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バレンタインデー 約束のブツ

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「なんか、夢みたい」

 夢であれば良かったと思うことと、夢でなくて良かったと思うこと。
 年末に、颯太がオーストラリアに行くと聞いたときからのことが、まるで現実感を伴っていなくて、その不確かな現実の中を、私はずっと浮遊しているような気がしている。

「ん?」
「先週の、約束だって、颯太の車に乗るまでは、夢か……冗談だったんじゃないかって」

 正直、今ここにこうしているのだって、現実であるって証拠なんて、なくて――
 正面に座っていた颯太が、私の隣に座りなおした。ゴンドラのバランスが崩れ、座面が少し傾く。

「莫迦だな。約束しただろ」
「うん」

 した、けど。

「俺は、お前との約束は、守る」

 はっきりと言い切ったその横顔が、すごく男らしかった。
 ふわっと抱きしめられて、颯太の考える約束の意味が思ったより軽くなくて、そんなささなことで、胸の奥から嬉しさが湧き上がってくる。
 背中に腕をまわし、コートの背中の部分をキュッと握りしめて、颯太の胸の中で力を抜いたら、それまであやふやなホログラムみたいだった今日の約束が、今ここで、しっかりと形となって私の足元にかっちりと敷設されたみたいな。

「ん」

 いつもはバイトで忙しい颯太が、「その日は休むから、どこかへ行こう」という言葉通り、休みを取って私の隣にいる。
 ただそれだけのことで、私の中の曖昧さは、きちんと形になって、その先へとつながっていて――
 何気なく交わしたさっきの約束も、同じようにいつか形になるのだろうか。
 そうやって一つずつ形にして、足もとに並べていった先には――

 観覧車はゆっくりと高度をあげて、雲ひとつない青い空の中へと向かっていく。
 世界のすべてから切り取られたゴンドラが頂点に達したところで、颯太が私にキスをくれた。
 颯太が観覧車のジンクスなど知っているとは思えないけれど、それでもそれは、私の中でまた別の小さな約束になる。

「なんか……、約束って、いいね」
「そうか? ――というか、約束っていえば、お前の方はどうなんだよ」
「え?」
「作ってきてくれたんだろ? 例のモノ。お菓子の方が得意だって言うから、結構期待してるんだぜ」

 やば、颯太と一緒にいるのが楽しくて、すっかり忘れてた――バレンタイン。
 私は肩にかけていたトートバッグの『例のモノ』が入っているあたりをそっと撫でる。

「う……うん。でも、そんなに、期待しないで」
「そう言われたら、余計期待するだろ、普通」

 颯太は、「よし」という掛け声を待つ犬のように、きらきらとした目でその瞬間を待っている。

「しないでよ」
「女子の『しないで』は『して』ってことだろ?」
「相変わらず、いやらしい言い方するわね」
「いやらしくて悪いか」

 そうやって開き直られると、どう反応していいかわからないんですけど。
 颯太が、「待て」を解除されなくて切ない犬みたいな顔で私を見つめるので、私は仕方なく、鞄の中から小さな箱を取り出した。

「おおっ! こういう箱に入ってリボンが結んであるのが、手作りって感じで、いいねぇ。俺、千尋のことだから、茶封筒かなんかに突っ込んで持ってくるかと思ってたけど」
「失礼ね。私だって、それくらいは気を遣うわよ」

 一言多いと感じたが、綾菜が準備しておいてくれなかったら、茶封筒になっていた可能性はかなり高い。

「ほんとに、中は、期待しないでよね」
「これで、期待するなって方が無理だろ」
「……じゃあ、期待、して」

 試しにそう言ってみると、颯太は――

「ああ、そんな風に言われると、すげぇ、期待すんじゃねえか」

 なんて言うもんだから私は、呆れて肩をすくめるしかなかった。
 子供のような表情でペパーミントグリーンのリボンを解く颯太に、つい笑みがこぼれる。
 そういえば、小学生の頃、クリスマスプレゼントの見せあいっこをした時もこんな顔でプレゼントを開けてたっけ。

「結局、『しないで』も『して』も、どっちも『して』の意味なんじゃん」
「当たり前だろ。『して』って言われてしない男がどこにいる」

 そして。
 嬉しげに箱を開けた颯太は、案の定、固まった。
 いったん蓋を閉めて、もう一度開けてみたり、箱の裏をひっくり返してみたりもしている。

「これ、二重底?」
「……いや、その箱に、仕掛けはない」
「バレンタインに、レンガとか瓦って、最近の流行はやり?」

 颯太は、少し薄めの割れたかけらを取り上げた。断面にくるみが入っているのが見える。

「いえ、……それは、普通の、ブラウニーってやつ、です」

 本当はハート型に型抜きしたかったのだけど、あまりにも硬すぎて、型をぐぐっと押し付けたら、変な形にぱりんと割れたんだよね。

「普通のブラウニーって……あれは、もう少し柔か……っ。つねんなよ。――じゃ、こっちのは、さすがにレンガだろ?」

 恐る恐る指を指した黒くて硬そうな塊は、レンガとは全く関係ないですから。

「……そっちは、フォンダンショコラ」
「フォンダンショコラって……なかからとろりとチョコが出てくる、アレ?」
 名前を聞いただけでどんなものか想像できるという点では、颯太のほうがレベルが高い。
「いちお、予定では、中からとろりとチョコが、出てくる、はずです」

 颯太は私の作った『フォンダンショコラ』を指で押した。
 ふかふかではない――なんてものではない、フォンダンショコラもどきは、颯太の指に強く反抗し、頑としてその形を変えない。

「……よく、焼けてるな」
「ええ。思いのほか頑丈に」

 やけっぱちになった私よりも、颯太は箱に入っている小さくて茶色くて丸いかたまりが気になったらしい。
 つまんで持ち上げた小さな丸いかたまりを、下から透かすようにして見上げながら、彼は興味深げに聞いてきた。

「で、こっちは?」
「それは、トリュフ」
「これなら、食えそう」
 
 そうか、今までのは、食べられそうに見えなかったのね。
 私も、特に反論するつもりはないけれど。
 颯太はトリュフといわれたそれを十分検分した後、ぽいと口に入れた。

「……」

「…………」

「………………」

「……チョコひょほってっへ溶けるまでにほへふはへにこんなにほんはひ時間かかったっけひはんははったっへ?」

 口をもごもごさせながら颯太が聞いてくる。
 いえ、溶けるのに時間がかかるのは、飴です……てか。ああ、もうほんとに。
 どうせなら、笑い飛ばしてくれれば、少しは気が楽なのに。
 穴があったら入りたいとは、まさにこのことで、観覧車のゴンドラの中じゃ、逃げたり隠れたりすることもできなくて――
 私が申し訳ない気持ちになっている間に、颯太は、口の中でふやかしたトリュフをがしがしかみ砕き、飲み込んだ。

「ごめん……持って帰って出直してくる」

 素直に謝って取り返そうとした箱は、すっと遠ざけられる。

「せっかく千尋が作ってくれたんだから、ちゃんと食うよ」
「レンガみたいに固いのに、食べられるわけないじゃん」
「……とにかく、なんとかして食うよ。レンガみたいでも、千尋が作ってくれたんだから。保存食みたいで長持ちしそうだしさ」

 もう一度強調されると、なんだか嫌味に聞こえてこないこともないんだけど。でも。口ではこういいつつも、食べようとしてくれるところは、颯太の優しいところだ。
 こんな風にちらりと優しさを見せられると、私一人だけ意地を張るわけにもいかなくて、私は、颯太に向かって頭を下げた。

「見栄を張ってごめんなさい。ほんとに、私、不器用で――」
「いや、いいよ、うまくできなくても。最近は、何でも店で買えるようになってるし、こんなの、大した問題じゃない。逆に、こんなのめったに食べられないし」

 落ち込みかけた私の頭に、大きな手のひらをぽんと乗せて、颯太は笑った。
 昔からそうだ。私が突っかかると、颯太もからかい半分になるし、反対に、私が落ち込んでるときはとことん優しくなる。
 いつも、優しくされるのは私のほうで、私から颯太に何かしてあげたことなんて、あっただろうか。

「う……ん。でも、やっぱり、颯太にちゃんとしたもの食べてもらいたかったな」

 先週も、夕飯を作ってあげるといいながら、結局颯太に作らせてしまうことになっちゃったし、チョコレートはチョコレートで、まともに食べられるようなものでもないし。
 せっかく恋人に昇格して初めてのバレンタインデーなのになあ。
 ため息をついたら、頭に乗っていた颯太の手のひらが、宥めるようになでなでと動き始めた。

「食べたじゃないか、飴みたいな、トリュフ」

 ああ「飴みたい」ってのは、余計だ。
 でも、そういう風にちょっとだけ茶化すのは、私が申し訳なく思わないような配慮なのかもしれない。

「買ったものでもいいから、ちゃんとした、チョコあげれば良かった」
「じゃあ、途中にコンビニがあったらさ、そこでチョコ、買ってくれればいいよ」
「……うん」

 頭を撫でていた颯太の手が、わしゃわしゃと頭を撫で繰り回す。そこまでされては、さすがに、落ち込んだままってわけにも行かず、私は「もう」と抗議の声を上げた。

「そんな、落ち込むなよ。バレンタインなんて、二人きりで素敵な時間を過ごすための、ただの口実でしかないだろ」

 ゴンドラが降車位置に戻る直前。
 颯太が、ほんのりチョコレートの香りがするキスをくれた。



 冬だけど、風があまりないからか、芝生の広場では、日当たりのいいベンチで日向ぼっこをしたり、シートを敷いて昼寝をしたりして過ごす人や、ボール遊びや鬼ごっこをする子供たちで思いのほかにぎやかだった。
 実際、こうやって柔らかい冬の日差しを浴びながら歩いているのは気持ちいい。
 ふわっと香ってきたのは、たぶん、沈丁花の香り。
 この穏やかな光景の中にいると、今日のこの日がずっと続くような錯覚に捕らわれる。

「千尋?」

 いつのまにか、私は足を止めて、ボール遊びをする子供たちを見ていたようだ。
 数メートル先から戻ってくる颯太に名前を呼ばれて、私はしばらくそこに立ち止まっていたことに気がついた。

「あ、ごめん」
「何見てた?」

 私がぼうっと見つめていた先に、目を遣った颯太は「気持ちよさそうだな」と目を細める。
 シートの上で昼寝をしている父親と、ボール遊びをする幼稚園くらいの兄弟と、それを見つめる母親――

「――幸せってのを形にしたらこうなりそうっていう、典型的な例だな」
「私も、さっき同じこと思った」

 颯太の言葉にくすっと笑ったとき、子供の持っていた大きなボールが父親にぶつかった。母親が、のったりと身を起こした父親の肩に、促すように手をかけると、彼は、面倒そうに――けれど、その顔には照れを纏った満面の笑みを浮かべて、立ち上がりボールを持って走り出した。
 子供たちとじゃれる父親を見ながら、母親がシートの空いた場所に大きなカバンからタッパーを並べはじめた。
 ディスカバリーランドもいいけど、こんな風に芝生の公園にお弁当を持ってピクニックってのも、ほのぼのとしていて良いな。

「お弁当、持ってくれば良かったね」

 そうすれば、もっとデートらしくなったかもしれないのに。
 何気なく漏らした一言に、颯太が私の額を小突いた。

「その弁当は、誰が作るんだ?」

 ――! そうだった。
 お弁当といえば、大体が彼女の手作り、よね。
 そっと颯太の顔色を窺うと、明らかに「俺は作らんが?」という表情になっている。

「……れ、練習します」
「弁当が作れるようになったら、また、ここに一緒に来よう」

 その上から目線の言い方は不服だけれど、反論できるだけの材料を持ち合わせていない私は、黙り込むしかない。
 一歩前を歩き始めた颯太が、思い出したように手のひらを出した。

「手、貸せ。いると思って話しかけたら、お前が後ろにいないんじゃ、まるで馬鹿みたいだろ、俺」

 戸惑いながら出した私の手を、颯太がぐっと握ってすこし引き寄せる。

「離すなよ」
「……うん」
――約束する。

 颯太の手に自分の指を絡めると、またひとつ、新しい約束――私と颯太の未来へ続く道標が生まれた。
 これが確かなものとなる様に、私は一生懸命頑張ろう。
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