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立ち話

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 ***

 数ヶ月前――契約更新に伴い、営業用のブックと宣材写真コンポジットを新しくしたので事務所に寄った時のことだ。マリアは、スタッフの一人から、その夜に行われる忘年会に誘われた。
 事務所近くのおしゃれなバーでの、事務所スタッフの内輪の小さな飲み会。同じようにタイミングよく現れて誘われたと思しき顔見知りのモデル仲間も数名いたことから、マリアも遠慮なく参加できた。
 これを機に達彦を落とそうとか、仲良くなろうとか、そこまで考えていたわけではない。
 ただ、最初に契約を結んで以降は、社会的な関係の方が先立ってしまいプライベートでゆっくり話す機会が減っていたから、ちょっと話でもできればとの軽い気持ちだった。
 だが、乾杯してビールを一杯空けたところで、おもむろに席を立つ達彦に気付いて、マリアは慌てた。
 おそらく、いつものことなのだろう。慣れた様子で財布の中から少し多めに一万円札を抜きだして、幹事役に手渡した彼に、その場にいた誰もが口々に労いの言葉をかける。
「もう帰るんですか?」
「こういうところは、おっさんはいないほうがいいだろう。――君はゆっくりしていくといい」
 思わず引きとめかけたマリアに、そう言い残し、達彦は未練もみせずにさっさと店を出た。
 せっかく、ゆっくり話すチャンスだと思ったのに、肩透かしを食らった気分だ。が、考え直せば、これは逆に二人きりで話をするチャンスではないだろうか。
 そう思ってしまったら、もう、平静を装うので精一杯で――用事を思い出したと言い訳し、マリアは店を出た。
 街はクリスマスシーズンが始まったばかりで、歩道脇の街路樹には小さなライトが沢山点され、いつもにぎやかな夜に、静謐なエッセンスを加えている。
 煌めく光を楽しみながらそぞろ歩いている人々の間を、マリアは周囲に注意を払いながら小走りで人混みを縫った。みんなが視線を上げ小さな光の芸術を楽しんでいる中、マリアの視線だけは、地上を這いまわる。
 いつも遠くから眺めていた細身の背中を探して。

 けれど、最寄り駅の入り口までの間にそれを見つけることはできなかった。
 電車に乗るだろうと勝手に決め付けて駅まで走ったが、もしかしたら、地下鉄ではなかったのかもしれない。
 地下に降りる階段の手前で息を整えながらマリアは、彼が近くの店で飲み直したり、途中でタクシーを捕まえたりした可能性もあることに気がついた。
(……なにやってんだか)
 空腹に飲んで、走ったせいか、少量のはずなのにアルコールがよく回っている。
 彼女は、すぐ横にあった白いガードレールに凭れかかった。
 胃の辺りから笑いがこみ上げてくる。
 話しかけるチャンスだと思って、慌てて飛び出してきた自分がバカみたいだ。

(――なにが、チャンスだ。相手は、既婚で、しかも自分よりも十四も上で――。普通に考えれば、チャンスの欠片などあるはずもないのに)

 でも――
 胃の辺りの笑いのストックが切れたのか、次に胸の奥で生まれ喉の奥までせり上がってきたのは、切なさだった。
 笑いとともに涙も漏れ始める。
 それを、もう一人の冷静な自分が観察していた。
 なぜ自分はこんな程度のことで泣いているのか。話がしたくて彼の後を走って追い、追いつけなかったからと残念がる――これでは、まるで初めての恋に戸惑う中学生だ。
 マリアは、溢れる涙を拭うこともせず、笑いながら泣いた。幸い道行く人々は上を見上げながら通り過ぎ、マリアには注意も払わない。
 涙で滲んで幻想的で綺麗に見えるイルミネーションが余計にマリアを惨めな気分にさせた。
 クリスマスソングも、ライトアップされた街も、彼女には無縁の世界で、その間を冷たい風が吹き抜けていく。
 既婚者だと分かったときからずっと、好きになってはいけないと自分に言い聞かせていた。なのに、こんなに些細なことで、必死に築き上げてきた心の堤防が決壊するなんて。
 ……自分はもっと強いと思っていたのに――
 鼻の奥がきゅっと絞られ、目に映るライトがさらにぼやけて、大きくなっていく。
 そのとき、脇からすっと視界に入った影がクリスマスのイルミネーションを遮った。

「笑うか、泣くか、どっちかにしろよ」
 驚いて顔を上げたマリアの頬を伝う涙を彼の親指が拭い取り、干草のような煙草の香りが鼻腔をついた。
 マリアは、慌てて小さなバッグからハンカチを取り出し、頬と目元を押さえ拭う。
「もうお帰りになったとばかり……」
「途中で、一服してた」
 達彦はすぐそばの小さな鳥居を指差した。
 四畳半ほどの狭いスペースに、鳥居と、小さな祠が建っている。その鳥居のすぐ脇に、ご丁寧に灰皿が置いてあった。路上喫煙も厳しくなってきたこのご時勢だ。今では少数派となってしまった喫煙者のために、この神社の境内――というほどのサイズではないが――が開放されているのだろう。
 ここから見えるということは、あそこかもこちらが見えていたということだ。マリアは、人目も憚らず涙を零したことを、恥ずかしく思った。
「……必要なら、話を聞くが?」
 これで涙の本当の理由を知られようものなら、もう二度と達彦とは普通の顔で話すことはできそうにない。
 とはいえ、涙をぬぐい取られた手前、このまま背を向けて立ち去るというのも不自然すぎて――。
 マリアが涙の理由をどう説明すべきか考えていたら、彼は「やっぱり……間に合わなかったのか?」と聞いてきた。
 「何が、『やっぱり』なんですか?」
 推測の手がかりがなかったので、マリアは仕方なしに聞き返す。
「トイレ、だったんだろ?」
 平然とそんなことを言われて、マリアは唖然となる。
 一呼吸おいて、良く考えて――ようやく、マリアの走っていた理由を彼がトイレだと思いこんでいることにたどり着いて、思わず彼女は恥ずかしくて叫びそうになった。
「どうして、そんな発想になるんですかっ!?」
 さすがに街中なので抑え目にはした。が、抑えた分だけ、余計に恥ずかしさが残ったような気がする。
 僅かに頬が熱いのは、変な風に誤解されたからで、決して達彦と話しているからではない――と、マリアは自分に言い聞かせる。

「あんな勢いで走るなんて、たいていソレだろ。……で、こんなところで泣いてるんで、これは、間に合わなかったかな、と――」
「違いますっ! ――てか、その考え方、おかしくないですかっ!?」
 達彦は、薄い笑みを浮かべたまま、「そうか?」といつものようにかわす。
「……そうですよ。道を走ってるだけで、トイレを連想するなんて――、年をとってる証拠ですよ」
「おっさんだもん。間違ってない」
「どうしてこういう時だけ素直に認めるんですか。調子が狂うじゃないですか」
「自分では若いつもりだが、他人の評価がおっさんならしかたないだろ。実際、いい歳なわけだし。――で、話は戻るけど、急いでるヤツにぶつかられても、そいつがトイレを我慢してるんだって思えば『仕方ないな』で済むだろう?」
 わざわざ話を戻さなくても、と思いつつ、マリアはこれが達彦的幸せの発想の仕方なのだろうと理解する。
 なるほど、そういう考え方をすると、確かにイライラしないですみそうだが――
 彼女は、小さく息を吐いて達彦を見た。
「呆れてる、って表情かおだな」
 達彦がマリアの顔を覗き込んで笑った。
「そうじゃないですけど――」とプイと顔をそむけた彼女は、ここ何年も仕事の話以外していなかった彼と自然にくだらないことを話せている自分に気づいて驚く。
 ――多分、達彦が、あの時と変わっていないからだ。
 些細なことでも見落とさず、自分なりに楽しむことが出来る人。それが、羨ましくもあり、尊敬できるところでもあった。
 あの時――もし、あれがあんな日ではなかったとしても、彼は何かしら、あの光景の中で幸せになれるものを見つけ出していたのだろう。
 達彦は、そういう性格だ。立ちはだかる問題が大きければ大きいほど、しれっとした顔で切りぬける。
 ラッキーボーイ(?)の異名は伊達ではないのだ。
 彼と知り合ってからの十二年のうちに、達彦の幸運ラッキーが向こうからやって来るのではなく、彼自身がその独特の考え方でそこから見つけ出しているのだと、わかってきていた。
「……柏木さんは、私が走ってるのがトイレだと思わなければ、イライラしてたんですか?」
「いや、それはただのたとえで――君の場合はただ単純に、心配しただけ」
 心配してくれたんだ、と思うと、心の奥が熱くなった。……のに。
「――間に合ったかな、ってさ」と真面目な顔をして心配する達彦に、熱くなった心が恥ずかしさで沸き上がる。
「余計なお世話ですっ!」
 つい声が大きくなって、口をつぐんだマリアの腹が、タイミングよくきゅるるるるとなり、達彦が表情を緩めた。

「行くか」
「え?」
「メシ。――腹が減ってるんだろ?」

 行くか――メシ――腹が減って――

 マリアの中で、これらの単語が繋がって意味を成すのに、少し時間が必要だった。
 その間にも、達彦はきらきらに飾り付けられた街路樹の下をゆっくりと歩き始める。
 数歩先に進んで、なおマリアの気配がないと知った彼は、小さなため息共に口の端を上げてマリアを振り返った。

「俺も腹が減ってるんだ。いいから付き合えよ」
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