優しい手に守られたい

水守真子

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幸せの喜び

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 可南子が洗面所で出社の準備に髪を整えていると、亮一に鏡越しに声を掛けられた。

「今日、寿司に行かないか」

 金曜日の重い身体に、魅力的な誘いだった。
 可南子は目をきらりと輝かせ、それを見た亮一がにやりと笑った。

「可南子は寿司が好きだよな。わかりやすい」

 見透かされている事を、取り繕うのも今更だ。
 可南子は出社前のやや硬い表情を柔らかくして、髪を束ねながら亮一に鏡越しに微笑む。

「お寿司も、好きですよ」

 きゅっと後頭部で髪を結んだ後、手を洗うために湯を出す。指で湯が出ているか温度を確かめていると、ふいに後ろから抱き締められた。
 腕ごと抱きすくめられて、蛇口から湯を出すために勢いよく出している水を止めることもできない。
 後ろを振り向くように顔を横に向けようとしたが、化粧が亮一のスーツに付く事を考えて元に戻す。
 鏡越しに、客観的に自分達を見ることが恥ずかしくて、可南子は目を伏せた。

「仕事は何時に終わる予定だ」
「残業は無いはずだから、たぶん、定時」

 ジャーッと勢いの良い水流の音と共に、自分の早い鼓動が聞こえる。

「電話する。スマホの電源のチェックしておいてくれ。それと、肌身離さず持っておく事」
「子供じゃないですよ」

 指示に唇を尖らせると、亮一が耳元で囁いた。

「そうだ、俺の妻だ」

 まだ、そうはなっていない。
 けれど、独占に焦れた亮一の低い声に、どきっと心臓が跳ねた。じわじわと、耳まで真っ赤に染まっていく。
 腕が解放されて、接触していた背中から暖気がふっと消えた。触れられた瞬間がとても幸せな分、いつも、この瞬間は少し寂しい。
 顎に亮一の手が触れて上向きにされると、唇が重なる。
 可南子は身体の向きを変えて、亮一の首に手を回した。
 もう何度も唇を重ねたのに、いつも、新しい服を纏ったような高揚感がある。
 唇に紅を乗せるように、楚々と色づく、期待。
 口を少しだけ開いて誘うと、亮一の熱い舌が咥内に潜り込む。
 可南子の火照った息が、亮一の口に吹き込まれた。
 朝も昼も夜も、いつでも、繋がりたい。
 隙間を埋めるように、もっと。

 ……真っ黒に、焦げそう。

 可南子は、未経験の想いに身を焦がす。
 亮一の後頭部を撫で、手のひらに当たる硬い感触に、幸せを噛み締めた。



 
 
 亮一に連れて行かれたのは、やはり回らない寿司屋だった。
 格子の扉を開けた瞬間、清潔な店内が視界に入り、漂ってきた酢の香りに食欲をそそられた。
 おまかせでお願いして、上品で淡白な白身を握った小ぶりな寿司を味わって食べる。
 口の中で寿司飯が解け、山葵の刺激と一緒に、歯ごたえのある白身を噛むと、幸せが口内に広がった。
 店の客層は年齢が高めで、金曜日のせいか、席はほぼ埋まっている。
 そんな中、亮一は、カウンター内の職人と会話をしていた。
 若いのに堂に入った、けれど気取らない亮一に、可南子はつい見惚れてしまう。
 視線を感じた亮一がこちらを振り向く。

「どうかしたか」
「いえ、いえいえ、何も」

 慌ててウーロン茶を手にとって飲むと、氷がカランと音を立て、唇に落ちてきた。
 可南子はコップを置いて、氷で一時的に冷えた唇に触れる。
 亮一は親に結婚の報告をする前に、自分達がどうしたいかを話しておこうと言った。
 ただ、この一週間、可南子が就寝してから亮一が帰宅することが多く、あまり話せていない。
 もう一度、可南子は亮一の横顔をちらりと、目だけを動かして見る。
 彫りの深い目元に平日の厳しさは無く、週末に入る夜を楽しんでいるように見えた。
 こうやって温和な時間をただ過ごしていると、この数ヶ月は慌しかったなと思う。
 自分はただ生活をしているつもりでも、見えない力が働くように、外部から刺激が続くことがある。
 占いを信じているわけではない。だが、それらが過ぎ去った後に客観視をしてみると、人生には『波』のようなものがある気がしてくる。

「……亮一さん、結衣さんから、私の事をどう聞いていたの?」

 亮一は珍しくノンアルコールビールを飲んでいる。
 立派な喉仏が上下し終わると、亮一は、俳優のように、左眉をくいと上に持ち上げて、悪戯っぽい表情を作った。

「話したこと無かったか。……入社の時から、生真面目だとか、天然だとか、そういう話を聞いていた」
「……それだけ?」
「すごく可愛いとは言ってたな」

 可愛いと亮一の口から改めて言われて、可南子の頬が赤く染まった。好きな人から「可愛い」と言われるのが嬉しい。
 亮一は一瞬、ばつが悪そうにカウンターの向こうの壁に視線をやる。だが、もっと遠くを見ているような目だった。
 それからぽつりと溢す。

「で、何でそんなことを聞きたくなったんだ」

 聞き返されて、可南子は濁りの無い目を、亮一の高い鼻の辺りで彷徨わせた。

「……三年って、長いなと思って」
「確かに長いな」

 亮一は自嘲するように笑ったが、どこか明るかった。

「可南子が思っている以上に、いろいろな話は聞いているかもしれない。結衣は社員旅行に大喜びで行ってたしな」

 社員旅行、と砂を噛むように、可南子は反芻する。
 ちょうど三年前くらいに、磯田の部屋で罰ゲームありの大富豪をしたのは苦い思い出だ。

「その顔、楽しくなかったのか。結衣は楽しそうにいろいろ話してた」

 亮一は赤身の寿司を摘んで口に運ぶ。

「楽しいというか……」

 急にしぼんだ可南子を見て、亮一は首を微かに傾げた。
 社員の大部分はチャーターしたバスで行ったのだが、総務を言いくるめて車で来た上役が何人かいた。
 金曜日の夕方から土曜日にかけての旅行だったのもあって、自由参加を打ってはいたが、とにかく参加人数を増やしたい総務に、土曜日の午後に用事があると捻じ込めば自家用車で来られたらしい。
 その隙を突いて、パーティーグッズを車に積んで持ってきたのは磯田だった。
 そこまで思い出して、ぶるっと可南子は震える。

「隠し事か」
「隠し事って何ですか」
「何か、言えない事でもあったのかと、思っただけだ」

 その亮一の言い回しに、可南子は不可解な感じを覚える。

「……何か、聞きました?」
「誰に、何を」
「ちょ、それ、聞いたって事ですよね」

 しれっと、ビールを口に運んだ亮一の唇の端が笑っている。
 磯田が持ってきたパーティグッズを、結衣は嬉々として一枚一枚広げて見ていた。
 所謂、誰でも楽しめるレベルの簡単なコスプレ衣装で、可南子は横で「こんなものがあるんだ」と感心して見ていたのだが、自分が着ることになるとは思わなかった。
 当時はわからなかったが、今ならわかる。結衣は話している可能性が高い。

「……聞いた、だけ?」

 亮一は右肘をカウンターテーブルの上に付いて、指の甲の上に顎を乗せると可南子に笑む。

「何の話だ」
「悪い人の顔ですよ、それ」

 可南子が眉間に皺を寄せると、亮一は素早く右手で、可南子が膝の上に置いた手を握った。
 今は他の客の相手をしているとはいえ、カウンターの向こうには職人がいる。カウンター席にだって、満席とは言わないが、ひとつ飛ばせば人が座っている。
 びっくりして、可南子が亮一に大きな目を向けると、亮一の真剣な目とぶつかった。
 可南子の僅かな不機嫌を見せたせいか、亮一が慎重にゆっくりと口を開く。

「……写真を見た。だが、結衣は見せる気は無かったと思う。あの日が……可南子を見た初めての日だ」

 亮一の目の奥に揺ぎの無い気持ちを見て、可南子は顔を赤くした。

「全部、可愛かった。あれを、他の男の目に晒したのが許せないくらいだ」

 亮一の赤々と燃える独占欲に、最早、可南子は驚かない。
 社員旅行で結衣が撮った写真は、亮一に全て見られているのだと可南子は嘆息する。

「亮一さんの前でなら良い、みたいな言い方」

 二人が作り出す、寿司屋には似つかわしくない熱を振り払おうと、可南子は顔を赤らめたまま、遊び心を含ませた。
 すると、亮一はぱっと可南子の手から手を離し、腕を組んで呟く。

「いいな、それ」
「は」
「可南子、どんな格好ならいいんだ」
「な、何」
「鞭を持っても良いぞ」
「ええっ」

 大きな声を出してしまって、可南子は自分の口を手で塞いだ。
 亮一は横で機嫌よく、ノンアルコールのビールのおかわりを注文している。
 可南子は亮一に冗談は止めて、と、二の腕に軽く触れて、ねめつける。
 それなのに、スーツ越しでもわかる逞しい二の腕の感触が手のひらに伝わり、つい、撫でてしまった。
 亮一なら、きっと中世の騎士のような格好が似合うだろうと思った。

「そういうのが、好みか」
「え、何」

 頭の中を覗かれたのかと思って、慌てて可南子が亮一を見ると、極上の笑顔で返された。
 深みにある愛の形は、敬いも似た、交歓だろうか。
 自分の幸せを阻害する強固な壁が消え、心の風通しが良くなったと感じる。
 可南子もあふれる気持ちのまま、笑む。

「やっぱり、可南子は可愛いな」
「亮一さんも、とっても、かっこいいですよ」

 お互いの容姿を褒めあう構図に、亮一がふっと噴出す。
 何に悩むことの無い関係は、心の毒を掃うかのようだ。
 強い幸福感に酔いながら、可南子も笑いそうになるのを堪えて、亮一の腕に手を置き、額をつけた。
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