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後日談

PET

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「ちゃんと、見積もり、もった? カタログは? ……はい、行ってらっしゃい。――ああっ、肝心の鞄忘れてるっ!!」

 正面の机の上から黒いビジネスバッグを手に、バタバタと扉を慌てて飛び出していく背中に揺れる茶色の巻き毛を見ながら、私は思わず頬を緩めた。
『辞めさせてやる』と宣言されたあの一連の騒動から、丸二年。
 私は相も変わらずアサヒナ商事で、そろそろ日常となりつつあるこの光景に目を細めている。
 昨年、私のお気に入りのこの会社に社員が一人増えた。社長がまたどこかからのコネで高校卒業したばかりの男の子を入れたのだ。
 社員が増えても、狭い事務所の中にこれ以上机は増やせない。結果、彼は草壁君と共同で机を使用している。共同とはいっても二人とも、外回りがメインの仕事だから、特に支障はなさそうだ。たまに二人が揃う時でも、折りたたみ椅子を引っ張り出して二人で文句も言わずに使っている。
 いや、机については問題ないのだけど――

「もぅ! 智世子さん、笑い事じゃないですよ」

 絵梨花ちゃんがぷんすか怒りながら、事務所へ戻ってきた。その表情には、無事鞄を届けられた満足がうっすらと浮かんでいる。
 世話を焼くのが好きなのだろうか。それとも新入社員の平部ひらべ君が年下のせいか。絵梨花ちゃんは、平部君の入社以来、実に生き生きとお姉さんぶりを発揮している。

「絵梨花ちゃんが頼もしいなって、見てたのよ」
「頼もしいって、平部君がしっかりしなさすぎなんですよぅっ!」

 仕事が身についてきたという充実感もあるのだろう。
 パソコンを使った仕事は、ようやく一人でもできるようになってきた。お茶が激マズなのは、変わらないけれど。

「草壁さんなんか、入社した時から出来るって感じだったのに、なんで平部君は――」
「新入社員って、普通そういうもんでしょ。それを、サポートしながら育ててあげるのが先輩の役目ってもんよ」

 その言葉に「えへへ、《先輩》かぁ……」と絵梨花ちゃんの表情がにへっと崩れた。

「先輩といえば、智世子さんは、草壁さんとはまだ結婚しないんですか?」

 交通費の精算の書類をまとめていた手が一瞬止まった。
 自然と、視線が左手の薬指の石つきの指輪に止まる。
 これを草壁君からもらってから、もう、二年になるけど、具体的に結婚という話にはなっていない。
 いや、付き合い始めたころに『絵梨花ちゃんがちゃんと仕事ができるようになるまでは、具体的には考えられない』と言ったのは私だ。
 でも、失敗しながらも絵梨花ちゃんは上手くできるようになってきているし、平部君が来てからは、それも少なくなってきた。
 私の残業もこのところ減ってきたし、それに気付かない草壁君ではなさそうだけど。
 良く考えてみれば、プロポーズはされたものの、具体的な話は、あれ以来、一度も出ていない。
 そんなことに気がついてしまったら、いてもたってもいられなくて、休憩時間に、絵梨花ちゃんに内緒で、私は草壁君にメールを打った。

***

 定時で上がって『チュンパカ』に行くと、あの狭い個室のカップルシートに、すでに草壁君が来ていた。

「早かったね」
「そりゃ、智世子さんからの呼び出しは、何よりも優先ですから」
「営業車は? 会社に戻ってなかったけど」
「内緒で家においてきました。会社には直帰って言って――」

 まだ時間が早いせいか、店内は結構すいていて、ビールはもとより、オーダーしたつまみや料理もすぐにサーブされる。
 軽くジョッキを合わせた後、言葉の途中で草壁君は、幸せそうに大きく息を吐いた。
 よほど空腹だったのか、草壁君は出された料理を私の分までとりわけると、時折おいしそうに頷きながら次々とお腹に納めていく。
 それはそれは幸せそうで。
 結婚して一緒に暮らすようになると、この光景が毎日見られるんだ。
 なんて、草壁君の取り分けてくれたお皿に手をつけながら考えていると、胸の奥がちりりと反応した。

『幸せになる自信があります』

 そう宣言した草壁君は、確かに私のいる前では、何をするにしても幸せそうに見えた。多分、私がいないところでも、そんな風に笑える人なんだろうとは思う。
 幸せそうな草壁君を見ていると、私の胸の奥がじわんと暖かい熱を帯びてきた。
 何が私の幸せかなんて、今でもほんとは良くわからない。
 でも、この人と一緒にいると、胸の奥があったかくなって、頬が緩んでくるのは確かだ。
 私はちょうどジョッキを手に取った草壁君の左手の薬指に視線を落とした。
 今はまだ何もないそこに、所有印を刻める権利を、私は持っているのに。

「……け。結婚……とか、どう考えてる?」

 ジョッキを置いたタイミングで声をかけると、草壁君が目を瞠った。
 唐突、過ぎただろうか。

「あ、いや、今すぐ、したいってわけじゃないけど、草壁君は、どうおもってるのか、な……と、思って――」

 不安がないといえば、嘘になる。
 私も、もう三十二だ。
 二年前に草壁君と付き合い始めたのだって奇跡に近いのに、ここで放り出されたら、もう結婚のチャンスはないだろうと、思う。

「智世子さんは、どうしたいの?
「私は……」

 結婚したい、って、素直に言えればかわいいのに、そうできないのが、私だ。
「――く、草壁君がどう思っているのか、知りたい」
 すると草壁君は、少し考えてから口を開いた。
「二年も付き合ってて、まだ俺のことがわからない?」
 草壁君の従順そうな表情がすっと、妖しげな笑みに変わる。
 こうなったら、たいていは私の負けなんだけど、なんとか抵抗をしようと、私は虚勢を張ってみせる。

「じゃ、じゃあ! 草壁君だって、二年も付き合ってたら、私の思ってることも、分かるでしょ!?」
「分かりますよ」

 草壁君は、目許を緩めたまま、余裕で口の片端を上げた。
 だから、そうやって、嗤うの、やめて。――というか、

「分かるなら、なんで、そうしてくれないのよ」
「智世子が、大事だから」

 私が一生懸命になればなるほど、草壁君のにやにやは大きくなっていく。
 そんな風にされると余計に、熱くなってきて、口調が強くなった。

「大事だったら、普通、そうしてくれるよね?」
「俺、普通じゃないのかも」
 けれども、一生懸命吠える私を、草壁君は余裕であしらう。
「普通じゃないって――?」
「大事だから、智世子さんには、命令されたい」
「なにそれ? じゃ、私が、いま、ここでキスしてって言ったら、そうするわけ?」
 私ならできそうにないことを敢えて、選んだのに、草壁君は僅かな躊躇いも見せずに、私の頬に手を添えて、優しく唇を重ねた。軽くついばみ、舌の先で突かれる。
 意表を突かれて固まった私の唇を、草壁君の舌が割り入ろうとしたところで、私は慌てて草壁君の胸を押し戻し、身体ごと退いた。

「ちょ――、今の、たとえ話なんだけど?」
「分かってる。でも、そう言われて、したくなった」

 なんのてらいもなく、しれっとこんなことを言う。
 それとも。
 こんなことくらい、草壁君の年代の人には普通のことなのだろうか。
 売り言葉に書い言葉のこんな会話も、動じることなく、むしろ楽しんでいるように見せられると、私は、余計に素直になれなくなっていく。

「したいって言われたら、するの? ――ここで、エッチしたいって言ったら?」
「ここだと、ちょっと狭いけど、智世子さんがそうしたいなら」

 これまた照れも恥ずかしさも見せずに、むしろ嬉しそうに草壁君は私の腰を引き寄せた。
「ちょちょちょちょっ――」
 慌てて制すると、草壁君はいつもの従順そうな笑顔に戻って、「冗談ですよ」とクスッと笑った。
 はい。私の負け。
 こんな時、草壁君はいつも、不服そうに唇を少し突き出した私を宥めるように、二三度かるく頭を撫でてくれる。
「髪、伸びたね」
 その瞳がすごく優しい。
 ひょっとして、草壁君に撫でられるために伸ばしてるの、気付かれただろうか。
 髪の間に指を入れられ、梳かれる時間をちょっとでも長く楽しめるように。
「――場所、変えようか?」
「そんなつもりじゃ――」
「その気に、なったんでしょ?」
 甘く触れる瞳に絡め取られて、私は、小さく頷いた。



「ここ――」
 連れてこられたのは、ヨーロピアンな雰囲気漂うガラスの自動ドアの前。ショーウィンドウの向こう側に、シンプルで上品なレースをあしらった純白のウェディングドレスが飾られている。
「良かった、間にあって」
 草壁君は躊躇うことなく、ガラスの扉の前に立った。
 ゆっくりと、ドアが開いて、その向こうから、クラッシックの音楽が流れてくる。
 目の前に突如現れた別世界を前に、私は足が竦んだ。
「どうしましたか?」
 それに気がついた草壁君は、一旦は越えた境界線を戻ってきて、私の手を取った。それでも、私の足は抵抗している。
 小さく息を吐いた草壁君が、邪魔にならないように、ドアの前から少しずれると、異世界への扉が閉まり、音楽が途絶えた。

「草壁君、男子のくせに、なんで、そんなにすんなり入れるのよ」
 この言い方はちょっと差別的だったかな、と後悔したけれど、草壁君は気にすることなく、特上の――期待を込めた笑顔を私に向ける。
「もう、二年も待たされたんですよ。心の準備は十分出来てます。さ、智世子さんも――」
「わ、私の心の準備、は、まだ出来てないんだけど」
「その気になったんでしょ?」
 もう一度そう言われて、その意味がやっとわかった。
 待たせていたのは、私。
 草壁君はただ「ヨシっ」って言われるのを――私の口から「けっこん」という言葉が出るのを待っていたのだ。まるで、躾の行き届いた犬のように、「待て」と言われたから、急かすこともせず。

「ああ、もう――なんて、行儀のいい従順なワンコ……」
 あまりにも面映ゆくて、それを何かで隠そうと焦っていたら、つい、口から漏れた。
 自分の彼を犬呼ばわりするだなんてあまりにも失礼すぎると「ごめん、ペット扱い――」と、慌てて取り繕おうとしたけど、この言葉も、草壁君の笑みを引き出す要因にしかならなかったようで。
「ペットで、良いですよ。英語だと『お気に入り』って意味もあるし、それから、『優しく撫でる』って意味の動詞も」
 言いながら、臆面もなく、草壁君はもう一方の手で私の髪を撫でた。
 その瞳が、甘く揺れる。
 吸い込まれそうになって、私は「ここ、じゃ、だめ」と、草壁君と、それから自分に言い聞かせるように絞り出した。
 草壁君は、真っ赤になった私の反応に、満足した笑みを向ける。
 初めから、それを狙っていたのかもしれない。

「でも、ときどきこんな風に暴走してしまいますから、ちゃんとリード、握ってて下さいよ、智世子さん」

 草壁君に耳のすぐそばでそう囁かれて、耳はもちろん、胸の奥もくすぐったくなった。
 ――こ……この、ワンコは――っ!
 従順だけどしたたか。
 私はいつもそれに翻弄される。
 こうやって混乱させられて、最後はいつも草壁君の思い通りになるのは、ちょっと悔しいなんて思いつつ、犬にリードを引っ張られる飼い主の如く、ウェディングサロンへの境界線を跨いだのだった。

<おしまい>
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