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特訓
しおりを挟む「ヤバ……今、俺、すごくドキドキしてる」
水底に足をつけた悠兄ちゃんは、感動に声を震わせていた。
私も、違う意味で、すごくドキドキしている。
顔を上げた悠兄ちゃんが、私の緊張した表情に気がついたのか、ふっと、笑みを見せた。
「なんで、綾まで緊張してんだよ」
「なんでって、――学校休むほどプールが嫌いだった悠兄ちゃんが、こうやって初めて水の中に入ってるんだから、感動もするわよ」
こんなに近くで悠兄ちゃんに腕を握られているからと、本当のことなんて言えるはずもなくて、私は適当な理由をつけた。
悠兄ちゃんはそれを信じたのか、「そっか」と表情を和らげる。
水の中にしばらくいて、少し余裕が出たのだろうか。
「俺、初めてが、お前で良かった」
な、なんて意味深な台詞っ!
固くなっている私の表情を柔らかくするためか、あるいはただの冗談なのか、こんなことを言われて、私の心臓がはち切れそうになる。
薄い布を一枚着ただけの、体のラインが浮き上がっているその恰好で、口にする台詞としては官能的過ぎると、本人はわかってるのだろうか。
それとも、私が意識しすぎ?
私がさらに頬を赤くしたのを見て、悠兄ちゃんは楽しそうに笑った。
その様子を見ているうちに、雑誌という媒体と時間に隔てられていたモデル『ユウヤ』が、たまに電話をくれる『悠兄ちゃん』と一つになり、有名人でも家族でもなく、一人の男性として私の目の前に存在しているのだと実感が込み上げてくる。
「――じゃ、じゃあ、次は、そのまま、顔、浸けてみようか」
じっと見つめられて、私は、それだけ言うのが精一杯。悠兄ちゃんが水に顔をつければ、私から視線がそれる、ただそれだけの理由だった。
けれど、この台詞は思った以上に私の動悸を納めるのに効果的だったみたい。
「え、もう?」
慌てた悠兄ちゃんの表情が、まるで子供のように変わった。さっきの官能は余韻を残さずに嘘みたいに消えてなくなり、そうなったことで私にちょっと余裕が戻る。
「もうって……水に入ったら、次にすることは、それ以外にないと思うけど」
それでも渋る悠兄ちゃんに「ちゃんと、腕、持っててあげるから。ね、ちょっと、つけるだけだって」と、宥めながら私は肩に両手を乗せた。
悠兄ちゃんは、私の腕に絡ませた腕に力を入れる。
「ほんとに、掴んでろよ」
「うん、分かってる」
ここへ来るまでの熱意はどこへ行ったのかと思うほどのヘタレっぷり。とても、モデルにも、七つ年上にも見えない。
腰をかがめて、水面を見つめた悠兄ちゃんは、しばらくそのままの状態で固まり――そして、大きく息を吸って、思い切って――顔を上げた。
「悠兄ちゃん、顔、上げるんじゃなくて、下げるのよ」
「……ちょっと……綾がちゃんと持っててくれてるか確認しただけだよ。――いいか、絶対、離すなよ」
「大丈夫だから。私を、信じて」
それから、水面から十センチ程度のところで、しばらく空気と水の境界線を見つめた悠兄ちゃんは、心を決めたのか、腕にぐっと力を入れて、ザバッとそのまま顔を水に突っ込んだ。
「ぷはっ!」
まるで、熱湯に頭を突っ込んでしまったのではないかという速さで顔が上がった。
私を掴んでいた腕を離し、両手で何度も顔を拭っている。
「そこまで嫌がらなくても。――お風呂でお湯に顔をつけるのと、かわらないでしょ?」
「全然違う。風呂はもっと熱いし、狭い」
「それなら、熱くて少し大きめの大浴場から慣れていけば?」
冷たくて広いのが怖いのだろうと軽くした提案を、悠兄ちゃんは「大浴場か」と真面目に吟味し始めた。
「――その発想は、なかったな。……だが、子供ならいざ知らず、さすがに大浴場で潜るわけにもいかないし……」
「ちょ、っと、待って。まさか、本気で大浴場で練習しようと思ってる?」
「風呂で顔が浸けられるなら、そこから少しずつ慣らしていった方がいいといのは一理ある。……あ、そうだ。貸切の露天風呂!」
とてもいいアイデアが浮かんだという様子で悠兄ちゃんは、善は急げとばかりにざぶざぶとプールサイドに向かいかけた。
「あのっ!」
「ん?」
「その……ひとつ聞きたいんだけど、もし、貸切の露天風呂を使う場合、私は、要る?」
「当たり前だろ、コーチなんだから。ちょっと、フロント行って利用できるか聞いてくる」
「ああああのっ! もう一つ!!」
縁石に手をかけた悠兄ちゃんの腕を、私は掴んだ。
「なんだ?」
「露天風呂って、水着着用――」
「莫迦だな。風呂なんだから、ダメに決まってるだろ」
濡れた前髪を掻きあげる仕草に、目を奪われた。
悠兄ちゃんは、特訓のために頭がスイミングの方にしか回っていないかもしれないけど、それって、それって――
真っ赤になって黙り込んだ私、を悠兄ちゃんが覗き込む。
「どうした?」
「……露天風呂で、水着着用不可って、つまり……そういうこと、でしょ?」
恥ずかしそうに言った私に、悠兄ちゃんは何かに気がついたように、表情を明るくした。
「あっ! のぞきの心配か? 大丈夫だって、ここの貸切露天風呂は屋上にあって、茂みからこっそり、なんてことはできないようになってる」
見た目がいいのに、肝心なところが天然なのは、ちょっと残念だ。――でも、まあ、そこが親しみやすいといえば、そうなのだけれど。
「そうじゃなくて! 裸になるでしょ、って言ってるの!!」
「……あ……そ、うか」と悠兄ちゃんの顔がわずかに恥ずかしさに染まった「――って、別に俺は、いやらしい意味で言ったんじゃないからな」
その反応で十分。悠兄ちゃんが、そういう意味で言ったのではないってよく分かる。
でも。だったら、余計に、虚しいじゃない。――私は、女扱いされてないって証明みたいで。
「と、……とにかく、せっかくその気になったところに水をかけるようで悪いけど、露天風呂は――」
「ああ。……わかった」
肩を落とした悠兄ちゃんは、怒られた犬のようだった。でも、雑誌の中ですました顔しているユウヤより魅力的に見えるのは、私の目に特別なフィルターがかかっているからだろう。
「あの、その代わり、溺れた時に、上手に助けてもらう方法とか、覚えておくってのはどうかな」
「なんだ、それ」
「水難救助って、結構難しくて、溺れている人の状態によって、助けやすさが変わるの」
「へえ。じゃあ、俺は、どうすればいいわけ?」
「そうね、じゃ、ちょっと溺れてみて?」
「……」
悠兄ちゃんは、再び水を見て固まった。
「水が怖いのに、溺れてる演技なんかできるわけないだろ」
「じゃ、演技じゃなかったら?」
私は、潜水用プールに視線を向ける。
同じく、そちらに目を向けた悠兄ちゃんは、ぶんぶんと大きく頭を振った。
「俺を溺死させるつもりか?」
「大丈夫。悠兄ちゃんは、浮いてるだけでいいの。私が、絶対助けるから」
「でも、お前、女だろ」
「海みたいに陸が遠いわけじゃないし、遭難者が暴れなければ大丈夫」
「溺れたら、普通暴れるだろ」
「そこは、ほら、私のためだと思って暴れるのくらい我慢して。顔をつける練習にもなるし、一石二鳥でしょ」
「無茶言うなよ。……それだったら、素直に顔をつけるように努力したほうがいい」
本気で溺れさせられては困ると思ったのか、悠兄ちゃんはさっきよりも熱心に、顔浸けの練習を始める。
悠兄ちゃんと二人きりの時間を過ごすうちに、家族とファンとただの女の子がうまい具合に混ざり合っていた私の心は、ただの女の子の部分だけを残して、澄み始めていた。
子供みたいに水を怖がったり、大人みたいに私をからかったり――悠兄ちゃんの、もっともっと沢山の色々な面を見てみたい。
……できれば、誰よりも近くの場所で。
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