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魔界よりの使者

第十七話

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 痛い。
 全身が灼熱の炎で焼かれたように痛い。

 痛いのは慣れていた。
 生まれつき、肝臓が弱かった。時折、それこそ死ぬのではないかという痛みに襲われた。
 痛みだけではない。過酷な運動をしてはならない。負担がかかるものを食べてはいけない。決まりだらけの生活。こんな自分など砕け散ってしまえばいいのに、と何度も思った。蔑まれ、馬鹿にされ、お前には出来ないと決めつけられ。
 消えた。
 母も同じ病気だった。頼んでも無いのに連れてきた人は、顔を見ることも無くどこか遠い所へ行った。羨ましい。痛いのに。お前は、今、安らいでいるんだろ。

「早苗──」

 誰かの声。
 それが聞こえた時、痛みが少しだけ引いた。
 知っている。
 痛みを和らげてくれたその存在を。
 運動出来るようになった理由。
 肉が食べられるようになった理由。
 生きることの喜びを教えてくれた家族。

「ククリ……」

 重い瞼を開きながら名を呼んだ。
 目前に、ぼんやりとだが確実に、悪魔でゴスロリ少女の顔があった。黒いマスク越しに赤い瞳と視線が交差する。

「大丈夫?」

 感情を含まない声が返ってきた。
 大丈夫ではない。痛いものは痛い。痛くて痛くて大丈夫ではないのだが……。

「だ、だいじょうぶ……」
「そう」

 応えた直後、ゴン、と鈍い衝撃が頭を襲い、俺はこれまで尾枕されていたのだ、と知った。決して膝枕ではない。真っ黒で不気味な尾だ。地面と水平になった視界には御守りの手錫杖が見えた。
 しかし俺は何故寝ていたのだろう。仰向けになっていた体を起こして状況を確認。夜。外。寒い。それは先ほどの会話中に分かっていた。まず、ここは何処だ。ハッキリしてきた視界には、長い長い石畳の階段が映った。今いる場所はそのふもとのようだった。
 神社。そうだ。ここで戦争をしていた。
 冷や汗が滲みだすと同時に重圧感が体に圧し掛かり、呼吸がスピードを上げる。

「…………!」

 右手に激痛が走った時、それらを目撃して息を呑んだ。
 苦悶の表情を浮かべて横たわる瑠美と、至る所が破れたコートを纏い小刻みに震える体を抱いた翠華。そして、尾を一本残してゴスロリ服をボロボロにした、まさに満身創痍といった体のククリ。
 果てには、頭上に立ち込める暗雲。

「これは……!?」
「やられたわ。ジョンの狙いは荒ぶる神の目覚めだったのだわ」

 やれやれ困ったものね、という緊張感の無い悪魔の声で思い出した。
 翠華の中から這い出たもの。それが吐き出した神の鉄槌に、俺は焼かれた。

「早苗は左手だけで済んだわ」
「左手……うおっ!?」

 見ると、左手の肘から先が無かった。
 切断面は綺麗サッパリツルツルで激痛は無い。細胞が自ら腐り機能を失った結果だろうか。恐るべし悪魔の肉体、ぢくぢくと酷く遅い進行だが魔力を基にした新たな細胞が生み出され、失われた腕を形成しようとしている。

「私が間に合わなければ皆が粉々だったわ」
「皆って……勇者は」
「あれが生まれた時点で帰ったわ」
「帰った!?」
「私を殺してからあの神を目覚めさせるつもりだったらしいのだけれど、興味無い、とのことよ」
「どういうことだよ!?」
「私は知らないわ。不完全な儀式による不完全な神はお気に召さないのではないかしら」

 塞がらない口を無理矢理閉じて平静を気取る。
 悪魔を倒そうとした勇者が帰った。魔王を倒す程の力をもっているのだからククリ一人相手に逃げ帰るわけがない。翠華から生まれた興味の無い邪神。俺たちはそれの生贄だろうか。

「私のとは別に、敷地を覆うように結界が張られているわ。おそらく勇者のもの。どちらも長くは持たないでしょうけれど」

 蟲毒か?
 というよりもククリが結界を張れることに驚いた。これが悪魔本来の力を取り戻した魔王の遺産、レムの状態とはまるで違う怪物。彼女が拵えた結界というのは、己の尾を切り離して四方に設置して発動するものだと早口に説明された。尾が少なくなっていた理由はそれか、と理解する。だが現在一本しか残っていない。それは勇者との戦闘で多くの魔力を失った結果だと眉を伏せて話した。

 勇者と相対して生き残ったことは幸運だが状況は最悪。邪神が生まれ、それと隣り合わせの空間に俺たちは閉じ込められている。ククリと勇者が拵えた二つの結界、それらに挟まれた僅かな空間だ。勇者のものを破るだけの力は今のククリに残っていない。

「よし、助けを呼ぼう」

 あまりの事態に忘れかけていたが、携帯は確かに所持している。片手でどうにか操作すると、息が詰まる程強烈な邪気を相手に負けることなく、目的の人物へと電波は無事繋がった。

『様子はどうでしょうか?』

 おっとりしつつもどこか笑っているかのような声が聞こえてきた。こちらの状況に感づいているのではないかと疑わずにはいられないが、とにかく状況を説明する。

「状況は最悪だ。封じられた神が生まれ、長持ちしない結界に俺たちごと閉じ込められた。あの竜神、贄を喰った後は世界を蹂躙しまくるだろうな」
『あらあら、困りますねぇ』
「だから助けを求めてんだろ!」

 叫ばずにはいられなかった。只今絶好調である彼女であればもしかしたら、神を相手にして勝機を掴むかもしれない。しかし、雪那が今どこにいるかも分からず、加えて応えようともしなかった。電話越しに風を切る音が聞こえてくるが、一体どこで何をしているのか明かそうとしない。

『そう焦らず。早苗さんを喰わせる事などさせません、我が名に懸けて必ずや阻止致します』
「俺じゃなくてだな……」
『我慢しております。長らく我慢しております』
「何だよ?」
『貴方様の魂を隅から隅まで私色に染め上げ、全て舐め尽くす日を心の底から待ちわびております』
「止めろ」

 ここで助かったとしても喰われる運命であるようだ。

『冗談はさておき、それは日の元の神なのでしょうか?』
「あぁ。日本の神だっていう疑いは濃いが確証はない」

 異世界の神である可能性は捨てきれず、別の存在という可能性も考えられる。
 13という数字。
 聖書においてサタン、サタン的な、反逆、等に関係した数字。サタンのギリシャ語ゲマトリアは13の倍数。サタンを象徴的に言った〝竜〟も13の倍数。新約聖書での竜はヨハネの黙示録だけに現われ、13回使われている。

 Δρακων

『あらあらまあまあ。何とも楽しそうで御座いますわ』
「この冷徹雪女……対岸の火事で済むと思うなよ」
『勿論ですとも。その地の当主は打ち首ですわねぇ……あら、既に狩られていたようです』
「は?」
『化け狐? D・M? あらそうですか。んふふ、他愛ないものです』

 別の人間が傍にいるのだろうか、雪那は誰かから与えられた情報を口にする。

『ともかく御安心下さいな。そちらへ救援を送っておりますので』
「救援って……七尾店長?」
『さぁどうでしょう』
「いい加減にしろお前えええ!」

 危機に瀕していると理解しながらも楽しんでいる様子の雪那が気に食わない。携帯を投げ捨てたい衝動に駆られる中、それは甲高く響いた。

『アネサン! ヨスズメトテングガミエマシタ!』
『そうですか。では、我々も行動に移りますよ』
「ん? 今の声、狼少年か? お前らどこで何してんだ?」
『んふふ。古の百鬼夜行、正義の下に悪戯小僧へ鉄槌を下します。そちらはお任せ致しますね』
「は?」

 任されても解決できないから助けを求めたんだろうが……言う間も無く通話は切れた。掛け直すも繋がらない。ならばと七尾へ掛けてみるが一向に出ない。健司に掛けようと思ったが、今の彼では心許ないと気付いて諦めた。八方塞がりだ。

「早苗、諦めるには早いわ」

 会話を聞いていたレムが励ます。

「雪那はジョンを追っているのだわ。私達は救援がくるまで持ち堪えましょう」
「あぁ……そうだな。しかしあの野郎、色々知った上で動いてやがったな」

 どちらの方が脅威度が高いか不明だが、勇者ジョンも放っておける相手でないのは確か。

「でも、このタイミングで神が生まれたのは何故だ」

 儀式が完遂されていれば黄泉国への道が開き、生と死が反転する。だがそれは不完全な状態で打ち切られた。そうなった場合の保険として存在するのがこの少女だろう。神に嫁入りした巫女。神に巣食われたもの。

「ククリは生きてる。もう一体の悪魔は生死不明だが……まさか」
「グリザリンデは生きてるわ。ジョンもまだ見つけてないそうよ」

 マス太郎の言う事を信じるのか、という突っ込みを我慢。

「お決まりのように、魔王を倒した勇者は魔王にでもなるのか」
「いいえ。彼は魔王などではないわ」
「なら、一体何だ」
「何も無い」

 本物の悪魔は階段の先を見据えながら言った。

「虚無主義? 聖戦の果てに掴んだのはそれか……飽きたから全部消えて無くなれってか。異世界も、この世界も」

 ありきたりだが有り得る話だ。魔王が倒されればそれ以上に強いものはいない。大義と正義に呪われたままお役御免になった勇者は、全ての世界を終わらせるつもりか。

「ジョンはそんなことしないっ……!」

 その時、神を孕んでいた少女が悲痛を込めて叫んだ。

「あのジョンが……そんなことするわけないっ……!」

 零れ出る滴。
 誰の為、何の為に流しているのか読めない涙。自分か、勇者か、世界か……どれを選んで流しているのか読めない涙が溢れ出ていた。二つの影を揺らして。

「翠華、起こった事実を受け入れなさい」

 ククリが諭すように言うと、精神汚染でもされたかのように錯乱し泣き喚く。

「嘘よっ! 全部嘘よっ! あんたが見せる幻覚よっ……!」

 現実を受け入れたくないのか、勇者を自負する少女は駄々っ子のように闇へ逃げた。そして、闇は感情を含まない声音で真実を告げた。

「京翠華。貴方は勇者に見捨てられたのよ」
「…………ッ」

 ビクっと一際大きく震えた後、彼女は沈黙した。捨てられた。
 神をその身に宿していた少女は勇者一行として4年間を共にしていた。共に魔王も倒した。だが、黒竜が生まれた後、それが放つ神の鉄槌から庇ったのは悪魔だった。勇者は既にその場から消えていたのだ。

「うっ……うぅぅぅぅぅぅ……」

 嗚咽。
 これ以上奪われまいとするように、自分の体をより一層強い力で抱きしめながら、少女は涙を流した。

「…………」

 これがこの子の運命か。
 違う、黒幕がいる。それは生きた人間か、悪戯好きの神か。

「ともかく、あれをどうにかしないとな。結界も限界だろ」

 手錫杖を右手に握り、長い長い石畳の階段を見上げながらククリに尋ねる。

「そうよ。生まれたばかりだから抑えられているけどもう壊れるわ」

 視線の先に同じものを見ながらククリは返した。
 闇夜に踊る黒い影。
 竜。

「囮が必要だな」
「ええ」
「行くか」
「早苗はいらない」
「えぇ……」

 少しくらい格好つけさせてくれてもいいじゃないかと付け加えると、ククリは少しだけ左目を細めた。

「ちょ……ちょっと待ってよっ……」

 掠れた声で翠華が発言する。

「何するつもりよ……倒そうっての? 無理に決まってるじゃない……」

 狂気に満ちた赤い瞳で、

「悪魔が……神に! 勝てるわけないじゃない!」

 薄ら笑って叫んだ。

「…………」

 それでも勇者か! という喉元まで出掛かった言葉を呑み込み、どう返すべきかしばし逡巡。
 綺麗事で取り繕うか、それとも焚きつけるような軽口を言うか。 助太刀してくれるのなら有難いが丁重にお断りさせて頂くつもりだった。〝そんな……でも……私はもう見ていられないのっ! 貴方が私の為に傷つくのを見ていられないのっ!〟なんてこと、この女なら言うわけ無いだろう。

「勝つつもりはないわ」

 悪魔が先に発言したので思考を中断し、仕方ないのでありのままを告げる。

「そうだ、どの道勝てる相手じゃない。時間稼ぎと、あわよくば外の結界をアレに破って貰おうってだけだ」
「は……はあ!? そんなことしたらどれだけ……!」
「被害は出るかもしれない。だから俺たちが囮になる」
「意味分からないわよ……!」
「結界が破れたら京を連れて逃げろ」

 言うと、翠華の視線が横たえられた少女に吸いつけられた。双子の妹。4年間離れ離れになっていた肉親。翠華は唇をきゅっと結んで、その瞳に幾許かの色を取り戻していく。

「そんなの……上手く行くわけないじゃない……!」
「上手く行く」
「無駄に死ぬだけよ……!」
「問題無いわ。私も早苗も」

 それが正しいのかどうかなど、後になってからしか分からない。

「どうして……悪魔が人を助けようとするのよ!?」

 分からない。
 全てを知っているのはこの空だ。

「動けるのは俺らだけってのもあるが……漫画じゃ良くあることだろ」
「果たすべき責任が私にはあるのだわ」
「人類の敵が! 勇者にでもなるつもりなの……!?」

 分からない。
 なれるわけ無いが、今だけなら、仮初のもので悪くない。

「全ての人を助けることなんて不可能だ」
「払うべき犠牲は確かにあるわ」
「それでも」
「友を守る」

 ククリと共に一歩踏み出す。同時に、目前に張られていた不可視の結界が音を立てて崩れた。途端に吹き付ける突風。雷鳴のような咆哮が響き渡り骨を振動させる。神。この先に神がいる。

「そうだ……」

 覚悟を握った時、

「さっきは悪かった。酷いことを言ったな。言い訳はしない、あれが本性だ」

 振り返って謝罪した。
 ハッキリと覚えている。汚濁の闇に呑まれ、悪意に染め上げられていた時のことを。闇。誰しもが持つ心の闇が大きくうねり、それは力と共に表面化していた。リバウンドは罪悪感のみ。
 ククリは知っている。俺の心の醜さを、暗い闇を貯め込んできたことを知った上で──それよりも酷く暗い深淵を見せた。深い諦念に変わった決死の思い。それは決して表面へ出てこない、真っ黒な海。闇を持つのは貴方だけじゃない──と、受け入れてくれた家族。

「確かに、悪は断罪されるべき存在だ。悪魔は倒されるべき存在だ。でも……だからって決めつけないで、もう少しだけ、話を聞いてやってくれないか」

 偽善だ。
 分かってる。
 それでも善だ。

「行くぞ、ククリ」

 握る右手に力を込める。加護を纏った聖剣の攻撃により空いた穴は未だ塞がっていないが、握れる、動く、ならいける。

「レムでいいわ」

 影から邪剣を取り出した悪魔が言った。

「え?」
「その方が呼ばれ慣れてしまったのだわ」
「そうか。じゃあ、俺の事はお兄様と呼んでくれ」
「囀らないで頂戴」
「悪かった。でもどうするか……あれ、空飛んでるんだよな」
「なら飛べばいいのだわ」

 そう言うと、ククリ──レムはふわりと空中に浮遊した。ああ、もう、理解を越えてる!

「残された魔力でも重力制御くらい可能よ」

 この程度驚くことでは無いわ、と言外に言っていた。確かに、ゼロ次元移動するよりは難しいものではないだろうが。

「レム……俺も運んでくれ」
「え?」
「左手の礼。一撃くれてやらないと気が済まないってだけだ」

 無駄な抵抗だとは分かっている。だが一矢報いねば気が済まない。
 レムは無表情な顔のまま、俺に一歩分近づき、その華奢な手で後ろからホールド──してくれる事はなく、一本だけ残された真っ黒な尾を俺の腰に絡みつかせた。正直怖い。尾部に浮かび上がってる誰かの顔と目が合うと嫌が応にも恐怖感が込み上げてくる。加えてヌルヌルした感触であり不快感しかない。

「行くわよ」
「ひぃぃぃぃぃぃ!」
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