上 下
5 / 24

特訓

しおりを挟む

「ヤバ……今、俺、すごくドキドキしてる」

 水底に足をつけた悠兄ちゃんは、感動に声を震わせていた。
 私も、違う意味で、すごくドキドキしている。
 顔を上げた悠兄ちゃんが、私の緊張した表情に気がついたのか、ふっと、笑みを見せた。

「なんで、綾まで緊張してんだよ」
「なんでって、――学校休むほどプールが嫌いだった悠兄ちゃんが、こうやって初めて水の中に入ってるんだから、感動もするわよ」

 こんなに近くで悠兄ちゃんに腕を握られているからと、本当のことなんて言えるはずもなくて、私は適当な理由をつけた。
 悠兄ちゃんはそれを信じたのか、「そっか」と表情を和らげる。
 水の中にしばらくいて、少し余裕が出たのだろうか。

「俺、初めてが、お前で良かった」

 な、なんて意味深な台詞っ!
 固くなっている私の表情を柔らかくするためか、あるいはただの冗談なのか、こんなことを言われて、私の心臓がはち切れそうになる。
 薄い布を一枚着ただけの、体のラインが浮き上がっているその恰好で、口にする台詞としては官能的過ぎると、本人はわかってるのだろうか。
 それとも、私が意識しすぎ?
 私がさらに頬を赤くしたのを見て、悠兄ちゃんは楽しそうに笑った。
 その様子を見ているうちに、雑誌という媒体と時間に隔てられていたモデル『ユウヤ』が、たまに電話をくれる『悠兄ちゃん』と一つになり、有名人でも家族でもなく、一人の男性として私の目の前に存在しているのだと実感が込み上げてくる。
 
「――じゃ、じゃあ、次は、そのまま、顔、浸けてみようか」

 じっと見つめられて、私は、それだけ言うのが精一杯。悠兄ちゃんが水に顔をつければ、私から視線がそれる、ただそれだけの理由だった。
 けれど、この台詞は思った以上に私の動悸を納めるのに効果的だったみたい。

「え、もう?」

 慌てた悠兄ちゃんの表情が、まるで子供のように変わった。さっきの官能は余韻を残さずに嘘みたいに消えてなくなり、そうなったことで私にちょっと余裕が戻る。

「もうって……水に入ったら、次にすることは、それ以外にないと思うけど」

 それでも渋る悠兄ちゃんに「ちゃんと、腕、持っててあげるから。ね、ちょっと、つけるだけだって」と、宥めながら私は肩に両手を乗せた。
 悠兄ちゃんは、私の腕に絡ませた腕に力を入れる。

「ほんとに、掴んでろよ」
「うん、分かってる」

 ここへ来るまでの熱意はどこへ行ったのかと思うほどのヘタレっぷり。とても、モデルにも、七つ年上にも見えない。
 腰をかがめて、水面を見つめた悠兄ちゃんは、しばらくそのままの状態で固まり――そして、大きく息を吸って、思い切って――顔を上げた。

「悠兄ちゃん、顔、上げるんじゃなくて、下げるのよ」
「……ちょっと……綾がちゃんと持っててくれてるか確認しただけだよ。――いいか、絶対、離すなよ」
「大丈夫だから。私を、信じて」

 それから、水面から十センチ程度のところで、しばらく空気と水の境界線を見つめた悠兄ちゃんは、心を決めたのか、腕にぐっと力を入れて、ザバッとそのまま顔を水に突っ込んだ。

「ぷはっ!」

 まるで、熱湯に頭を突っ込んでしまったのではないかという速さで顔が上がった。
 私を掴んでいた腕を離し、両手で何度も顔を拭っている。

「そこまで嫌がらなくても。――お風呂でお湯に顔をつけるのと、かわらないでしょ?」
「全然違う。風呂はもっと熱いし、狭い」
「それなら、熱くて少し大きめの大浴場から慣れていけば?」

 冷たくて広いのが怖いのだろうと軽くした提案を、悠兄ちゃんは「大浴場か」と真面目に吟味し始めた。

「――その発想は、なかったな。……だが、子供ならいざ知らず、さすがに大浴場で潜るわけにもいかないし……」
「ちょ、っと、待って。まさか、本気で大浴場で練習しようと思ってる?」
「風呂で顔が浸けられるなら、そこから少しずつ慣らしていった方がいいといのは一理ある。……あ、そうだ。貸切の露天風呂!」

 とてもいいアイデアが浮かんだという様子で悠兄ちゃんは、善は急げとばかりにざぶざぶとプールサイドに向かいかけた。

「あのっ!」
「ん?」
「その……ひとつ聞きたいんだけど、もし、貸切の露天風呂を使う場合、私は、要る?」
「当たり前だろ、コーチなんだから。ちょっと、フロント行って利用できるか聞いてくる」
「ああああのっ! もう一つ!!」

 縁石に手をかけた悠兄ちゃんの腕を、私は掴んだ。

「なんだ?」
「露天風呂って、水着着用――」
「莫迦だな。風呂なんだから、ダメに決まってるだろ」

 濡れた前髪を掻きあげる仕草に、目を奪われた。
 悠兄ちゃんは、特訓のために頭がスイミングの方にしか回っていないかもしれないけど、それって、それって――
 真っ赤になって黙り込んだ私、を悠兄ちゃんが覗き込む。

「どうした?」
「……露天風呂で、水着着用不可って、つまり……そういうこと、でしょ?」

 恥ずかしそうに言った私に、悠兄ちゃんは何かに気がついたように、表情を明るくした。

「あっ! のぞきの心配か? 大丈夫だって、ここの貸切露天風呂は屋上にあって、茂みからこっそり、なんてことはできないようになってる」

 見た目がいいのに、肝心なところが天然なのは、ちょっと残念だ。――でも、まあ、そこが親しみやすいといえば、そうなのだけれど。

「そうじゃなくて! 裸になるでしょ、って言ってるの!!」
「……あ……そ、うか」と悠兄ちゃんの顔がわずかに恥ずかしさに染まった「――って、別に俺は、いやらしい意味で言ったんじゃないからな」

 その反応で十分。悠兄ちゃんが、そういう意味で言ったのではないってよく分かる。
 でも。だったら、余計に、虚しいじゃない。――私は、女扱いされてないって証明みたいで。

「と、……とにかく、せっかくその気になったところに水をかけるようで悪いけど、露天風呂は――」
「ああ。……わかった」

 肩を落とした悠兄ちゃんは、怒られた犬のようだった。でも、雑誌の中ですました顔しているユウヤより魅力的に見えるのは、私の目に特別なフィルターがかかっているからだろう。

「あの、その代わり、溺れた時に、上手に助けてもらう方法とか、覚えておくってのはどうかな」
「なんだ、それ」
「水難救助って、結構難しくて、溺れている人の状態によって、助けやすさが変わるの」
「へえ。じゃあ、俺は、どうすればいいわけ?」
「そうね、じゃ、ちょっと溺れてみて?」
「……」

 悠兄ちゃんは、再び水を見て固まった。

「水が怖いのに、溺れてる演技なんかできるわけないだろ」
「じゃ、演技じゃなかったら?」

 私は、潜水用プールに視線を向ける。
 同じく、そちらに目を向けた悠兄ちゃんは、ぶんぶんと大きく頭を振った。

「俺を溺死させるつもりか?」
「大丈夫。悠兄ちゃんは、浮いてるだけでいいの。私が、絶対助けるから」
「でも、お前、女だろ」
「海みたいに陸が遠いわけじゃないし、遭難者が暴れなければ大丈夫」
「溺れたら、普通暴れるだろ」
「そこは、ほら、私のためだと思って暴れるのくらい我慢して。顔をつける練習にもなるし、一石二鳥でしょ」
「無茶言うなよ。……それだったら、素直に顔をつけるように努力したほうがいい」

 本気で溺れさせられては困ると思ったのか、悠兄ちゃんはさっきよりも熱心に、顔浸けの練習を始める。
 悠兄ちゃんと二人きりの時間を過ごすうちに、家族とファンとただの女の子がうまい具合に混ざり合っていた私の心は、ただの女の子の部分だけを残して、澄み始めていた。
 子供みたいに水を怖がったり、大人みたいに私をからかったり――悠兄ちゃんの、もっともっと沢山の色々な面を見てみたい。

 ……できれば、誰よりも近くの場所で。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

続・上司に恋していいですか?

茜色
恋愛
営業課長、成瀬省吾(なるせ しょうご)が部下の椎名澪(しいな みお)と恋人同士になって早や半年。 会社ではコンビを組んで仕事に励み、休日はふたりきりで甘いひとときを過ごす。そんな充実した日々を送っているのだが、近ごろ澪の様子が少しおかしい。何も話そうとしない恋人の様子が気にかかる省吾だったが、そんな彼にも仕事上で大きな転機が訪れようとしていて・・・。 ☆『上司に恋していいですか?』の続編です。全6話です。前作ラストから半年後を描いた後日談となります。今回は男性側、省吾の視点となっています。 「ムーンライトノベルズ」様にも投稿しています。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる

春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。 幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……? 幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。 2024.03.06 イラスト:雪緒さま

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

自習室の机の下で。

カゲ
恋愛
とある自習室の机の下での話。

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

処理中です...