優しい手に守られたい

水守真子

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追いかけてくる過去

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==亮一視点です==

 亮一は憮然とした表情で二次会にいた。
 広信は妻である結衣の妊娠を公にしていない。
 安定期に入るまでは、ごくごく親しい人にだけにしか知らせない事にしていると言った広信の表情は神妙だった。
 いつも三次会まで参加する付き合いの良い広信を、独身の友人は冗談を言うなよと、軽いノリだがしつこく引き止めた。
 つわりで苦しむ結衣の元へ帰りたくて、苛立ちを隠せなくなってきた広信を、亮一はさっさと返す。

『俺が広信の分までいるから良いだろう』

 この言葉は絶大な力を持った。広信と違い、亮一は基本的に二次会には出ないからだ。
 亮一や広信は自分たちが目立つことを知っている。そして、そこに果敢にアプローチしてくる女の多くは個性が強い。だからこそ、それぞれの対応策を持っていた。
 広信は女が寄ってきても、結衣への愛を延々と語り、相手の気持ちを削ぐ。だが、亮一にはそういうものが無い。だから、さっさと帰る。
 ずっと話してくる積極性に、礼儀の範囲で対応しているだけでも、広信には『亮一は、相手の話を聞くから脈ありだと思われる』と指摘された。
 亮一はそれから、よほどの事が無い限り、帰るという選択を取るようになった。
 本来なら、可南子という彼女がいる今こそ、二次会不参加を貫かなければいけないのはわかっていた。
 だが、結衣の妊娠に伴ない、広信の感情の起伏が激しくなっている。
 広信が、当の本人の結衣よりも、妊娠と出産を『命を懸ける』事だと認識しているせいだ。
 一瞬顔を曇らせた広信だったが、すぐに切り替えたように『すまない』と言って帰って行った。
 それを見送ってから、可南子に電話で事情を説明すると、くすくすと愛らしい笑い声で承諾される。

『本当に、仲が良いですね』
『腐れ縁だ』
『結衣さんの事も、心配なんですよね。亮一さん、優しい』

 可南子のゆったりとした口調に問題を感じず、亮一は一先ず安心する。

『俺は、可南子にしか優しくない』
『説得力が無いですよ』

 本当なんだがなと、亮一は自嘲する。

『いってらっしゃい。楽しんできて下さいね』

 決して、早く帰ってきて欲しいとは言わない、可南子の澄んだ声が耳に残っている。

 亮一は腕時計を睨んで目元を険しくした。何度も見ているせいで、前に確認した時から一分も針が進んでいない。
 慣れない様子でビンゴ進行している前方に視線を向けたが、亮一は手元にあるビンゴカードの穴を一つも開けていなかった。

「楽しめよ」

 無愛想さを見かねた友人にやんわりと諭されたが、それを一瞥して、亮一は手に持っていたビンゴカードをテーブルの上に置いた。
 近くにあった濡れたお絞りに触れたビンゴカードが、湿って色濃くなりながら皺になっていく。

「亮一は彼女がいるんだって? さっき、電話をしてたの、彼女?」

 今日は見事に広信に無視され続けていた林が、軽い口調で話しかけてきた。違うテーブルの二次会から参加した大学時代の女の友人の所に入り浸っていたのだが、こっちに来たらしい。
 林は、亮一の横の椅子に座ると、テーブルに置いた亮一のビンゴカードを手に取り、発表された数字の部分に穴を開けた。
 亮一は答える必要性を感じず、聞こえないかのように無視をする。

「答えないってことは、彼女だ。さすがだね。で、付き合ってどれくらい?」

 林は、また発表された数字に穴を開けると、何の返事もしない亮一に、はっと笑った。

「教えられないっていうのは、振られる頃か。ということは、だいたい、3ヶ月くらい。いい読みしてる?」

 ビンゴになった誰かが嬉しそうな歓声を上げて、最後の盛り上がりの熱気が会場を包む。
 亮一は林を一瞥することもなく、ただ、前方を見ていた。
 大学時代ならそれくらいだなと、亮一は思い起こす。
 可南子と付き合って、自分がどれだけ恋愛に不真面目だったかは既に痛感している。だが、そんな事を林に話す必要もない。

「そろそろ相手の忍耐が切れる頃? 続いた方じゃないか。その子、どんな子? カワイイ? 次、俺に紹介してよ。忙しくて出会いも無くてさ。お前なら不自由しないだろ」

 ……ふざけるなよ。

 苛立ちが凝縮し、血管が膨張する。血と一緒に怒りが、冷淡に偏った脳内を打撃を与えながら循環した。
 亮一は落ち着くために、目の前のビールに手を伸ばす。
 ぬるいビールはうまくない。
 だが、その不味さが今の気分にちょうどいい。
 振られるという言葉に反応した亮一は、つい、口を開く。

「振られる予定は無い」
「へぇ、じゃあさ、振るのか。珍しいパターンだな」

 相手にしてしまった自分に唾棄しながら、亮一は返事の代わりに腕時計をもう一度見た。
 やはり、数分も進んでいない。
 酔った林は亮一にへらっと笑う。四角い輪郭の中の細い目が緩んで、線を描いたようにさらに細くなった。

「男前は、年を取っても男前ってね」

 林の大仰な口調に、亮一を嘲笑するような響きがあった。
 これ以上、話すのも煩わしく、二次会の会費も払い、時間も半分以上いたのだから義理は果たしたと、亮一が席を立とうとすると、林は亮一の腕を二度ほど軽く叩いた。

「待てよ、待てって。まだ時間はあるだろ」

 まぁまぁと、林は亮一を宥めるように薄ら笑いを浮かべたが、亮一は冷たい目でそれを跳ね返す。
 林の顔が焦りで強張って、薄く細い唇が、ぱくぱくと、魚を彷彿させるような、奇妙な動きをした。
 亮一は椅子から立ち上がり、足元に置いていた引き出物の大きな紙袋を手に持つと、出入り口へと身体を向ける。
 林がうろたえながらも背もたれに肘を掛け、亮一を振り返った。
 
「おい、本気になるなよ」
「何で俺がお前に本気になるんだ。……調子に乗るなよ」
「亮一」
 
 凄みのきいた迫力ある声の響きに、もう一人いた友人が諌めるように声を掛けてきた。
 機嫌を取ろうとする林を睨むと、亮一は友人に「帰る」と言い残し、足を踏み出す。
 ざわりと背後に息を呑む空気を感じたが、空を睨んだまま、亮一は振り返らずに会場を後にした。





「あ、亮一! 良かった!」

 二次会会場のレストランのある階から、階段を使って階下に降りている途中、亮一は登ってきた女に声を掛けられた。
 その見覚えのある顔が、大人の顔付きになっていることに、月日の流れを感じる。
 怒りで麻痺した感情に、特に何の感慨もわかない。ただ、可南子に早く会いたいと思った。
 女は階段の踊り場で、革のバッグを肩から下ろすと、はぁっと膝に手を付いて息を整えた。前を開けたトレンチコートから、黒のスーツが見える。

「亮一なら、階段を使うと思ったんだ。相変わらずだね。……久しぶり。今、林から亮一が帰ったってメールが来て、急いで」
「久しぶり。二次会なら急いだほうがいい。じゃあ」

 林はこれがあって引き止めたのかと、苦々しく思う。面倒くさい奴だと敬遠はしていたが、ここまで厄介な奴になっているとも思わなかった。
 亮一は階段を降りる足を止めることも早めることもせず、踊り場にいるその女の横を通り過ぎようとすると、相手の呼吸が伝わってきた。短い息は息を切らせているだけではないと感覚でわかる。
 昔から広信は自分の小賢しさを棚に上げ『僕ね、あの子は小賢しいから嫌い』と言っていた。この場に広信がいなくて良かったと、亮一は胸を撫で下ろす。
 何度か結衣に亮一との復縁の仲立ちを頼みに来ていて、結衣がそれを止めてくれているとも、広信から聞いていた。

「……亮一に、会いに来たんだよ」
「そうか」

 女と目も合わせずに去ろうとしたのは、罪悪感からだったかもしれない。
 可南子とすれ違った日々と、共に過ごす日々で気づいた事は、亮一の内側に常に刺さっている。

「名前くらい、呼んでよ……」

 背中からの声は震えていた。

「……いろいろ、悪かったな」

 亮一の言葉に、細く高いヒールが踊り場に打ち付ける音が響き、女は亮一の背中に飛びついてきた。
 予期せぬ突然の軽いだけの衝撃に、亮一は顔を歪めた。

「……明美って、富永、明美って。名前、覚えてるよね」
「離してくれないか。今から帰るんだ」

 明美の腕に力が入って、背中に双つの膨らみが押し付けられる不快さに、亮一は天井を睨む。
 振り払うのは簡単だった。だが、鍛えている分、亮一が力を込めなくても、相手に思いのほか衝撃を与える。女相手だとそれが顕著で、すぐに手を出せない。それに、相手が抵抗し更に抱きついてきたら、それこそ面倒な事になる。
 手に持っていた引き出物が入った袋を揺らして、明美の足に「離せ」と軽く当てる。

「ねぇ、私、あの時、別れるって言ったの、すごく後悔しているの。亮一が引き止めてくれると思った私が若かったの。あの後、しばらく誰とも付き合わなかったよね。私のこと、忘れられなかったんだよね? 私ね、キャリアを積んでるの。そこらの男よりも、収入もある。亮一の足を引っ張ることしないし、結婚したいとも言わないから。友達でいいの、友達から、もう一度、始められないかな、ね?」
「彼女がいるんだ。離してくれ」
「知ってる、知ってるよ。……亮一に彼女がいる事、ちゃんと知ってる」
「……おい」

 彼女がいると知っているのに、友達から始めたいという意味が理解できず、さすがの亮一の頭も混乱する。
 背中にさらに身体を押し付けられて、女らしい柔らかい腕で、脇の下から肩を抱え込こまれた。背中に額を擦り付けるように顔を左右に振られ、その度に、合成香料の甘ったるい匂いがあたりに漂い、頭痛に繋がる。

「私、子供もいらないし、結婚しなくてもいいの。チームリーダーをしているくらい、仕事に精一杯だから。今日だって、休日出勤だよ? ……私、忘れられないの。誰と付き合っても、亮一のことを思い出すの。あのマンションに入れろなんて言わないし、仕事で忙しい事に文句も言わない。飲んで夜遅くなっても、いいの。連絡が無くても」
「俺は離せと言っているんだ。次に離さないなら、振り払う」
「ねぇ、今の彼女は、結婚したがってるんだよね? 子供を欲しがってるんだよね? しかも、マンションに転がり込んでるんだよね? 私はそんなことしないの!」
「離せ」
「ねぇ! お願い!」

 興奮が収まらずどんどん大きくなっていく声が踊り場に響き渡る。
 怒りで頭痛がし出した亮一には、ただの騒音にしか聞こえない。

「……離せ」
「い、いや。……嫌!」

 亮一は引き出物の紙袋から手を離し踊り場に置くと、明美の人差し指から小指まで四本一纏めにして強く握り、手首が本来曲がらない方向へ加減して力を入れた。痛みに怯み、明美の腕が緩んだ所で手を離し、その腕から自分の身体を逃す。すぐに身体を反転させると、手首の痛みに驚いている明美と向き合った。
 亮一の容赦の無い冷淡な表情に見下ろされ、明美の顔がひくりと攣る。

「痛かったな、すまない。だが、俺は、離せと何度も言ったぞ。何度もな」
「ご、ごめん、だけど」
「誰から、どう、そう聞いたかは知らない。だがな、あの家に彼女を連れ込んだのは俺だ。結婚を頼み込んでいるのも、子供を産んでくれと言っているのも、全部俺だ。そいつに言っとけ。全部、俺が頼んでいる事だってな」
「……う、そ」

 大学時代の友人がどう繋がりあっているのかに、亮一は興味が無い。
 ただ、伝言ゲームのように伝わり、可南子が悪者になるような形になっているのは聞き捨てならなかった。
 口元に手を寄せて何故か震えている明美を、亮一は冷然な鋭い目で睨む。真っ青になって硬直している明美を置いて、亮一は無駄に大きい引き出物の紙袋をまた手に持つと階段を降りだした。

「ねぇ、なら、私と結婚してよ! 子供も産むから! 共働き、できるから!」

 たった数分で打って変わった物言いに言葉も無いまま、亮一は振り返った。
 怒りを通り越した先にある静寂に、頭の中がどんどん整理されていく。
 亮一は、結衣は十年もこの相手をしてくれていたんだなと思った。ここまで酷いとは知らなかったとはいえ、申し訳なく思う。そして、これからはこの相手をさせてはいけないと、口を開いた。

「……忠告しておくぞ。今後一切、結衣に近づくな。結衣は面倒見が良いから、愚痴を聞いてやっていただけだ。十年もな。……あいつの人の良さに、付け込むのはやめろ」
「結衣とは友達なのよ……」
「友達、ね。こっちは、家族みたいな腐れ縁だ。これ以上、俺のことで、あいつを煩わせるなよ。言いたいことがあるなら、俺に言ってこい」
「……連絡先を知らない」

 亮一は口頭で自分の電話番号を伝えると、パッと顔を輝かせた明美が自分のコートのポケットから、スマートフォンを出してその番号を打ち込んだ。
 通話ボタンを押したのか、亮一のコートの中に入っているスマートフォンが着信を知らせて振動する。

「言っておくが、俺はこの事を彼女に伝える。今、鳴った電話番号も伝える。隠すことじゃないからな」
「……」
「約束しろ。結衣に俺の事で一切、連絡をするな。何も聞き出そうとするな、いいな」
「……わかった」
「それと、俺は彼女と結婚する。例外は無い」
「……二番目でも、三番目でもいいの。付き合って、欲しいの」

 電話を握り締めて決意に満ちた顔をした明美を背後に、亮一は階段を再び降りだす。
 階段を降りながら、亮一は口を開いた。

「俺は、彼女がだけが欲しい。他は必要ない」

 明美が何か言ったのはもう聞こえなかった。振り返るつもりは無く、問題もない。
 堰を切ったように流れ出す可南子への『愛しい』は、狂暴な独占欲に変わる時がある。
 やはり、そんな気持ちを持ったことが無かったと、昔の彼女を見て、改めて気づいた。
 だが、過去を清算するように、新しい自分が出来上がったと思っても、周りが過去を押し付けてくる。

 ほら、お前はこういう奴だろう?

 そうだ。俺はそういう奴だ。
 今だって、そういう要素はしっかりとこの身体の中に流れている。
 昔の彼女を見て、罪悪感は湧いたが、それだけだった。
 
 優しいのは、可南子だからだ。
 欲しいのは、可南子だけだ。
 それ以外は、いらない。
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