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 そのあと、絵梨花ちゃんの私に対する態度は激変した。あんな所を見られたのだから、彼女が誤解するのもわかるが、それでも、仕事はそっちのけで、何かというと、草壁君絡みで突っかかってきたりイヤミを言ってくる。私は心身ともに疲れてしまった。

 週末を挟んだ月曜日もそうだった。
 お茶の時間の前から「今日の草壁さんの差し入れは、何でしょうね?」から始まり、「智世子さん、仲がいいからご存じなんでしょう?」ときて、「今日も、草壁さんと、給湯室でいちゃつかれるのですか?」と締めくくられた。
 当の草壁君は、さすがに、連日ゆっくりとお茶をするのも気がひけたのか、あるいは、はりきった絵梨花ちゃんの激マズのお茶を皆に飲ませるのが悪いと思ったのか、まさかと思うけど、私に気を遣ってなのか、差しいれを置いてすぐにまた外回りに出て行く。

 そして、問題の火曜日。退社後に草壁君との約束があったせいか、何となく後ろめたい気持ちの私は、とうとう、耐えられなくなって、お茶の時間に一階の花沢さんのところを訪れることにした。
 下の店舗は営業中だから毎日というわけにいかないけれど、もともと法人相手のお店なので、ほとんど一般のお客さんは来ない。今も、店の中は寒いくらいにガランとしている。
 差し入れの焼き菓子を持って行くと、花沢さんは嬉しそうに話し始めた。まるで、お客さんがこない鬱憤を晴らすかのように。けれど、今の私には、花沢さんが話してくれるだけで、事務所うえのごたごたを忘れることができて気持ちが楽になる。
 話の区切りがいいところで、差し入れのクッキーを出すと、次の話題はそちらへと向かっていく。

「あら、今日のは『レ・フルール』の新作ね。草壁君の差し入れでしょ。あの子、ほんとに、気が利いて可愛いわぁ。きっと取引先でもかわいがられてるんでしょうねえ。ていうか、私だったら、いくらでもお土産包んじゃうわよ。あはははは――」
「ほんとに、彼がこんな人だって、最近わかりました」
「智世子ちゃん、いつも事務所では難しい顔して座ってるものね。それに、絵梨花ちゃんのこともあるし、彼もなかなか声をかけにくいんじゃないの。でもね、草壁君は、時間のある時は、わざわざ一階ここにも顔出して、ただのパートのあたしのことまで気遣ってくれてさ。ほんとに、いい子なんだよ」

 へえ、そうなんだ。
 そんな話を聞くと、若いのにどこまでできた人なんだろうと、思ってしまう。
 花沢さんは、ふふふと、妖しげな笑みを浮かべ、私に肩を寄せて声を落とした。

「――あれで、フリーって言うんだから、驚きよね」
「そ……そうなんですか?」
「ええ。本人にも確認したわ」
「わざわざ確認したんですか?」
「何言ってるの、これは、大事な情報よ」

 得意げに笑う花沢さん。何がどう大事なのかよくわからないが、こういうことを臆することなく聞ける彼女を尊敬する。

「――で、どう、智世子ちゃん?」

 と意味ありげな視線を向けられて、私は苦く笑った。

「どう……って、私ですか? 私、なんて、草壁君には釣り合いませんよ。ていうか、絵梨花ちゃんが彼のことを好きみたいですし、それに、私なんて、草壁君より六つも年上だし、それだったら、絵梨花ちゃんのが、年齢的にも――」

 慌てて、思いついたことを口にしていたら、花沢さんはうふふふと笑いを含んだ声を上げる。

「智世子ちゃんが若くないって言うなら、私なんて、どうなのよ」
「え、花沢さん――?」
「……ここだけの話、私も狙ってるのよ」

 私は驚いて、声を落として話した花沢さんの顔を見た。確か、彼女には家庭があったはずだ。中学生くらいの子供も。

 あはははは――

 店舗内に花沢さんの大きな笑いが響き渡った。

「なんて顔してんのよ、冗談よ、冗談。智世子ちゃんは、ほんとに真面目なんだから!」
「あ、冗談、ですか。……もう、花沢さんったら」

 そ。そうよね。
 一瞬、絵梨花ちゃんと花沢さんがライバルで、草壁君を取り合ってバトルを繰り広げているところを想像してしまって、ちょっと、恐々としてしまった。この二人なら、お互いに譲らなさそうだし、その後どっちが勝っても、草壁君の困ったような顔が浮かぶ。
 冗談で良かったと、私は、花沢さんと一緒に笑った。

「……ま、色々あるだろうけどさ、元気だしなよ」

 心の底から笑って緊張の解けた私に、花沢さんがかけた真面目な一言が、私の背中を小さく震わせる。

「――そ、そんな風に……元気がないように、みえますか?」

 極力明るく言ったつもりだったが、わずかに声が震えていたのに、花沢さんは気がついただろうか。

「草壁君も、心配してたよ。この差し入れも、ほんとは、あんた一人のためだったんじゃないかねぇと、おばちゃんは勘ぐっちゃうわけだけどぉ?」
「そんな――」

 からかい半分の言い方だったのは、花沢さんの優しさだろう。
 そんな優しい人たちに、心配をかけている自分が、不甲斐なく思えてくる。

「ところで、『レ・フルール』ってお店、知ってる?」
 手にしたガチョウ型のクッキーを見つめながら、花沢さんは自慢げに言った。
「いえ、初めて聞きました」
「駅の反対側の、洋菓子店よ。おいしいって評判なんだけど、それだけじゃなく、ロマンティックな内装のお店で、お菓子の名前も凝っててね――」

 そういう店に草壁君が入っていくのを私は想像してみた。かわいらしい内装の中でも、草壁君は人懐っこい笑顔で気後れせずに楽しそうに商品を選びそうだ。

「これは、最近出たばかりの『mes favoris』っていう新作。あたしのは、その中の『月夜に羽ばたく雁』って名前のクッキー。智世子ちゃんのは、『まつ毛に乗ったスノーフレークス』ね」

 私が手にしているパイ生地でできている繊細な雪形のクッキーを差して花沢さんは解説する。

「へえ、幻想的な名前ですね」
「この焼き菓子詰め合わせの『mes favoris』って、英語では My Favoritesで――たぶん、歌からとってるのよ」
「歌?」
「知らない? 『私のお気に入り』って歌。」

 花沢さんは、ほんの少しメロウなメロディを口ずさんだ。

「あ、CMで聞いたことがあります」
「もともとは、映画『サウンド・オブ・ミュージック』で家庭教師のマリアが雷を怖がる子どもたちに歌った歌よ」
「へえ、そうなんですか」
「雷を怖がる子供たちに歌って教えたの。『好きなものを考えていたら、なんにも怖くない』ってね」
「へえ、花沢さん、よくご存じですね」
「当り前よ、サウンドオブミュージックは何十回とみてるし、――この辺のお菓子のことなら、任せなさいよ!」

 そう言って、花沢さんはちょっとぽっちゃりしたお腹を叩いて見せた。
 その仕草に思わず私から笑いが漏れる。

「智世子ちゃんは、笑ってる方がずっとかわいいよ」
 真正面で褒められて、私は思わず赤面する。
「な、何を、おっしゃるんですか、いきなり。――わ、わたし、そろそろ仕事に戻ります」 
「がんばんなさいよ! あたしは絵梨花ちゃんより、あんたを応援してるから」
「そんなんじゃないですって」
「真っ赤な顔で否定されても、説得力なんてないわよ」

 あはははは――

 と、また花沢さんは大きな声で笑った。
 顔が赤くなってるのは、別に、草壁君を好きってわけじゃない。花沢さんが、そんなことを言うから、ちょっと意識しちゃっただけなんです――とは、言える雰囲気じゃなくて。
 私はさっき花沢さんが歌ってくれたメロディーを小さく口ずさみながら、階段を上がった。
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