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CHAPTER.4 旧態依然な灰緑(キュウタイイゼンナハイミドリ)【天体衝突3ヶ月前(冬)】
§ 4ー8 12月31日 白猫がいなくなった店
しおりを挟む--神奈川県・喫茶ル・シャ・ブラン--
クリスマス・イブから3日間降り積もった雪は道路脇にまだ残っていた。
雪かきして集められた雪の山で遊ぶ子供たち。世情などどこ吹く風と遊び笑う光景は、現実を鈍く感じさせる。街路では、数軒の前にトラックが止まり荷物を積んでいて、また他の数軒は雨戸とカーテンで閉め切られている。
「蜜柑。ちょっと家まで取りに行ってくれないかな」
そうお父さんに言われ、今日は14時に店が閉まった後に、歩いて10分の自宅マンションまで取りに戻った。マンションに引っ越したのは母が亡くなった後。「この家にいると思い出して前に進めないから……」とお父さんがポツリともらしていたことは幼い頃のことながらよく覚えている。
雑居ビルの1Fの降りたシャッターには臨時休業を知らせる張り紙が貼られていた。その横の店に続く階段の前には、A面ボードのおすすめメニューの描かれた看板がいつも通りに決まった場所に佇んでいる。
看板の前で立ち止まり、しゃがんで看板と目線の高さを揃える。改めて見ると、何度も描かれ消されたことによる表面の傷と凹凸が無数にあることがわかる。4代目の看板も気づけば3年以上もお店の案内役として立ち続けた。
「今までありがとう……」
優しい目元を浮かべ頭を撫でる。何も言葉を返してくれない。でも、それでよかった。私が伝えたかっただけだから……。
うん、と頷き立ち上がり、看板を大事に畳み、優しく脇に抱えて階段を一緒に上る。1段1段、足の裏に感じる踏み慣れた硬さを感じながら。
♦ ♦ ♦ ♦
天体パンドラが観測されて9カ月あまり。
核兵器1万発を導入した第1次ルードヴィヒ作戦。
アメリカが極秘に軍事開発していたUFO技術による超々電磁波を照射したヨハネス作戦。
現存する残りの核3,000発強での第2次ルードヴィヒ作戦。
いずれの作戦も期待されるほどの成果は上げられなかった。第1次ルードヴィヒ作戦後に白き女王から黒き魔女となったパンドラ。彼女は頑なに軌道を変えず、当初のNASAの発表どおり、狂いなく、当初の予測のまま、最悪の結末に向けて近づいていた。
巷では天体望遠鏡を買い求める人が増加していた。どこの店にも、オンラインストアにも在庫がなく、オークションサイトでは10倍以上の値段で転売されていた。動画サイトにはライブ放送でパンドラの様子が配信されていたが、直接自分の目で確認したいと望む人が増加していたのである。
明け方の空。薄らとでも確かにある黒い塊。それを眺めて落ち着き、その後不安に駆られる。それでも人々は黒き魔女に魅入られる。
その落ち着きはどこからくるのか?
不安に駆られるのになぜ魅入るのか?
それは生への生存欲求から生まれる感情。その感情を直視し続けられないから。
そう、『恐怖』という感情。
♦ ♦ ♦ ♦
カラン、コロン♪ 乾いた音の先には、私が一番過ごした空間、育った場所がいつも通りにある。当たり前に香る珈琲豆が煎られている匂い、開店当時から飾られた光の画家クロード・モネの『日傘をさす女』、カウンターでぬくぬくと眠る白猫モカ、最後のコーヒーを淹れるお父さん、みんな……
「おかえり、蜜柑」
お父さんの声は、母親パンダのようにフワフワで優しい響きだった。
「ただいま♪」
柔らかさに包まれ、私はニッコリ笑って返す。
今日は喫茶ル・シャ・ブラン最後の営業日。大晦日ということもあり、張り紙やSNSで告知したとおりに店は早めに閉店された。常連さんたちも、何度か見たことのある顔の人も、最後ということで訪れた初見の人も、コーヒーしか提供できないのに多くの人が来店してくれた。「ここのコーヒーがもう飲めないのは残念だよ」そう言って笑顔で店を後にする初老の男性に、深々とおじぎをした。
閉店後の店内には、モカの他に加奈さん、風祭さん、颯太さん、彩さん、瑞稀ちゃんの5人が残ってカウンターに座って喋っていた。お父さんが急なことで迷惑をかけたから最後にコーヒーをご馳走させてほしい、と提案したからだ。
会話は年を越した先の話。風祭さんは秋田の実家に、加奈さんは旦那さんの故郷の山梨に、瑞稀ちゃんは両親と滋賀に移り住む予定と聞いている。颯太さんと彩さんは、まだこの地に残るらしい。
私もできれば残りたい。お店の手伝いを続けていたい。今の生活を続けた上で、勉強して、お父さんの力になりたい。でも、そんなわがままを言えない現実が、その想いに蓋をした。
店を閉めることを決めたのは5日前のことだった。3日間にも及ぶ降雪が終わりを迎えようとした頃、ある事件が起きたからだ。
それはル・シャ・ブランの下の階にある焼き鳥屋さんで起きた強盗事件。
【準備中】の看板が出された店に、突然50代の男が押し入ったらしい。抵抗した店主は突き倒され手首を捻挫。30万円ほど入った金庫と、仕入れの鶏肉を持てるだけ持って逃走した。それが原因で40年以上の歴史を持った焼き鳥屋は店を閉めることになった。前に会った店主のおやっさんは「パンドラだかゴンドラだか知らねぇがよー、ぶつかるってぇーなら、そのときもおれはよー、トリさんを焼いててやるだけよ!」なんて胸を張っていってたのに……。ちなみに、まだ犯人は捕まっていない。
このような犯罪が今急増しているとニュースでは言っていた。失業率の増加、輸出入の更なる制限による物価の高騰、あらゆる犯罪の横行による治安維持能力の不足などなど、犯罪に手を染め、それでも逃げられるかも、と行動に移してしまう人が増えていると。
テレビや映画の中だけの事と思っていたものが、現実に身近で起きたことに背中に冷たさを覚えた。お父さんもショックを受けて、寄せていた眉間の皺をさらに濃くして考え込んでいた。そして、避難の日程を前倒しにしてお店も年内いっぱいで閉める決断をした。
事件のこともあり、スタッフのみんなはすんなりとこの決断を受け入れてくれた。残念だったけど。
カウンターに座る5人の前に並べられた、淹れられたばかりのブレンドコーヒーと、マーマレードのシフォンケーキ。シフォンケーキは手に入る材料で作れるものをとお父さんと一緒に考えた。年明けに提供できるようにと準備していたけど、ここでみんなと味わい合えるのなら本望だ。
お父さんも私もみんなと一緒に同じものを食べ、同じものを味わう。モカにも少しだけケーキをあげる。普段は店のモノには口をつけないのに、珍しく素直に食べる。オマエも寂しいんだね、心で呟き、私もみんなと一緒の最後のお父さんのコーヒーをゆっくりと口に含んだ。
今年最後の夕日。日差しがドア越しに差し込んできた頃。店内は止まない思い出話が続いていた。
「あのお客さん、この前、家族を連れているところを駅で……」
「瑞稀ちゃんがバイト始めた頃、ブレンドとアメリカンの違いを試してみたんだけどさー……」
「接客したお客さんに、彩さんのことを急に聞かれちゃってー……」
「だったら、あのお客さんなんて店長のこと、ずっと見ててさー……」
「モカー♪ お前は男には全然懐かないなー……」
「………………」
話題が途切れた細やかな時間。座っていたお父さんが椅子を鳴らして立ち上がった。
「そろそろ……、店を閉めようか」
いつも通りではない日に、いつも通りの声で伝えられた終わりの合図。「そうですね……」と、みな余韻を名残惜しむ。「おれ、洗い物手伝います」と颯太さんが立ち上がり、トレンチに空いたシフォンケーキの大皿とコーヒーカップを乗せてキッチンに持ち運んでくれた。
その後ろ姿。忘れない。ライブでの姿も、モカに相手にされずに溜め息をつく姿も、勉強を教えてくれたことも、私に気を遣っておちょくって笑い合った顔も……
「きっとまた会えるよ」と言ってくれたことも、絶対忘れないからね、颯太さん。
「みなさん、今までありがとうございました。事態が治ったら、またル・シャ・ブランは再会しますので、そのときはコーヒーを飲みにきてください。精一杯の一杯を淹れさせてもらいますから。ですから、また元気な顔で再会しましょう。お元気で、みなさん。本当に今までありがとうございました」
別れの挨拶。言い終わったお父さんと一緒にお辞儀をする。
「こちらこそ、本当にお世話になりました」
お調子者の風祭さん。そんな彼が隠そうともせずに涙を流したことで、私も涙が溢れた。
「再会したら、ま、また働きに来ます! だから、ぜ、絶対再会して下さいね」
お父さんも泣いていた。風祭さんと強く握手をし、「ありがとう」と肩をポンポンと2回叩く。
一人一人声をかけるお父さん。颯太さんの時に、店のスペアキーを手渡す。
「店は人がいないと廃れてしまいますから、よかったらたまに様子を見に来てくれないかな?」
「……わかりました」
鍵に着いたペンギンのキーホルダーはお父さんと水族館に行ったときのもの。バイバイ、またね。羨ましさも込めて心の中で別れを告げた。
…………
外はもう夕闇に染まっていた。店のドアの外からお父さんと抱いたモカと私で、みんなを見送る。姿が見えなくなるまでモカの腕を掴んで手を振る。行ってしまった……。実感はすぐに湧かなかったが、誰もいなくなった店内は物悲しさに満ちていた。
「また、みんなとコーヒーを飲もうな、蜜柑」肩を抱き寄せるお父さん。
「……うん」また溢れる涙の中、お父さんの涙が私の頬にこぼれ落ちた。
♦ ♦ ♦ ♦
どうしてそんなに強く抱きしめる?
どうしてそんな顔をしている?
いつもは騒々しい空間に、今宵は吾輩と娘とその父の2人と一匹のみ。父のほうも神妙で物憂げな表情を浮かべておる。近頃の影を宿した姿は気にしておったが、今は影そのものの中にいるように曇った顔をしておる。
こんな顔をしているのは、あの娘の母の姿を見なくなったとき以来だ。目を開けているのに、何も見ていない瞳。あの日、吾輩を見ているのかと勘違いし、遊ぼうかと近寄ったときに見せられた涙に吾輩は呪われた。
【この娘を一人にしてはならない】
かけられたその呪いに最初は戸惑った。ノラ猫の矜恃は自由。縛られることなどあってはならなかった。それなのに、離れられない。見えるところにあの娘がいないと眠ることもままならない。あの娘の母の姿が見当たらないのがこの呪いの原因なのだろう。
季節がいくつか変わったある日、この場所に初めて連れて来られた。甘く、苦く、酸っぱく、青い匂いが充満した黄土色の空間。勘弁して欲しかった。吾輩の鼻は敏感なのだ。こんな場所にずっと居たら気が狂ってしまう。でも、呪いが逃げ出すことを許さない。全てはあの娘の母が吾輩に餌付けして罠に嵌めたのだ。だから、呪いにかかったあの日も考え知らずにあの場所に行き、あの娘に近づいたのだ。あの娘の母のことを恨み、自分の短慮を悔いた。
しかし、そんな苦難の場所はあの娘を変えた。瞳の色の深さが、徐々に鮮明さを帯びていった。吾輩に微笑みかける柔らかさは、罠に嵌めたあの娘の母に通じるものがある。理性に反して、本能が安堵した。これも呪いのせいだろう。
気づけばこの場所と匂いは吾輩にとって心落ち着くものになっていた。知らぬ人間たちが数知れず訪れるが、みな吾輩に穏やかに柔らかく近寄ってくる。はじめは警戒したものだが、この場所と匂いの効能なのか、みな優しい笑みを浮かべている。吾輩やあの娘と同じなのだろう。何かしらの呪いによって歪められた精神が、この場所では弱められて安らぎを与えるのだ。安らぎに包まれ、心地よい眠りにつく。
…………
物静かなこの場所で、影の中であの娘が涙を流している。瞳の色が深い。心が落ち着かない。「大丈夫なのか?」と鳴いてみても、ただ吾輩の頭を撫でるだけ。娘の父はどうやら気を取り直したらしい。声のトーンに内包した意志がいつもより強く感じられる。
これらが吾輩に悟らせる。この場所とは『さようなら』なのだと。呪いを解く聖域。この娘を無事に育ててくれてありがとう。感謝の意が浮かんだとき、吾輩は誤りに気付いた。
懸けられたのは、【呪い】ではなく【祝福】だったことを。
もう大丈夫。この場所が無くとも、この娘とずっと共におるよ。「大丈夫だからな?」と鳴きかける。娘はあの日と違い、涙ではなく微笑みを返した。
「もう行こうか。蜜柑」
「……うん」
パチン、パチン、という音で聖域が暗闇で染まる。
ガラガラガラ、という音で聖域が硬い金属で封印される。
でも、大丈夫。吾輩がこの娘と共にいるのだから。
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