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 強さを増した雨が叩きつけるように降る中、頭に、肩に、唇に加えられる非日常の奇妙な刺激が女の身体を緩めていく。
 二人が十分遠ざかったのを感じ取った彼は、女を解放した。
「引き留めて悪かった」
「……ちょっと! こ……こんなことしておいて、なにも言わずに帰る気?」
「謝っただろ?」
 男はこれ以上話がこじれるのを警戒して、できるだけ軽い調子で言ってみせる。
「そうじゃなくて――」
「ああ、金? ……いくら? 領収書もらえるかな?」
 小さくこぼしながらゆっくりとジーンズの尻ポケットに手を伸ばしたその瞬間、彼の左頬は思いっきり平手で打たれていた。
っ――」

 これ以上、男の顔を見ているのが嫌になったのか、女は彼に背を向ける。
 だが、運に見放されていたのは、彼だけではなくこの女も、だった。
 数十メートルほど前に、見覚えのある後姿を見つけ、勇んで踏み出したその足がすぐに止まる。
 見ないで済めば、良かったのに――男のそんな想いが徒労に終わる。
 足を止めた女の肩に彼は、まるで慰めるかのように手を置いた。
「あの男――知り合い、かな?」
「知ってた、から?」
 男は肩を竦める。
 まだ降り止まない雨の中、女物の晴雨兼用の白いレースの傘の下で身を寄せ、仲睦まじく歩き去る二人。
 その傘の下で二人の唇が重なるその瞬間も目をそらさなかった女に何を言えばいいのか。
 二人が三つ先の角を右に曲がってからしばらくして、女は「……ねえ」と前を向いたまま男に声をかけた。
「さっきの、キスの代償なんだけど――」
 やれやれという様子で彼はジーンズの尻のポケットから皮製のビルクリップを取り出す。
「それだけあれば、十分」
 男の手元をのぞき見た女はそう言うと、彼の腕をとると、今し方二人が出てきた建物へと引っ張り込んだ。
 驚かなかったわけではない。だが、まあ、この女にはこの女なりの事情があるのだろう。
 そう解釈して男は黙ってついていく。どうせ、午後は教授が代わりに講壇に立ってくれると言っているし、夜の約束まで時間はたっぷりある。
 部屋の扉を閉めるなり、彼はハードケースをテーブルに置き、濡れたパーカーとシャツを一緒に脱いだ。下着までぐっしょりだったが、さすがに――いくらこちらが連れ込まれたとはいえ――キス一つで文句を言う女の前でそれを脱ぐのは止めておいたほうがいいだろう。そう判断して彼は、洗面室に移動する。
 全部脱いで洗濯乾燥機に放りこみ、ついでに浴槽に湯の準備をした後、洗面室の中を漁ってバスローブを羽織った。水滴が垂れる前髪は、とりあえず後ろになでつける。

「乾燥機があったから、濡れた服を乾かした方がいい」
 部屋に戻って彼は、もう一枚のローブを女に押しつけた。
 それから女には一切興味を示さずに、冷蔵庫に歩み寄る。
 女はすでに後悔し始めているのか、入り口あたりで戸惑いを見せていた。
 数時間一緒にいてやれば、彼女の気もおさまるだろう。ホテル代は経費に計上して、雨宿りをしていると思えばいい。
 小さな冷蔵庫には、ビールと缶チューハイ、ミネラルウォーターが入っている。
「おっ」
 その奥に思わぬ収穫を見つけた彼は、今日の不運が一気に帳消しになったような気がした。連れ込んでくれた女に感謝の気持ちさえ湧いてくる。
 男は冷蔵庫の前のベッドの端に腰かけてビールの缶を開け、煙草に火を点けた。
「君がその気にならないなら、なにもしない。……だが、ヤるにしろ、ヤらないにしろ、その服は脱いだほうがいいと思う」
 まだびしょ濡れで、立ったままローブを手にして戸惑っている女にそう声をかけると、彼女は、改めて自分の恰好を見降ろした。そうして、ようやく白いブラウスが肌の色を透かして見せていることに気がついたのか、胸元を掻き寄せてそそくさと洗面室へと向かう。
 三本目の缶を空けたところで、女がかっちりとローブを着こんで洗面室から戻ってきた。ゴトンゴトンという音がかすかに聞こえるところからすると、乾燥機のスイッチも入れてくれたのだろう。
 男は、冷蔵庫から新しいビールを出して彼女に投げた。両手でそれを受け取った女は、ローブの合わせを気にしながら、彼から一番離れた一人用のソファに腰を下ろす。
「湯が張れたら少し温まったほうがいい。服が乾く頃には雨も上がっているだろう」
 沈黙が訪れ、乾燥機が回る音と湯が注がれる水音だけが部屋に響いた。
 男の様子を窺っていた女は、彼がビールと煙草以外に興味がないのがわかると、ようやく手元の缶のプルタブを引き、口をつけた。

 女は湯の音を聞きながら、ぼんやりとあの男のことでも考えているのだろうか。
 ホテルの前で顔を合わせても、焦ることなく、反対に軽く会釈してみせる余裕綽々のあの男の態度は、彼女が彼をどう思おうとも気にしない風であった。よほど女が自分に惚れていると自信があるのか、あるいは、最初からどうでもいいと思っていたのか。
 つっと女の頬を水滴が伝い落ちるのを視界に捕らえた男は、煙草の火を揉み消して立ちあがる。女の身が強張ったが、彼は気付かぬふりをしてその横を通り過ぎ、何食わぬ顔で浴室まで行くと、水栓を閉めた。
 戻ってきて頭からタオルをかけてやる。
「風呂沸いたぞ」の言葉に、女は素直に従った。
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