表と裏と狭間の世界

雫流 漣。

文字の大きさ
上 下
53 / 60
弱虫ディッパー翁

鞭を振るう雇い主

しおりを挟む
日が沈む前に適当なねぐらを確保しなきゃ。

森を探索し始めてからおよそ一時間。
中古品の腕時計はイマジェニスタでも変わりなく動いていた。
時間の経ち方はどちらの世界も同じなのかもしれない。
すると、リアラルで人間が見た夢は、見た瞬間タイムラグなしにイマジェニスタに発生するんだろうか。

いや待てよ。
棒人間は、子ども時代に僕が描いた落書きだぞ。
必ずしもリアルタイムとは言えないんじゃ…

考えごとをしていると、ぶんっ!とつたがしなって、したたか尻を引っぱたかれた。
こいつらは、打つ度に「働け!休むな、働け!」
と葉っぱをかけるのだからたまらない。
森の主だろうか。
それとも木の精?

熟れて甘そうな果物は、もごうとすると
「私を食べないでください」
と哀願するし、植物もリアラルとは違い、多彩だ。

洞穴ほらあなか、岩と岩の隙間がベスト。
横たわって休めるスペースがあればいい。
ここに来てから、腹が空かず喉の乾きもないのが不思議ではあるが、ありがたい。

「飲まず食わずでもいられるなら、サバイバルの難易度はぐっと下がるってもんだ」
カイが呟くや否や

「無駄口を叩くな!働け、働けー!」
怒号とともに、空気を切り裂く音がして、どこからともなく鞭が飛んできた。
これで何度目か。
叩かれすぎて、小猿の尻みたいに真っ赤になっているはずだ。
さすがに苛ついてきた。

「ねぇ、君。賃金は?」

つたが飛んできた方向を睨みつけてカイが怒鳴った。

「賃金。聞いたことがない」

「働かせるには報酬が必要なんだ。まさかと思うけど、知らないとか?雇い主のくせに」

ひゅん、と鳴らして飛んできたつたの勢いが急に弱くなり、だらんと垂れた。

「知らぬ。なんのシステムだ、それは」
さっきまでの怒号は、不安を含んだ声音に変わっている。

効いてる?
なまじ知性があるだけに、考察しだしたぞ。

「給料だよ。報酬を払わずに働かせるのは違法労働だ」

「違法…。違法?」

「そう。間違ったことをしてるって意味」

「そんなはずはない。怠け者め、適当なことを言ってサボる気なら…」

前後左右、あちらこちらから、ひゅんひゅんと音が鳴りだした。
こんなにたくさんの鞭で一斉に打たれたら死んでしまう。
慌てて近くの木に寄りかかり、弱り果てた尻を守るカイ。

「嘘だと言いきれるかい?
君たちは森の外の世界を知らないじゃないか」

確実に僕の言葉は奴に効いてるんだ。
ひるむな、ここで引いたらだめだ!

いったん言葉を切り、よりドラマティックな効果を狙って大声を張り上げる。
「だって、君らは。
んだろ?」

不意に静かになった。
周り中のつたというつたが、だらしなく伸びて、うなだれている。

たわけたことを。
これまでずっとこの方式でやってきたのだ。
それこそ何百年もの長きに渡り。
それが実は、間違いだと申すか」

「森の外なら君のやり方は間違いだよ。
井の中のかわずって知ってる?
森の中の木も同じようなものかもね」

鼻をすすっているのか、嗚咽が聞こえる。
夜露がひとしずく、ふたしずく。
木の葉の間を縫ってカイの首筋にぽちゃりと落ちた。
人肌の温度に近い。
それは温かかった。

鼻水じゃありませんように…
と思ったがとりあえず黙って次の言葉を待つ。

「報酬とかいうやつを払えば。
私はなにも間違わなかったことになるのかね」

「そういうことになるね」
上手く行きそうだぞ!

「では聞くが。報酬とはなんなのだ。
払いかたを知らぬのだ」

「安全に眠るための場所が欲しいんだ。
それが報酬だよ」

ザワザワザワ…
風もないのに、明るい音をさせて木々がざわめく。
喜んでいるようだ。

「簡単なこと。そら、そこへ」

5本のつたが指のように形を変え、巨大な大木を指し示した。
この森で見た木の中でもっとも太く立派で、長く生きてきたであろう菩提樹に似た大木だった。

つたが、木の幹を縦に優しくなぞると、うっすらとヒビが入っていき、ぽっかりと穴が口を開けた。

「我らがうろで休むがいい。この報酬はおまえが働く限り、永続的に払い続けることとする」

「ありがとう、オーナー!」

こうしてカイは、たいした労働もせず、安心安全な寝床を無事に獲得したのだった。
しおりを挟む

処理中です...