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チョコミントメロンパン

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 その夜。
 あんな――返事もちゃんとしなかった約束、もう反故になっているかもしれないと思いつつ、私はいつもより早めに作業を終えた。
 時計を見上げると、そろそろ八時になるころだった。八時半まで待って、それでも草壁君が現れないなら、帰ろうと心に決める。
 パソコンの電源を落として荷物をまとめようかと思ったけど、まるで彼を待っているような気がしたので、それはしないでおいた。
 手持無沙汰になった私はデスクトップの画面を見つめながら、思うことはなしに、草壁君のことを考える。
 火曜日の夜に一体どこに付き合ってほしいというのだろうか。
 まさか、飲み――いや、それなら駅の近くで待ち合わせた方が、効率がいい。食事にしても然りだ。それに、食事はこの間ちゃんと断った。
 だとすれば、彼の仕事の手伝いだろうか?
 それなら、どうして、就業時間中に頼まないのか。
 私たちが付きあっているならともかく、どう考えても、こうやって誰にも内緒で会社で待ち合わせる必然性が見つからない。
 考えれば考えるほど、疑問は大きくなっていったところで、いつもの屈託のない笑顔で草壁君が現れた。

「智世子さん、お疲れさまです」
 私は慌てて顔を上げる。
「あ、今、片付けるわね」
「すみません、お忙しいのに」

 パソコンの電源を落とし、帰り支度を始めた私の目の前に小さな紙袋がとんと置かれた。
 不思議に思って見上げた草壁君の顔は、いつもと同じ笑み。それを見せられると、草壁君が妙に余裕があるように見えて、私の方がなぜか焦る。

「差し入れ。食べていきませんか?」
「こんな時間に?」
「じゃあ、夜食ってことで」

 取り出したのは、チョコミントメロンパン。ミントの爽やかな香りと、チョコチップの甘さが絶妙にマッチしていて、これ、大好きなんだ。けど、少し遠いところのスーパーじゃないと買えないから、ここしばらくご無沙汰で――
 私の目の色が変わったのを、草壁君は見逃さなかった。
「気に入ってもらえたようで、良かったです」
 草壁君は、小さな子供を見るように目を細めて私を見ている。
 やば。この間っから草壁君に、私の職場でのイメージを壊されすぎ。
「無理して、難しい顔しなくてもいいですよ」
 私は、先輩の威厳を保とうと、顔を引き締めたけど、どうやら、手遅れだったみたい。
「……じゃ、お言葉に甘えて」

 私は、チョコミントメロンパンをかぷりと咥えた。
 それだけで、クッキー生地のところから、ふんわりとミントの香りが口から鼻の奥まで広がっていく。チョコチップをかみ砕くと、今度はまろやかな甘さが訪れた。その、絶妙なバランスを楽しむように、私は、ゆっくりと味わった。

「本当に、美味しそうに食べますね、智世子さんは」
「だって、チョコミントメロンパン、好きだもん。――どうして、草壁君は、こうやって、いろいろと、買ってきてくれるの?」
 しかも、私の好みのものばかり。
 思いあがりなのだとは分かる。でも、変に期待させて欲しくない。
「胃袋を掴もうと思いまして。」
「胃袋?」
「僕は、智世子さんがおやつを手にした時の嬉しそうな顔が好きなんです――さあ、そろそろ行きますよ」

 なんか、今、意味深なことを言われたような気がしないでもないけど、良くわからないから、聞き流しておこう。
 久しぶりに食べたチョコミントメロンパンは、ほんのり甘く、口の中が涼しくなって、熱くなった頬には、ちょうど良かった。



 そのまま車で連れて行かれたのは、閉店後の山饅だった。
「こっちです」
 不思議に思いながら車を降りた私に、店の脇の小道を指して先に降りた草壁君が手招きする。路地を少し行くと、左手に格式高い木の扉が現れた。
「どうぞ」
 扉の向こうは、飛び石の通路が奥へと延びている。まるで料亭のようだ。脇には苔むしたつくばいまである。その、いかにも《老舗》という雰囲気に私は少し気後れした。
 一方、草壁君はすたすたと前を歩き、ガラガラっと玄関の引き戸を開けて、草壁君が「総次郎さん」と奥へ声をかける。
 ゆっくりと顔を出したのは、以前店の奥を覗き込んだ時に熱心に和菓子を作っていた、あの頑固そうな山饅のおじさんだった。

「先生連れてきましたよ。――さ、智世子さん、上がってください」
「先生?」

 総次郎さんと呼ばれた男性は、うむと言って、長い廊下を先に歩いていく。そのつきあたりのアルミの引き戸を抜けると、そこは小さな事務机が二つと、簡素な応接セットが置かれた山饅の事務所のようだった。店の奥とつながっているらしい。
 その部屋の隅に置かれた新しいパソコンデスクに、私は見覚えがあった。先週、草壁君と一緒に作った資料に入れた、最新モデルのすっきりとしたデザインのデスクだ。そこに、同じく見覚えのあるデスクトップのパソコンと、その横に、コピー機を兼ねたプリンターが置かれている。

「あの――?」
「こんばんは」

 説明を求めようと草壁君に向き直ったところに、後ろから小さなお盆にお茶を乗せた、年配の女性が柔らかい笑顔で現れた。

「あ、志乃さん、夜分にお邪魔します」
明翔あきなりさん、わざわざいらしていただいて、すみませんねぇ。とりあえず、一息つかれてください」
 奥さんと思われる女性――志乃さんはセンターテーブルにお茶と干菓子を並べた。
「お茶など、いい。すぐに始めてもらえ」
 それを見た総次郎さんは、そう一言口にすると、もときた廊下をひとり歩いて戻って行った。
「えっと――?」
 わけがわからない私は、助けを求めるように草壁君の顔を窺う。
「すみません、事後承諾で。――パソコンを導入するのにあたっての大きな障害が『使い方がわからない』ということでしたので、だったら、サービスで教えますと言ってしまいまして――」
「えええっ? そんなの勝手に言っちゃっていいの? 社長とか専務が聞いたらなんていうか――」
「ええ、ですから、ここは内密に。――で、智世子さんに、講師をお願いしたいのです」
 つまり、先ほどの『先生』というのは、山饅の店主のことではなく私のことを指していたらしい。
「――って、どうして私?」
「智世子さん、パソコン操作得意じゃないですか。はじめは、自分でって思ったんですけど、いろいろ考えた結果、智世子さんが適任だと――。あ、もちろん、僕から智世子さんへ講師料は払います。だから、三日だけ、バイトだと思って、お願いします」
 お願いしますって言われても、ここまできて、断るわけにもいかず、私は仕方なく頷いた。
「これで、僕たち共犯ですね」
 まるでいたずらした小学生のように笑う草壁くん。
 何が、共犯だ。はじめから引きずり込むつもりだったくせに。
 そう言えなかったのは、彼の人懐っこい笑顔のせいだろう。

「すみませんねぇ」という志乃さんが新しいパソコンデスクに座り、私はその横へ事務椅子を引きずってきて座った。

「いえ、いつも山饅さんにはおいしいお饅頭を作っていただいてますし」
「まあまあ。そうでしたか。ちなみに、智世子さんは、何がお好き?」
「私は、チョコレート大福と、あ、あと、イチゴ大福のファンなんです」
「あら、そう。うちの大福は生地もそうだけど、材料にもこだわっててね。主人が聞いたら、喜ぶわ」

 二人で和やかに話している間に、その後ろの応接セットで草壁君が、カバンの中からノートパソコンを取り出している。

「草壁君は、待ってる間に仕事?」
「いえ、僕も、智世子さんの講義を一緒に受けようかと思って」
「講義ってほどでもないけど――」

 それから三日間、一時間の残業の後、二人で山饅に行くのが日課となった。幸い、社長も専務も、絵梨花ちゃんも定時で上がるので誰も気がつく者はいない。
 草壁君は、講習が終わった後、律儀に私を家まで送り届けてくれたけれど、それだけで、二人の関係が進むことはなかった。

 ――べ、別に物足りないとか、そういうことではなくて!

 気になる存在ではあったけど、何かあっても、仕事に支障が出るだろから、彼のこの距離感はどちらかと言えばありがたいし、それに――もともと、草壁君は私などストライクゾーンではなかったのだろう。
 花沢さんにあんなことを言われて以降、なんとなく彼を意識しつつも、ふとした拍子に好きにならないよう警戒していた自分がばからしくなってきていた。
 もう三十になろうかというのに、なにを夢みたいなこと――。
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