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美醜逆転ドリンク
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「世の中とは不平等なものだと思わないか?君」
「ええ、それはまあ。それより、突然そんなことを言いだして…いったいどうされたのですか?博士」
ここはI博士の勤務する研究所の最上階にある、食堂。
向かい合って昼食をとりながら白衣姿で雑談している相手は美人秘書だ。
親子丼を食べる箸をとめて、悲しげな様子の博士。
ふと視線を感じて振り向いた女性秘書の視界の先に、こちらを眺めてヒソヒソ話をしている女性たちの姿が見えた。
「感じの悪い方たちですね。いったいなにかしら」
「君は自覚していないかもしれないが、美しい女性だ。それが、私のように冴えない中年男と一緒に居るのは不自然に見えるってものだ」
「まあ!」
憤慨した表情を隠しもせずに声を荒らげる美人秘書を見て、I博士が目をぱちくりさせている。
「確かに博士はヒゲ面でボサボサ頭、いつも汚い白衣を着て、頭の中は研究ばかり。気の利いたことも言えませんし、モテるタイプとはかけ離れた方だと思います。けれど私にとっては本当に魅力的な男性です。ですから、ご自分のことを冴えない中年なんて卑下しないでください」
「いつも冷静な君がそんなに感情を露わにするなんて、君は美しいだけではなく優しい人だな。そう言ってくれてありがたいが、私と居ることで君まで悪く言われるのは申し訳ない。そうだ…新しい発明を思い立ったぞ!」
「博士?」
「2ヶ月…いや、1ヶ月待ってくれたまえ」
1ヶ月後。
一人居残っての残業を命じられていた美人秘書が、特別室に呼び出された。
「お呼びでしょうか?」
博士がこの部屋を指定するのは珍しい。特別室には開口部がなく、IC録音機やカメラ、スピーカーや電話機など全ての電子機器の持ち込みが不可。その使い勝手の悪さから普段はあまり使われておらず、利用される場合はたいてい、秘密保持の重要性が求められる新開発の企画会議時に限られる。
「先月君に約束した発明がついに完成したのだよ」
睡眠不足が続いているのか、げっそりと痩け、やつれ果てた姿のI博士。
「顔色が優れないようですが大丈夫ですか?」
「大丈夫。休めばすぐに良くなる。そんなことよりこれを見てくれたまえ」
差し出された手の中に、栄養剤のようなドリンクが1本。博士の汚い字で【美醜逆転ドリンク】と書かれている。
いぶかしげに見守る美人秘書に博士が概要を説明し始めた。
人間には美醜を感じ取る感性があり、この薬はその感性を司る神経に直接作用するという。
「私はこれを、効用を伏せて社員食堂で無料配布しようと思うのだ」
「博士、本気ですか?人の感性を本人の許可なく勝手に操作…しかも真逆にするなんて」
「そういうと思っていたよ。君は良心に反した行いを平然と実行できるほど曲がった人間ではないからね」
「博士…」
「いいかい?よく聞いてほしい。このドリンクにはビタミン、ミネラル、カリウム、マグネシウム、亜鉛…様々な栄養素がバランスよく含まれていて美容や健康にも最適。滋養強壮剤としての品質も高く、誰も困ることはない。メリットしかないのだ。特に問題はないはずだろう?美醜逆転の効用はちょっとしたオマケ程度に考えてくれていい」
一度ムキになったら誰が止めても突き進むのがI博士、嫌というほど見てきている。
逆に言えば、その信念と意志の強さがなければ、とうてい研究者としての今の地位を確立できなかったであろう。
美人秘書はため息をついた。
「わかりました、博士。で、私は何をお手伝いしたら良いのでしょう?」
「ありがとう。分かってくれて嬉しいよ。で、本題に戻るが、君にお願いしたいことというのはアンケート調査なのだよ」
博士いわく、実際に美醜を感じる能力がどの程度逆転したのかを知るには、事前に世間一般の美醜の定義づけが必須だという。個々人の好みなど主観に左右される事象なため、アンケートを取り、多数決によってざっくりと平均的な美醜を統計化する。
「美醜あわせて100人の男女の写真を見せ、100人それぞれに<非常に美しい>から<非常に醜い>までの10段階で評価をつけていただく。アンケートは各都道府県、職業、学歴、経済状況や家族構成にいたるまで、偏りのないよう同比率で細分化した全国の老若男女、計10万人からデータを収集。そういうことでよろしいでしょうか?」
満足そうに頷くI博士。
一を聞いて十を知る。
I博士が一言いえばすぐさま意図を読み取って的確な返答をする、美人秘書の類い希なる回転の早さ。そして博士の明晰な頭脳。このコンビネーションによって、これまで数々の発明を世に送り出してきたのだ。
「では、至急、手配を整えてデータが集まり次第、統計結果をご報告しますわ」
それからの美人秘書は、猛烈な勢いで仕事をこなしていった。収集したデータを整理し、グラフにまとめていく作業は、当初考えていたより遥かに膨大で困難を極めるものだった。なにしろ、研究所の上層部に露呈しないよう秘密裏にアンケートを聴取するには、美人秘書が単独で動くしかないのだ。
数人の学生アルバイトを雇ったものの、明らかに人手不足。
深夜残業や徹夜が続き、食事はすべて出来合いのコンビニ弁当。ファンデーションが剥げ、目の下のクマが露わになる。髪を振り乱し、仕事に没頭する様子は鬼気迫る鬼のよう。
美人秘書の気力と体力は、とうに限界を超えていた。
昼夜問わず、寝る間も惜しんで働きづめに働いて…ようやく資料が出そろい、15日目に完成を迎えた。
絶命寸前の落ち武者のようにやつれた女が、大きな長椅子に腰かけている。
シミだらけでヨレヨレの白衣、すすけて汚れた顔に虚ろな視線、目の下には濃いクマができている。別人のように変わり果てた美人秘書を、I博士が心配そうに覗き込んだ。
「ありがとう。これだけの仕事を短期間でこなすのはさぞかし大変だったろう。君には心の底から感謝しているよ。その恩返しというわけではないが、記念すべきドリンクの試飲第一号は君にお願いしたい。君には僕が、たいそうな美男子に見えると思う。楽しみだな」
「…は…い…」
睡魔と闘っているのか、返事すら危うい様子で無言のまま頷く、落ち武者の女。
促されるまま、差し出された小瓶を口につけ、一気に喉の奥に流し込む。
倒れる直前、美人秘書が目にしたのは…
この世の者とは思えない美しさ、清潔感の溢れる身なりをした上質な女の姿だった。
(…なんて…神々しく…美しい…)
それが、窓ガラスに映った自分の姿だと理解した瞬間、彼女は倒れ込んで眠りに落ちた。
女性秘書が目を覚ましたのは、それから二日後のこと。
蓄積された疲労のせいで眠り続けていたらしい。
医務室で目を覚ました美人秘書が真っ先に目にしたのはI博士。
「博士ったら片時も離れず、つきっきりで側にいたんですよ」
保健医にからかわれ、真っ赤な顔をしてそっぽを向くI博士。
「博士、眠くて眠くて、あまりハッキリ記憶にないのですが…ドリンクを飲んだ後、私は自分の顔を見たような気がします」
「どうだったかね?」
「自分で言うのもなんですが…とても美しく見えました。でもどうやら私が眠っている間に薬の効き目が切れたようですね。だって、その…博士の姿が…あの…いつも通りに見えますから」
I博士は何も言わず、優しい瞳で美人秘書を見つめる。
「博士…今回のことで、私は自分がブスだということがよくわかりました。正直いいますと、イイ女とは呼べないまでも…まぁまぁイイ線いってる、中の上くらいかなと…自分では思っていたのです。身の程知らずで、お恥ずかしいですわ…勘違いの評価をしていたなんて。これじゃあ博士に振り向いてもらおうなんて…」
美人秘書の言葉を遮って、I博士が優しく語りかける。
「実験は不発。君が倒れた後、新薬に不備が見つかったんだ」
「つまり…美醜の逆転はおこらなかった、と?」
「ああ」
目を見開く美人秘書。
でも…あのとき、たしかに…
「頑張ってくれた君には申し訳ない結果になってしまった。すべては研究者としての私の未熟さが招いた種なのだ。本当にすまない」
そう言いながら、I博士はポケットから電子ライターを取り出し、レポートの束に着火する。
「博士、なにを…」
「美醜逆転ドリンクの製作工程さ。だが、こんなものはもう必要ない。失敗したものをいつまでも保管しておく意味もないしな。それに」
部屋を出て行きかけた博士が、戸口の前で振り返る。
「美しいものは美しいまま眺めたいじゃないか」
バタン。
翌日。
ここはI博士の自宅のリビング。コーヒーの香りが漂う空間で博士がくつろいでいる。
「まったく、あの薬の効果にも困ったものだ。長年、お気に入りにしていた秘蔵のクラッシックの調べが、騒音に聴こえるなんて」
目の前にはすっかり空っぽになったCDラック。
「危ないところだった。私のエゴで取り返しのつかないことになるところだった。失ったものがCDだけで本当に良かった」
「ええ、それはまあ。それより、突然そんなことを言いだして…いったいどうされたのですか?博士」
ここはI博士の勤務する研究所の最上階にある、食堂。
向かい合って昼食をとりながら白衣姿で雑談している相手は美人秘書だ。
親子丼を食べる箸をとめて、悲しげな様子の博士。
ふと視線を感じて振り向いた女性秘書の視界の先に、こちらを眺めてヒソヒソ話をしている女性たちの姿が見えた。
「感じの悪い方たちですね。いったいなにかしら」
「君は自覚していないかもしれないが、美しい女性だ。それが、私のように冴えない中年男と一緒に居るのは不自然に見えるってものだ」
「まあ!」
憤慨した表情を隠しもせずに声を荒らげる美人秘書を見て、I博士が目をぱちくりさせている。
「確かに博士はヒゲ面でボサボサ頭、いつも汚い白衣を着て、頭の中は研究ばかり。気の利いたことも言えませんし、モテるタイプとはかけ離れた方だと思います。けれど私にとっては本当に魅力的な男性です。ですから、ご自分のことを冴えない中年なんて卑下しないでください」
「いつも冷静な君がそんなに感情を露わにするなんて、君は美しいだけではなく優しい人だな。そう言ってくれてありがたいが、私と居ることで君まで悪く言われるのは申し訳ない。そうだ…新しい発明を思い立ったぞ!」
「博士?」
「2ヶ月…いや、1ヶ月待ってくれたまえ」
1ヶ月後。
一人居残っての残業を命じられていた美人秘書が、特別室に呼び出された。
「お呼びでしょうか?」
博士がこの部屋を指定するのは珍しい。特別室には開口部がなく、IC録音機やカメラ、スピーカーや電話機など全ての電子機器の持ち込みが不可。その使い勝手の悪さから普段はあまり使われておらず、利用される場合はたいてい、秘密保持の重要性が求められる新開発の企画会議時に限られる。
「先月君に約束した発明がついに完成したのだよ」
睡眠不足が続いているのか、げっそりと痩け、やつれ果てた姿のI博士。
「顔色が優れないようですが大丈夫ですか?」
「大丈夫。休めばすぐに良くなる。そんなことよりこれを見てくれたまえ」
差し出された手の中に、栄養剤のようなドリンクが1本。博士の汚い字で【美醜逆転ドリンク】と書かれている。
いぶかしげに見守る美人秘書に博士が概要を説明し始めた。
人間には美醜を感じ取る感性があり、この薬はその感性を司る神経に直接作用するという。
「私はこれを、効用を伏せて社員食堂で無料配布しようと思うのだ」
「博士、本気ですか?人の感性を本人の許可なく勝手に操作…しかも真逆にするなんて」
「そういうと思っていたよ。君は良心に反した行いを平然と実行できるほど曲がった人間ではないからね」
「博士…」
「いいかい?よく聞いてほしい。このドリンクにはビタミン、ミネラル、カリウム、マグネシウム、亜鉛…様々な栄養素がバランスよく含まれていて美容や健康にも最適。滋養強壮剤としての品質も高く、誰も困ることはない。メリットしかないのだ。特に問題はないはずだろう?美醜逆転の効用はちょっとしたオマケ程度に考えてくれていい」
一度ムキになったら誰が止めても突き進むのがI博士、嫌というほど見てきている。
逆に言えば、その信念と意志の強さがなければ、とうてい研究者としての今の地位を確立できなかったであろう。
美人秘書はため息をついた。
「わかりました、博士。で、私は何をお手伝いしたら良いのでしょう?」
「ありがとう。分かってくれて嬉しいよ。で、本題に戻るが、君にお願いしたいことというのはアンケート調査なのだよ」
博士いわく、実際に美醜を感じる能力がどの程度逆転したのかを知るには、事前に世間一般の美醜の定義づけが必須だという。個々人の好みなど主観に左右される事象なため、アンケートを取り、多数決によってざっくりと平均的な美醜を統計化する。
「美醜あわせて100人の男女の写真を見せ、100人それぞれに<非常に美しい>から<非常に醜い>までの10段階で評価をつけていただく。アンケートは各都道府県、職業、学歴、経済状況や家族構成にいたるまで、偏りのないよう同比率で細分化した全国の老若男女、計10万人からデータを収集。そういうことでよろしいでしょうか?」
満足そうに頷くI博士。
一を聞いて十を知る。
I博士が一言いえばすぐさま意図を読み取って的確な返答をする、美人秘書の類い希なる回転の早さ。そして博士の明晰な頭脳。このコンビネーションによって、これまで数々の発明を世に送り出してきたのだ。
「では、至急、手配を整えてデータが集まり次第、統計結果をご報告しますわ」
それからの美人秘書は、猛烈な勢いで仕事をこなしていった。収集したデータを整理し、グラフにまとめていく作業は、当初考えていたより遥かに膨大で困難を極めるものだった。なにしろ、研究所の上層部に露呈しないよう秘密裏にアンケートを聴取するには、美人秘書が単独で動くしかないのだ。
数人の学生アルバイトを雇ったものの、明らかに人手不足。
深夜残業や徹夜が続き、食事はすべて出来合いのコンビニ弁当。ファンデーションが剥げ、目の下のクマが露わになる。髪を振り乱し、仕事に没頭する様子は鬼気迫る鬼のよう。
美人秘書の気力と体力は、とうに限界を超えていた。
昼夜問わず、寝る間も惜しんで働きづめに働いて…ようやく資料が出そろい、15日目に完成を迎えた。
絶命寸前の落ち武者のようにやつれた女が、大きな長椅子に腰かけている。
シミだらけでヨレヨレの白衣、すすけて汚れた顔に虚ろな視線、目の下には濃いクマができている。別人のように変わり果てた美人秘書を、I博士が心配そうに覗き込んだ。
「ありがとう。これだけの仕事を短期間でこなすのはさぞかし大変だったろう。君には心の底から感謝しているよ。その恩返しというわけではないが、記念すべきドリンクの試飲第一号は君にお願いしたい。君には僕が、たいそうな美男子に見えると思う。楽しみだな」
「…は…い…」
睡魔と闘っているのか、返事すら危うい様子で無言のまま頷く、落ち武者の女。
促されるまま、差し出された小瓶を口につけ、一気に喉の奥に流し込む。
倒れる直前、美人秘書が目にしたのは…
この世の者とは思えない美しさ、清潔感の溢れる身なりをした上質な女の姿だった。
(…なんて…神々しく…美しい…)
それが、窓ガラスに映った自分の姿だと理解した瞬間、彼女は倒れ込んで眠りに落ちた。
女性秘書が目を覚ましたのは、それから二日後のこと。
蓄積された疲労のせいで眠り続けていたらしい。
医務室で目を覚ました美人秘書が真っ先に目にしたのはI博士。
「博士ったら片時も離れず、つきっきりで側にいたんですよ」
保健医にからかわれ、真っ赤な顔をしてそっぽを向くI博士。
「博士、眠くて眠くて、あまりハッキリ記憶にないのですが…ドリンクを飲んだ後、私は自分の顔を見たような気がします」
「どうだったかね?」
「自分で言うのもなんですが…とても美しく見えました。でもどうやら私が眠っている間に薬の効き目が切れたようですね。だって、その…博士の姿が…あの…いつも通りに見えますから」
I博士は何も言わず、優しい瞳で美人秘書を見つめる。
「博士…今回のことで、私は自分がブスだということがよくわかりました。正直いいますと、イイ女とは呼べないまでも…まぁまぁイイ線いってる、中の上くらいかなと…自分では思っていたのです。身の程知らずで、お恥ずかしいですわ…勘違いの評価をしていたなんて。これじゃあ博士に振り向いてもらおうなんて…」
美人秘書の言葉を遮って、I博士が優しく語りかける。
「実験は不発。君が倒れた後、新薬に不備が見つかったんだ」
「つまり…美醜の逆転はおこらなかった、と?」
「ああ」
目を見開く美人秘書。
でも…あのとき、たしかに…
「頑張ってくれた君には申し訳ない結果になってしまった。すべては研究者としての私の未熟さが招いた種なのだ。本当にすまない」
そう言いながら、I博士はポケットから電子ライターを取り出し、レポートの束に着火する。
「博士、なにを…」
「美醜逆転ドリンクの製作工程さ。だが、こんなものはもう必要ない。失敗したものをいつまでも保管しておく意味もないしな。それに」
部屋を出て行きかけた博士が、戸口の前で振り返る。
「美しいものは美しいまま眺めたいじゃないか」
バタン。
翌日。
ここはI博士の自宅のリビング。コーヒーの香りが漂う空間で博士がくつろいでいる。
「まったく、あの薬の効果にも困ったものだ。長年、お気に入りにしていた秘蔵のクラッシックの調べが、騒音に聴こえるなんて」
目の前にはすっかり空っぽになったCDラック。
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