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水恐怖症
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『よかったら、おいで』
「いいの? 私なんか部外者が行っても」
『お前は、俺の関係者だろ』
平迫マリアも参加というのが気になったけど、悠兄ちゃんから『関係者』として誘ってもらえたのは、純粋に嬉しい。
なにより、雑誌でしか会えない悠兄ちゃんと、同じ場所、同じ時間を共有できるなんて夢のようだ。
『――あ、それと、もうひとつ、聞いて欲しいことがあるんだけど』
「なに?」
『俺、その雑誌で、スポーツ系のコーナーを持たせてもらえそうなんだ』
「すごいじゃない。おめでとう」
『ただ――』と言って、悠兄ちゃんは口を噤んだ。
「ただ?」
『お前だから話すけど、漏らすなよ?』
「うん、約束する」
『ただ……これから夏に向けてはマリンスポーツだって』
冗談めかして言った割に、だんだん声が小さくなったのは、実際に不安だからだろう。
悠兄ちゃんは昔から水が大の苦手で、学生の頃はプールの授業がある日は必ず体に不調をきたしていた。そんなだから、海に行ったと聞いたことも、一度もない。
その悠兄ちゃんが、マリンスポーツだなんて。
「それは――」
なにか気の利いた台詞か、そうでなくとも、せめて気休めになるような言葉をかけたかったけれど、その後は何も出てこない。
『ああ、綾が気を遣うことないよ。仕事なんだし、もう何年もこの仕事をしてきて、今までそれを避けてこられたって方が、奇跡なんだし。――ただ、ちょっと誰かに聞いてもらいたかっただけ。……っても、こんな弱音吐ける相手は、綾しかいなくて――ごめん』
「ううん。話してくれて、嬉しい」
抑え気味に応えたけれど、本当は、私にしかできないことがあると言ってもらえて、その特別扱いがすごく嬉しかった。
それだけで、胸の奥に何か温かい光が灯ったようになる。
『それで、ちょっと相談なんだけどさ、今度、誰にも内緒で水泳教えてよ。お前、昔スイミングやってただろ』
「辞めてからもう五年よ。それでも良ければいいけど……」
『いいよ。……とりあえずの目標は、水が怖くなくなることだから』
それくらいなら、時間と場所さえうまく合えば、付き合うことは出来るだろう。
「でも、時間とれるの? それに、近場じゃ、スクープされちゃうかもしれないよ?」
口にしてから嫌みに聞こえただろうかと、後悔した。
それなのに、悠兄ちゃんは気にすることなく、『莫迦だな、俺はスクープ狙われるほど有名じゃないよ』と笑う。けれど、平迫マリアの交際報道から、悠兄ちゃんが注目され始めているのも事実だ。
『そんなに気になるなら、何日か休みとって、海外で特訓しかないな』
「大げさね」
『――ってか、何日も綾を独占したら、お前の彼氏にぶん殴られるか』
……彼なんて、いないよ。
それは、言葉にならなかった。
兄と妹という、ずっと重なることのない平行線の関係を、暗に諭されたような気がして、さっき灯った胸の中の暖かい光が光度を下げる。
「だって、私、パスポート持ってないし」
全面的に拒否もできなくて、私は自分に言い聞かせるように。やんわりと一緒に行けない事実を伝える。
『この機会に、取っておくのもいいんじゃないか。――まあ、特訓については、考えて、また連絡するよ』
「うん。私のほうは、春休みなら、いつでも大丈夫」
『女子大生が、いつでもってのも、寂しい話だな』
電話の向こうで、悠兄ちゃんが優しく笑う。
こんなとき、妹でなければ「あなたのためにスケジュールを空けるのよ」とでも言うのだろうか。
でも、今の私に言えることは――
「家族の頼みだもの」
家族――血が繋がっていないとはいえ、そう呼べる関係があるだけまし。ただのファンなら、こうやって電話で話すことさえできないのだから。
それ以上は高望みというものだ、と私は自制する。
『頼もしいな。――じゃ、来週、よろしく。当日、家まで迎えに行こうか?』
「いいよ、一人で行ける。会場は、どこ?」
私は、詳しい場所と時間を聞いて、電話を切った。
切断ボタンを押したら、「悠兄ちゃんと、パーティに行ける」とじわじわと、喜びが込み上げてきて、携帯電話がバックライトを落としてもまだ、画面から目が離せなかった。
心臓が四〇〇メートルを全力で泳いだ後よりも、どきどきしている。
ずっとずっと前――初めて会ったときから憧れていた人。
近くにいるはずなのに、とても遠くに感じる人。
悠兄ちゃんは、私が生きるための小さな灯りを点してくれた。
義父の怒りのはけ口にされようとも、悠兄ちゃんが灯台のように光を投げてくれていたから、私はそこだけを見て生きてこられた。
けれど。暗い海からはどんなに離れていても灯台がどこにあるかすぐにわかるけれど、灯台からは、海にいる小さな船など見えるはずがないのと同じで、悠兄ちゃんは、私のことなんて、きっと気がついてないと思う。
家を出た直後は、連絡も途切れたけど、一方通行でも雑誌という媒体を通して悠兄ちゃんが頑張っているのを見られたから、私も耐えられた。
その悠兄ちゃんが、今、私に気がついて手を伸ばしてくれたような気がした。
複雑なマーブル模様で描かれた「悠兄ちゃんが好きだ」という気持ちが、家族としてなのか、ファンとしてなのか、――あるいは一人の女としてなのかわからない。
ううん。わかってはいけないような気がしている。それを、はっきりさせてしまうと、二人の間のこの微妙なバランスが崩れてしまいそうだ。
でも、ほんの少し、夢を見るくらいはいいでしょ?
思いがけず差し伸べられた手に、心の中のわがままな部分が、ひょこっと顔を出す。
いつかはまた暗い海の底に引き戻されるのだとしても、どんな関係でも側にいられるうちは、甘い夢を見させて欲しい。
その後、私は興奮してなかなか寝付けなかった。
書棚に歩み寄って一冊の本を手に取る。背表紙の部分が擦り切れて、ビニールテープで補修してあるそれは、私が小学生の頃からずっと大切に読んできた本だ。
小学生のころは、スイミングをやっていたせいもあって、人魚姫に純粋に憧れていただけだったけど。
いつからか、そばにいるのに、自分の気持ちを打ち明けることのできない――本当のことを伝えることができない人魚姫が、私と重なった。
最後には海の泡となってしまった彼女だけれど、でも、好きな人の側で過ごした日々は幸せだったのではないだろうか。
そんなことを考えながら本を何度も何度も読み返しているうちに、空はいつの間にか白み始めていた。
「いいの? 私なんか部外者が行っても」
『お前は、俺の関係者だろ』
平迫マリアも参加というのが気になったけど、悠兄ちゃんから『関係者』として誘ってもらえたのは、純粋に嬉しい。
なにより、雑誌でしか会えない悠兄ちゃんと、同じ場所、同じ時間を共有できるなんて夢のようだ。
『――あ、それと、もうひとつ、聞いて欲しいことがあるんだけど』
「なに?」
『俺、その雑誌で、スポーツ系のコーナーを持たせてもらえそうなんだ』
「すごいじゃない。おめでとう」
『ただ――』と言って、悠兄ちゃんは口を噤んだ。
「ただ?」
『お前だから話すけど、漏らすなよ?』
「うん、約束する」
『ただ……これから夏に向けてはマリンスポーツだって』
冗談めかして言った割に、だんだん声が小さくなったのは、実際に不安だからだろう。
悠兄ちゃんは昔から水が大の苦手で、学生の頃はプールの授業がある日は必ず体に不調をきたしていた。そんなだから、海に行ったと聞いたことも、一度もない。
その悠兄ちゃんが、マリンスポーツだなんて。
「それは――」
なにか気の利いた台詞か、そうでなくとも、せめて気休めになるような言葉をかけたかったけれど、その後は何も出てこない。
『ああ、綾が気を遣うことないよ。仕事なんだし、もう何年もこの仕事をしてきて、今までそれを避けてこられたって方が、奇跡なんだし。――ただ、ちょっと誰かに聞いてもらいたかっただけ。……っても、こんな弱音吐ける相手は、綾しかいなくて――ごめん』
「ううん。話してくれて、嬉しい」
抑え気味に応えたけれど、本当は、私にしかできないことがあると言ってもらえて、その特別扱いがすごく嬉しかった。
それだけで、胸の奥に何か温かい光が灯ったようになる。
『それで、ちょっと相談なんだけどさ、今度、誰にも内緒で水泳教えてよ。お前、昔スイミングやってただろ』
「辞めてからもう五年よ。それでも良ければいいけど……」
『いいよ。……とりあえずの目標は、水が怖くなくなることだから』
それくらいなら、時間と場所さえうまく合えば、付き合うことは出来るだろう。
「でも、時間とれるの? それに、近場じゃ、スクープされちゃうかもしれないよ?」
口にしてから嫌みに聞こえただろうかと、後悔した。
それなのに、悠兄ちゃんは気にすることなく、『莫迦だな、俺はスクープ狙われるほど有名じゃないよ』と笑う。けれど、平迫マリアの交際報道から、悠兄ちゃんが注目され始めているのも事実だ。
『そんなに気になるなら、何日か休みとって、海外で特訓しかないな』
「大げさね」
『――ってか、何日も綾を独占したら、お前の彼氏にぶん殴られるか』
……彼なんて、いないよ。
それは、言葉にならなかった。
兄と妹という、ずっと重なることのない平行線の関係を、暗に諭されたような気がして、さっき灯った胸の中の暖かい光が光度を下げる。
「だって、私、パスポート持ってないし」
全面的に拒否もできなくて、私は自分に言い聞かせるように。やんわりと一緒に行けない事実を伝える。
『この機会に、取っておくのもいいんじゃないか。――まあ、特訓については、考えて、また連絡するよ』
「うん。私のほうは、春休みなら、いつでも大丈夫」
『女子大生が、いつでもってのも、寂しい話だな』
電話の向こうで、悠兄ちゃんが優しく笑う。
こんなとき、妹でなければ「あなたのためにスケジュールを空けるのよ」とでも言うのだろうか。
でも、今の私に言えることは――
「家族の頼みだもの」
家族――血が繋がっていないとはいえ、そう呼べる関係があるだけまし。ただのファンなら、こうやって電話で話すことさえできないのだから。
それ以上は高望みというものだ、と私は自制する。
『頼もしいな。――じゃ、来週、よろしく。当日、家まで迎えに行こうか?』
「いいよ、一人で行ける。会場は、どこ?」
私は、詳しい場所と時間を聞いて、電話を切った。
切断ボタンを押したら、「悠兄ちゃんと、パーティに行ける」とじわじわと、喜びが込み上げてきて、携帯電話がバックライトを落としてもまだ、画面から目が離せなかった。
心臓が四〇〇メートルを全力で泳いだ後よりも、どきどきしている。
ずっとずっと前――初めて会ったときから憧れていた人。
近くにいるはずなのに、とても遠くに感じる人。
悠兄ちゃんは、私が生きるための小さな灯りを点してくれた。
義父の怒りのはけ口にされようとも、悠兄ちゃんが灯台のように光を投げてくれていたから、私はそこだけを見て生きてこられた。
けれど。暗い海からはどんなに離れていても灯台がどこにあるかすぐにわかるけれど、灯台からは、海にいる小さな船など見えるはずがないのと同じで、悠兄ちゃんは、私のことなんて、きっと気がついてないと思う。
家を出た直後は、連絡も途切れたけど、一方通行でも雑誌という媒体を通して悠兄ちゃんが頑張っているのを見られたから、私も耐えられた。
その悠兄ちゃんが、今、私に気がついて手を伸ばしてくれたような気がした。
複雑なマーブル模様で描かれた「悠兄ちゃんが好きだ」という気持ちが、家族としてなのか、ファンとしてなのか、――あるいは一人の女としてなのかわからない。
ううん。わかってはいけないような気がしている。それを、はっきりさせてしまうと、二人の間のこの微妙なバランスが崩れてしまいそうだ。
でも、ほんの少し、夢を見るくらいはいいでしょ?
思いがけず差し伸べられた手に、心の中のわがままな部分が、ひょこっと顔を出す。
いつかはまた暗い海の底に引き戻されるのだとしても、どんな関係でも側にいられるうちは、甘い夢を見させて欲しい。
その後、私は興奮してなかなか寝付けなかった。
書棚に歩み寄って一冊の本を手に取る。背表紙の部分が擦り切れて、ビニールテープで補修してあるそれは、私が小学生の頃からずっと大切に読んできた本だ。
小学生のころは、スイミングをやっていたせいもあって、人魚姫に純粋に憧れていただけだったけど。
いつからか、そばにいるのに、自分の気持ちを打ち明けることのできない――本当のことを伝えることができない人魚姫が、私と重なった。
最後には海の泡となってしまった彼女だけれど、でも、好きな人の側で過ごした日々は幸せだったのではないだろうか。
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