お前は横たわっているだけでいい」
「侯爵は……、ずいぶん慣れていらっしゃるのですね」
 カペラがそう言うと彼はわずかに驚きを見せた。
 そして、彼女の真意を探るかのように瞳を見つめ、ふっと表情を和らげる。
「悪いが、俺も初夜は初めてだ」
 その意味を考えているうちにカペラは寝台に座らされていた。
 彼の背後の暗闇からの十数名の視線がまるで射止めてでもいるかのように、カペラの身を固くさせる。
 司祭、従者、介添人の公爵夫妻、タナス公爵夫妻らが見守る中、侯爵は自らの衣服を脱ぎ捨て、下穿き一枚になり、彼女の前に膝をついた。
 横たわっているだけ、と言われても、普段ならひっそりと闇に紛れて行われる営みが、あからさまに公開されるのだ。気にしないようにしていても、やはり視線が気になる。
 夜着の上から彼の指が、脹脛から膝を撫で始めた。
 ただそれだけのことなのに、わずかなすきに襲い来る、くすぐったさに似たその感覚に、漏れそうになる声を固くしなければならない。
「声くらい、聞かせてやれよ」
「ですが……ひっ」
 やはり恥ずかしいものは恥ずかしいと、言いかけたところで、侯爵の指が脇腹を滑った。
 彼女の反応に、「色気が足りないな」と彼がいたずらげに笑う。
「こ、これまで必要のなかったものですからっ」
 侯爵にだけ聞こえるようにカペラは声を荒げ、彼を睨みつけるのだが、この程度のことでは百戦錬磨と噂の彼に効くはずもなく、「褒めているのだよ」とさらりと受け流された。
 渋々口を閉じざるを得なくなったカペラは不本意を露わに、唇を突き出す。
 頬に添えた手の親指で軽く彼女の唇を撫でた侯爵は、耳朶を軽く食んだ。
「気が乗らないのもわかるが、見世物ショーだと思って、演技の一つでもしてもらえるとありがたいのだが」
 首筋に触れる唇の動きで、彼がニヤリと笑ったのがわかり、なんとなく経験が浅いことをバカにされたような気になった。
「お言葉ですが、私はあなたとは違って――」
 カペラは、その後を続けられるほどこの人のことを何も知らない。
「俺と違って、なんだ? 自分は高潔だとでも?」
 その言葉に彼女が何も言えなくなったのを確認すると、侯爵はゆっくりと彼女を押し倒した。
 儀式であろうと見世物であろうと、カペラにとっては違いはない。冷やかな空気に触れるにしたがって体の中の温度が上がっていくのが分かる。
 熱くなった頬を手で覆うと、グレン侯爵が気を利かせてくれたのか、それともしきたりなのか、寝台の紗幕を下ろし、そこに二人きりの空間が生まれた。
「気にするな、向こうからは見えない」
 そうは言われても、紗幕を通して、ろうそくの炎に照らされた彼らの顔がうっすらと見える。
「――どうしても気になるならこちらに明かりを入れてもいいが? 無論、そうすると向こうからこちらが丸見えになるがな」
 愉快そうに侯爵が嗤う。
 面白くなさそうにカペラが唇を突き出したところへ、彼が身を乗り出し、覆いかぶさってきた。
 きぃと寝台が音を立てる。
 幕の向こうで息を飲む気配がしたのは、カペラの気のせいだろうか。
 視線をやると心なしか彼らが身を乗り出しているようにも見える。
 寝台が軋むのなど気にも留めずに侯爵はゆっくりと体重を移動させ、カペラの右側に体を横たえた。
「まだ、何か気になることが?」
「……あの……、音が……」
「そのくらい聞かせてやれ。――こっちで勝手に盛り上がっていれば、あいつらも我慢できなくなって出ていくさ」
 向こう側からは見えないとはいえ、二人の様子を窺っている様子がカペラからはよく見える。
 カペラには、司祭は別として、残りの面々に神聖さとは反対の――卑俗な視線を向けられているような気がしてならなかった。
「それができないなら、目をつぶって、好きな男に抱かれるところを想像することだな」
 大きな手のひらが彼女の視界を塞ぐ。
 そのまま、耳たぶを軽く噛まれると甘い吐息が彼女の口から漏れた。
 乾いた掌が、彼女の体を確かめるように、そっと脇腹のあたりに触れる。
 ぴくり、と腰が跳ね、寝台がぎっと音を上げた。
 構わずに侯爵の指はカペラの夜着の上を滑り降り、膝の辺りまできたところで、夜着の裾をたくり上げ始める。
 腰骨辺りまでめくれあがったところで、彼の手が夜着の中へ入り込んできた。指先がゆっくりと上へ向かうに従って、ぞわり――と、肌が粟立っていく。
 粟のような小さな痺れが頭頂まで達したとき、彼女の口から声が漏れた。
 紗幕の向こう側で喉を鳴らす音が聞こえたような気がしたが、侯爵の親指がその柔らかさを味わいながら下乳のカーブをなぞり、脇を撫でていくと、空も次第に気にならなくなり始める。
 触れられてもいない額のあたりがぞわぞわ落ち着かなくなってきたころ、腹部を今までとは違った――生暖かくざらりとした感触が通り過ぎた。

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