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ラウンジ

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 チェックインして、出国審査を終えるまで、悠兄ちゃんはしっかりとマリアさんに付き添っていた。
 キースさんから渡されたのはバリ行きの航空券。もし私がここへ来なかったら、悠兄ちゃんとマリアさんは二人でバリに行くことになったのだろうか。
 そう考えると、なんとなく自分が邪魔者のような気がして、どうしても二人から少し距離を置いてしまう。
 ラウンジでも、二人の隣の席に遠慮しながら座った。特に会話を交わすわけでもなく、コーヒーを飲みながら、マリアさんはラウンジに備え付けてあった雑誌を、悠兄ちゃんはキースさんが私にくれたホテルの情報に目を落としている。
 そこに、僅かにぎこちなさがうかがえるのは、私が隣にいるからだろうか。
 なんとなく押し切られた形でここまで来てしまったけれど、やっぱり行かないと言った方が良かったのかもしれない。
 とはいえ、出国手続きをしてしまったので、今さら帰るとは言いだせず、私は、今から六日間旅行に行ってくるとお義父さんにメールした。
 なんで前日までに言わないのだと、怒られるのは分かっている。
 まさか、こんな展開になるとは思っていなかったけれど、こうなると知っていて早めに連絡していたら、あの男は所有印を私の体に刻みつけるだろう。とはいえ、事後報告でも理由をつけて自分のものだと主張するのだろうから、どちらにしてもあの悪夢が繰り返されるという意味ではいつ報告しても同じだ。
 メールを送った私は、すぐに携帯電話の電源を落とす。
 私が携帯電話をバッグにしまうと、悠兄ちゃんが顔を上げた。

「大丈夫?」
「ん、お義父さんに、メール。何も言わないで出てきちゃったから」
「ごめんな、こんなことに巻きこんで」
「悠兄ちゃんのせいじゃないよ。びっくりしたけど、私も、春休みの間にどこか旅行に行きたいと思っていたし」
「ほんと、ごめん。キースあいつときどき、やることが大胆すぎるっていうか――」
「ううん。強引にでも、こうしてもらえて、ちょっと、良かったかなぁって」

 悠兄ちゃんと旅行に行けるのは、素直に嬉しい。マリアさんには悪いと思うけど。

「外国人ってのを笠に着てやらかすからタチが悪いよな。――これだって、何が餞別だっての」

 言いながら、悠兄ちゃんはテーブルの上に、出発ロビーでキースさんから渡されたスポーツ紙を取りだした。
 トップ記事の見出し『松ちぐさ、結婚していたっ!?』に、目が釘付けになる。

「悠兄ちゃん――」

 それは、松ちぐさと所長さんの電撃離婚の記事だった。タイトルの後ろに松ちぐさと男の人が抱き合っている写真が添えられている。二人とも服は着ていたが、大きなベッドの上で、これから行為が始まるであろうことを匂わせている。恐らく、撮られたのはこれ一枚ではないだろう。
 この現場を押さえられて、とうとう離婚という流れのようだ。
 衝撃的な写真だったけれど、さらにセンセーショナルだったのは彼女が結婚していたという事実の方だ。
 私もあのパーティに行くまでは、松ちぐさが結婚しているなんて思いもしなかったし、そう聞かされて大変驚いたのだから、何も知らない人にとってこの記事は、まさに青天の霹靂だろう。
 ただ、悠兄ちゃんの話によれば、結婚の経緯も大恋愛の末というのでもなさそうだし、もともと所長さんは離婚を希望していたらしい。松ちぐさに、恋の噂が流れるたびに、離婚の話は持ち上がっていたそうだけれど、今回のスクープ写真が証拠となり、逃げられなくて松ちぐさがしぶしぶ離婚を承諾したのではないかということだった。
 私は、二人をそっと窺う。
 所長さんがこんなことになったのなら、悠兄ちゃんやマリアさんの仕事にも影響が出るのではないだろうか。
 マリアさんは、唇を噛んでその記事を凝視したまま黙考を始めた。
 一方、悠兄ちゃんは、そんなマリアさんを心配そうに見守っている。
 思いがけずに訪れた重い沈黙を破ったのは、バッグを手にすっと立ち上がったマリアさんだった。

「悪いけど、私、行けないわ」

 悠兄ちゃんは、まるでマリアさんがそう言うのを知っていたかのように、驚くことなく「仕事は?」と静かに聞いた。

「仕事なんて、最初から嘘よ。静養してこいって……所長が、休みをくれたの。で、キースがユウヤと旅行に行けばってこの計画を――」
「俺は、聞いてない」
「当たり前よ。内緒だったもの」

 やっぱり。私が来なければ、この二人がバリに行く予定になっていたのか。
 二人の話を聞きながら、私は自分がここにいるのは場違いだと確信した。

「――でも、綾菜さんがここに来たことと、この記事でわかったわ。私、やっぱり一緒に行けない」

 ああ、ほら。やっぱり。
 私は視線を落とした。
 本当なら、一緒に行かない選択をするべきなのは私なのに。

「綾菜さんが、気に病むことはないわよ。悪いのは、全部キースよ」

 マリアさんは、視線を落とした私の肩にそっと手を置くと、とてもきれいに微笑んだ。雑誌で良く見る"魅せる"ために作った笑顔ではなく、何かから解放されたような柔らかい笑みで。

「ほんとに、彼は、策士ね。……でも、今回は、ありがたく乗らせていただく」

 私から視線を外したマリアさんは、こそばゆくも嬉しそうな表情で独り言のようにそう呟いた。

「頑張れよ」

 悠兄ちゃんは「じゃあね」と急ぎ足でラウンジを出て行く最後に彼女の背中に一言だけかけた。まるで、全部分かっていたと言わんばかりに。

「マリアさん、一人で大丈夫?」

 おろおろしているのは私一人だ。
 あれだけマリアさんを気遣っていた悠兄ちゃんが、こうもあっさりと彼女を一人で行かせてしまうなんて、思いもしなかった。

「俺がついて行くわけには、行かないだろ」

 そう言われても、状況を理解できない私は、今からでもマリアさんを追いかけ、場合によっては引きとめたほうが良いのではないか。
 それでも、悠兄ちゃんは、ソファにゆったりと腰かけたまま、悠然とコーヒーを口に運んでいる。

 どうして? ――悠兄ちゃんとマリアさんは、付き合ってるんじゃなかったの?
 それなのに、こんな風において行かれて、何も言わないなんて。
 あ、もしかしたら。
 悠兄ちゃんは、あのパーティでマリアさんに助けられ、代わりに流産させてしまったことに対して責任を感じていて、強く出られないのだろうか。
 それなら、悠兄ちゃんの代わりに私がマリアさんを引きとめてもいい。

「悠兄ちゃんが行かないなら、私が行く」

 あまりの煮え切らなさに痺れを切らして立ち上がった私の腕を、悠兄ちゃんはすかさず掴んだ。
 それから「その必要ないよ」と、松ちぐさの記事を指す。

「たぶん、この記事のせいだ」
「この記事って――マリアさんと松ちぐさの間に何かあったってこと?」
「いや、マリアと関係があったのは、所長の方」

 マリアさんと関係があったのは――
 頭の中で悠兄ちゃんの台詞を反芻してみて、ようやくその言葉の本当の意味に行きついた時には、「ええっ!?」と声を上げてしまった。

「あいつとのスクープをとられたのは、その相談に乗ってた時だ」
「じゃ、流産したって子の父親は――」
「俺だと思った?」

 何も言えなくなった私に、悠兄ちゃんは肩をすくめ、苦く微笑む。

「信用がないんだな、俺は」
「ごめん」

 最初から――悠兄ちゃんとマリアさんの熱愛報道が出た時にそう言ってくれれば良かったのに。そうやって言い訳をしなかったのは、マリアさんの妊娠のこともあったのだろう。

「謝られたら、余計切ない」
「……ごめん。あ――」

 両手で口を押さえた私に、悠兄ちゃんはさらに優しい笑顔を見せる。
 でも。
 悠兄ちゃんは、そういう人だ。
 大事な人を守るためだったら、自分がどれだけ悪者になろうとも、構わない――そういう、強い人だ。
 それを改めて思い知らされて、私の胸が僅かに痛む。

「でも、これでマリアも幸せになれる」

 その笑顔が清々しさに、少しだけ救われた気がした。

「どうして、そう自信を持って言い切れるの?」
「だって、仕組んだの、キースだから」
「答えになってないよ」

 胸の奥のつきつきとした痛みを誤魔化すために、この会話に大げさに口を尖らせると、悠兄ちゃんが楽しそうに笑った。

「じゃ、種明かししてあげるよ。――キース、カメラ持ってただろ? あれで、俺たちが出国するのを撮ってた。……もし、あれが、その手のところに流れたら、どう思う?」
「……悠兄ちゃんとマリアさんが、二人でお忍び旅行――?」

 先日の熱愛報道もあったせいか、はじめは、私もそう思った。
 ついでに、お似合いの二人だとも。
 誤魔化そうとしていた胸の奥の痛みが、さらに大きくなってくる。

「じゃあ、そのあと、マリアだけ飛行機に乗らなかったら?」
「……喧嘩した、とか? あ――っ!」
「そういうこと。――しばらくしたら、マリアと所長の熱愛報道があるかもな」

 キースさんは、悠兄ちゃんとマリアさんの噂の後始末をしてくれようとしているんだ。
 悠兄ちゃんがお餞別のスポーツ紙を指で軽く叩きながら笑った。
 餞別とは、本来の意味なら、旅立ちや新しい門出を祝って贈られる金品や言葉を意味だ。とすると、このスポーツ紙は、私たちの人生の新しい門出へのはなむけの意味も、あったのかもしれない。

「キースさんって……」

 やっぱり、素敵な人だ。こんなことをさらりとやってのけるのだから。


『貴女が、本気でユウヤを愛しているなら、"声"をあげなさい。貴女が声を上げるなら、アタシが糸を切る手伝いをするわ』

 キースさんがかけてくれた言葉が、脳裏を横切る。
 私が来なければ、多分、このスポーツ紙は悠兄ちゃんの手に渡ることなく、二人は何も知らずにバリに発っていただろう。そうなれば、糸はもっと複雑に絡んだはずだ。
 けれど、私は来た。
 だからキースさんは、餞別としてこの記事の載ったスポーツ紙を渡したのだ。マリアさんが旅行に行かない選択をするように――私たちが絡め取られていた糸のいくつかを整理するために。
 とすると、あとは、私が声を上げるだけで。

 ……私に、出来るのだろうか。

「あいつは、いい写真撮るためだったら、ほんとに何でもするよ」

 悠兄ちゃんは、嬉しそうに笑っている。
 マリアさんとの旅行について聞かされていないのなら、私がここに来た本当の理由も知らないだろう。
 悠兄ちゃんのこの旅行での課題は、水恐怖症の克服だ。

「じゃ、この旅行で、悠兄ちゃんは水が怖いのを治さないと、キースさんと顔を合わせられないね」

 そして、私の課題は――
 私は、キースさんからもらったこの機会を活かせるだろうか。

「……そうだな。せっかく機会をもらったんだしな」

 私と悠兄ちゃんは顔を見合せて笑った。
 みんなが、こうやって幸せに笑えるといいのに。
 マリアさんも、所長さんも、キースさんも。――それから、お義父さんも。
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