表と裏と狭間の世界

雫流 漣。

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脱走

闘技場の盗人

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冷たい大理石の塊がどっしりと鎮座している。
人の腰ほどの高さ。

四方から段状にせり上がり、
最上段は縁取りのついた綺麗な正方形。そう大きくはないが台座のようだ。
濃紫色をした滑らかなビロードの布が敷かれている。

その中央に、
きらきら光る長細い物体。

片側は端にいくにつれて細くなり、鋭利な切っ先を銀細工の鞘が柔らかな曲線で守っている。
反対側の柄(つか)の部分は、
大小様々な宝石が隙間なく埋め込まれ、その凹凸が鮮やかな多彩色の光を辺りに放つ。


短剣。


女性が片手で楽々と扱える小ぶりさ、全体のバランスや華美さを考察するに、装飾品。
良くて護身用が関の山だ。
飾りが仇となり、実用的ではない。

台座の置かれた一角は眩く輝き、短剣のごく周囲の空気が屈折しているのがわかる。
蜃気楼だか湯気だかわからないが、熱っぽく粒子が揺らめいている。


どくん、どくん。



どくん、どくん。



短剣が脈打っている。
血液を送り出す心臓が
短剣なら。



どくん、どくん。


放射状に広がる蜃気楼が血液。
短剣の心拍に呼応して、
広がったり縮んだりしている。
真っ暗な空間の中、
短剣と、そこから立ちのぼる妖しいオーラだけが鮮明に浮かび上がっている。

辺りは漆黒の闇の中。

そして――
さほど広くない部屋の隅に
黒い影が、
ひとつ、
ふたつ、
みっつ、
よっつ。

四つ角すべてに、一つずつ。
影の正体が、黒いフードつきのローブをまとった人影だと気づくのに、第六感に長けた人間ですらたっぷり五分は要するだろう。
常人なら存在に気づくこともなく部屋を出て行くはずだ。
彼らはそれほど完全に気配を消していた。
まんじりともせず、中央を向き台座を見つめている。
フードに隠れてその表情は定かではないが。

「年が去り、年が来る。
ついに時は満ちた」
四つ角の北西からくぐもった声がした。

「いよいよ明日」
南東の主が続く。

「今宵、我らが夜を、新た来る年にささげん」
しゃがれた響きは南西からだ。

沈黙が流れる。

北東からは物音ひとつしない。
生温い空気。
ピリピリと痺れるような陶酔感。
嵐の前の静けさ。

突然、松明に灯された炎が飛び魚のように大きく燃え上がり、
乾いた音を残してジュッと消えた。

「鬼門は開かれたり」
声は北東から。
猛々しい嘲笑。

北東は、日出る処の国と呼ばれる東洋の島国では鬼門とされている。
鬼門とは鬼の訪れる方角のことだ。
門をかいくぐり、災いは北東からやってくる。

次の瞬間、北東を除いた三方向から、北東に向けて一斉に閃光が走った。

バーーーン!

がらがらと盛大に音を立て、
石壁が崩れ落ちる。

「レモトヨリカア」

呪文とともに部屋全体が明るくなり、隅々まで露わになった。
天井に吊された巨大なシャンデリアが灯されて、大きく揺れている。

「しまった!」

台座の上にあるはずの短剣が消えている。
魔導大会の優勝者への献上品である、魔力を秘めた短剣が。

空っぽの台座とひび割れた壁、
そして当惑した面持ちで立ちすくむ三人の賢者。

どこか遠くで人々の走り回る音。怒号や叫び声が混ざっている。

「馬鹿な、我らが幾重にも張り巡らせた罠をやすやすと破るなど…」
賢者の一人。

「そうではない、この結界は始めから機能していなかったのだ。
三方向からの呪詛など、およそ防御の意味を成さぬ」
ひんやりした氷柱のような声。

「…と申すと?お主の見解を端的に述べてくれまいか?」
声を潜めて第三の声が。

「あやつが始めから、結界を張っていなかったとしたら…
始めから終いまで、北東に穴が開いていたことになる。
結界はずっと不完全なままだったのだ。
…ラビトヨデイ!」

人差し指を一方的に向けて呪文を唱えると、なにもなかった壁の一角に鉄製の厳めしい扉が出現した。

「おそらく。多方位結界とはそういうもの。
マゴケラヒ!」

別な賢者が杖を振るうと、
轟々と空気を軋ませて、たったいま現れたばかりの分厚い一枚板が上に上がっていく。

「心配には及ばぬ。この部屋を出たとて、そこには今大会に出場すべく集まった幾多の魔導士たちが罪深き盗賊を待ち受けているのだ」
フードを口元までぐっと引き下ろして賢者が言う。

「左様、何者も狭間から逃れることは不可能。
いずれにせよ、ゴーデル様に早急に報告せねば」

衣擦れの音を響かせて三人が部屋を出て行くと、隣接した大広間からざわめく聴衆の声が聞こえ、やがて静かになった。

「残念な知らせがある。
通年行事である魔導大会であるが…
今年は急遽、取りやめることとなった」

静まり返った広間に響き渡る、ゴーデルの重々しい声。

タキシードやきらびやかなドレスを身に纏った男女が、神経を集中させて王の次なる言葉を待っている。
皆一様に厳しい顔つき。
その張り詰めた表情が、事態の深刻さを物語っている。


「そなたらが大会を勝ち進み、その手にしようと渇望していた魔剣ゾイロスは、つい先程、何者かの手によって盗み出された。
罪人はいまだ狭間のいずこかに身を潜めている」

あちらこちらで息をのむ気配。
…と、さっきから、最前列でしきりに髪を気にしていた上品な中年のレディが、アップにした巻き髪からピンを抜き取り…
たちまちそれが短い杖に変わる。
よく見ると、杖を手にしているのは巻き髪の女性一人ではなかった。
その場にいる魔導士の、ほぼ全員が手に手に武器を構え、
咄嗟の攻撃に備えて準備している。

それを見てゴーデルは感心したように微笑んだ。

「これはこれは頼もしい。
さすが狭間に集結した強者たちよ。一つ気がかりがある。
北東の賢者の行方がわからないのだ。
敵に拉致されたか、あるいは殺められたか…
いずれにせよ賢者を出し抜いてなりすまし、結界を崩壊させるとは、かなりの実力者」

魔導士たちは信頼のこもった
熱い目でゴーデルに仰ぎ見、
またある者は無言で頷き…

「皆、心して行かれよ」

ゴーデルの呼びかけと同時に、
隼のような早技で、全員が広間から姿を消していた。
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