優しい手に守られたい

水守真子

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赤黒い感情

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亮一視点です
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「残業していました。今、帰っています」

 いつも通り、帰宅連絡のメールは来ていた。
 次の日、大学時代の友人の結婚式に出席予定だったのもあり、亮一が飲み会を早めに切り上げて家に帰ると、まず、玄関に可南子の靴が脱ぎ捨てられていた。
 可南子は必ず靴を揃える。横に倒れた細いヒールの小さな靴は、可南子の帰宅を知らせてはいたものの、何かがいつもと違うと知らせていた。
 亮一はその靴を揃えて、自分の革靴の紐を解く。

「ただいま」

 そう言いながらリビングに足を踏み入れるが、可南子はいない。ソファの上に可南子が通勤に使っているバッグが横に倒れて、中身が少し出ていた。ソファの背にはコートが無造作に掛けられている。
 亮一は眉間に皺を寄せ、自分の鞄をソファの傍に立て掛けるように置くと、寝室のドアを開けた。ベッドにもいないのを確認して、亮一は足を浴室に向ける。自然と歩く速度が速くなる。
 浴室に繋がる洗面所に入るとドラム式洗濯機が静かに動いていいた。浴室には電気が付いており、水音はしないが、人の気配を感じたことに安堵しながら、亮一は折戸の半透明のドアを叩いた。

「可南子、ただいま。開けていいか」
「あ、お帰りなさい」

 開ける許可を得る前に、可南子の声に引き寄せられたように亮一はドアを開けた。中から入浴剤の甘い湯気が漂ってきて、外の冷気が浴室に流れ込むのがわかった。
 亮一はスリッパを履いたまま浴室に入り、すぐにドアを閉める。
 乳白色の湯に肩まで浸かっている可南子の顔は、火照って赤い。長く湯に浸かっているのか、顔には珍しく汗が滲んでいた。

「ただいま」
「お帰りなさい」

 可南子は大きな瞳を嬉しそうに緩ませて、ふわりと微笑んだ。
 亮一はその可南子の笑顔を見て、帰宅してからずっと、ざわざわしていた気持ちが、少し落ち着く。

「お行儀が悪いですよ」

 コートも脱がないまま鞄だけ置いて、スリッパを履いたまま浴室に立っている亮一を、可南子は好意に満ちた目で、朗らかに嗜める。
 亮一は肩を竦めながら、何か変化を嗅ぎ取ろうと、可南子の表情をじっと見た。
 それをしっかり見つめ返してくる可南子は、やはり何かがおかしいと、亮一は顔を険しくする。
 亮一が、何があったのかを聞こうとすると、可南子は困ったような顔をして、先に口を開いた。

「会社の仕事で疲れることがあったの。今、デトックス中なんです。嫌な気分を家に持ち込んでごめんなさい」
「……仕事か」
「うん。そう、仕事」

 可南子はそう言いながら、おどけたように、顎まで湯に沈めた。

「……大丈夫か」
「大丈夫って言いたいけど、大丈夫じゃないの。だから、長めのお風呂」

 珍しく『大丈夫じゃない』と言った可南子はどこまでも笑顔で、亮一は眉をひそめる。
 何かがあったことは明白なのに、乳白色の湯に浸かり、すっかり火照った血色の良い顔からは、何も読み取れない。
 
「話なら、聞くぞ」
「ありがとうございます。でも、自分の仕事の事だから」
「……つらいなら、辞めてもいいんだぞ」

 可南子は驚いたような顔で、水滴で濡れているはずの壁に背を預け、腕を組んでいる亮一を見上げた。
 亮一は真面目な顔を崩さず、可南子の視線を正面から受ける。
 その場の緊張を緩ませるように、可南子が物柔らかに微笑んだ。

「お仕事がないと、私、生活が出来なくなりますよ」
「俺の源泉徴収を見せたらいいか」

 収入や引かれている税金が全て乗った小さな紙を見せて済むなら簡単な事だと亮一は思う。
 可南子は亮一の意図を汲み取ったのか、目を瞬かせて、それから、笑顔を崩すと、泣きそうに顔をくしゃりと歪ませた。

「私を、甘やかしすぎですよ」
「話を聞かせてもらえないんだ。こっちで解決するしかないだろう」

 亮一が冗談っぽく親指と人差し指で丸を作ると、可南子は湯船の中で膝を抱き寄せて顔を俯かせた。
 強がりが落ちた弱々しい姿は痛々しく、可南子を追い詰めた『仕事』に、亮一は心の中で舌打ちする。
 相当に厄介な事があったのだろうと思ったが、一人でどうにかしようとする姿は頑なで、無理やり聞き出すと益々殻に篭る気がして、憚られた。
 
「何かがあって、それを話せないなら別にいい。ただ、抱え込むなよ。二人で一緒にいるんだぞ。それを忘れるなよ」
「……亮一さんだって、何も話さないでしょう」
「残念ながら俺は仕事で悩まない。……可南子の事なら、悩むし考えるけどな」

 状況なんていうものは変わるものだ。変わるものを、変わらないようにしようとするから、悩みが起こる。日々の雑事は、淡々と対処していけばいいだけだ。
 永遠を渇望する、可南子との関係だけ、亮一は悩む。
 可南子の目から涙が零れたのを見て、亮一は湯船のそばにしゃがむと、それを指で拭った。

「……すまん、明日は結婚式に出席するんだ。できるだけ早く帰ってくる」
「ちゃんと、二次会も三次会も、行きたかったら、行ってくださいね」
「あのな」
「私、大丈夫です。もう、大丈夫。ありがとう、亮一さん」

 可南子の上気した表情が煌めいて、亮一はその不安を少しだけ緩めた。



 披露宴でのメインイベントの一つであるケーキ入刀が、高砂の傍で行われていた。歯が浮くような男女の愛を歌った曲が、大音量で会場に流れている。司会の声に促され、新郎新婦がケーキに入刀すると、周りの歓声も一層大きくなった。
 カメラやスマートフォンを構えた招待客がシャッターを一斉に切りだし、ケーキに入刀をしたまま、向けられたカメラに笑顔で応える新郎新婦は幸せ見えた。
 それを遠目に見て、亮一はコツンと紺のテーブルクロスで覆われたテーブルを人差し指で叩く。
 よく見えるように置いているスマートフォンは黒い画面のまま動かない。

『式の途中だろうとか気にせずに、ちゃんと連絡しろよ』

 重々、可南子に言い聞かせてきたが、メールの一つも入ってこない。亮一の置かれた状況を優先させる、他人行儀にも感じる可南子の態度に、亮一は難しい顔になる。
 亮一は広信と一緒に、大学時代の友人の結婚式に出席していた。
 円形のテーブルには亮一と広信しかおらず、他の面々は写真を取るために席を立っていた。
 横に座っている広信の機嫌が、珍しく、すこぶる悪い。同じテーブルに、広信が結婚する前に『女付きの独身最後のパーティ』を企画した林という男がいるせいだ。
 林は広信が結衣一筋なのを知っていて、女を呼ぶパーティに広信を誘った。案の定、広信は激怒して林に笑顔で喧嘩を売ったらしい。
 当時、広信は仕事に支障が出そうな程に憤っていて、亮一は息抜きに誘った酒の席でそれを知る。
 広信は付き合えばすぐわかるのだが好戦的で、それを柔和に見える笑顔で隠しているだけだ。上っ面しか見ない奴には、それがわからない。
 広信は何事も無かったかのように話しかけてくる林を、無言の笑顔で黙らせ続けている。

 ……周りとか、気にしないからな。

 広信の気性を知っている亮一は、見事に林だけ無視をして、テーブルの空気を悪くする広信に違和感は覚えない。だが、巻き添えをくらっている他の友人が、亮一にどうにかしろという視線を送ってくる。
 いい大人なんだから、これくらいの空気でうろたえるなよと、亮一はその視線を無視している。
 林は昔から女寄せの為に、亮一と広信を利用しようとする所があった。身から出た錆だと、亮一は林を助けようとも思わない。

「僕たちはノリが悪いと思われているだろうねぇ」

 席から立とうともしない自分たちを揶揄して、広信がシャンパンの入ったグラスを揺らしながら、のんびりした口調で亮一に話し掛けた。
 まだケーキの周りには人が居て、特に女性招待客はシャッターを押し続けている。

「なんていうか、やっぱり、僕の結衣が一番だーーって、再確認するだけなんだよね。こういう所に来ても」
「……口を慎めよ」
「僕たちの結婚式で、かなちゃんしか見てなかった亮一がそれを言うかな」

 見られていたのかと、亮一は黙る。
 にこにこと、広信は笑顔を浮かべたまま、高砂に目をやった。

「かなちゃんさ、モテるって知ってる? 本人が超・無自覚なだけでさ。結衣が取引先との私的なんだか仕事なんだかの飲み会にかなちゃんを連れて行って接待させてた時、かなちゃんは大人気だったって。隣の席は競争率が高かったそうだよ。片方の横は絶対に結衣が座るから、横一席と、前だけ? それでさ」

 亮一は接待とは何だと思いながらも、結衣だからだなと納得してしまう。結衣はとにかく、可南子と過ごしたかったのだろう。
 美しさと清楚さを兼ね備えている可南子が、男の目を引くのはわかる。手を出しにくい分、せめて隣に座りたいと思う奴もいるだろう。
 昔のことまで口を出す気は無いが、今の可南子は自分の彼女だと、亮一は広信を制す。

「急に、何だ」
 
 亮一が剣呑な目つきで広信をねめつけると、広信は人好きのする笑顔のまま、声のトーンを落とした。

「ああ、うん、何をもたもたとしているんだろうかと、僕はとても不思議に思っていてね。いい感じなのに」

 広信は残り僅かだったシャンパンを飲み干して、グラスをテーブルの上に置く。

「……俺たちの、タイミングっていうのがある」
「タイミングねぇ。送り狼に始まって、未だに狼……。まさか、かなちゃんを性欲を捌け口にしてないよね」

 可南子を貶しめたとも捉えられる広信の物言いに、亮一のこめかみがピクリと痙攣した。
 広信は可南子を軽んじるような事を言わない。わざと下種な言い方をしたのは、亮一の感情を引き出そうとしているからだとはわかっている。
 自分のことだけなら良い。だが、可南子を巻き込む今の言いようだけは我慢が出来ず、亮一は怒気を纏わせて広信をきつく睨み付けた。
 広信は怒りの感情を真っ直ぐ向けてくる亮一をちらり見てから、堪えた様子もなく、満足げな笑顔を浮かべる。

「……亮一が、かなちゃんという花を開かせたんだ。かなちゃん、とても、きれいになったよね」

 可南子の事を話す、広信の慈しむような表情と静穏な口調は、可南子を大事な仲間だと思っている事を示していた。その証拠に、広信は事あるごとに可南子を大事にするように、亮一に苦言を呈す。
 広信は自分の内側に入れた人間をとても大事にする。それがわかっている亮一は、まだ燻る怒りを持て余しつつ、一旦、腕を組んで広信の話を聞く。

「亮一も、覚えがありすぎるだろうけど、かなちゃんって、男から見て、手を出しにくかったと思うんだよ」
「何が言いたいんだ」
「……亮一と付き合ってから、近寄れる、隙が出来た。かなちゃんが本当に男に言い寄られるのは、これからだよ。って、言いたいんだよ」

 広信の横顔を見て、亮一は旅行の前日に可南子が男に言い寄られていた事を思い出す。
 返す言葉を失った亮一に、広信は続ける。

「問題は、かなちゃん自身が、それをうまくかわせない所だろうと、僕は思っている。しっかりしている分、真面目に考えて、自分でどうにかしようとするはずだよ。……僕は、それを、とても心配をしている」

 笑顔を落とした広信の懸念を伝える目は鋭敏に冴え、表情は冷淡に感じるほど冷静だった。
 亮一が可南子を飲み会のあった駅まで迎えに行った日、可南子の変化に気づけたのは、人通りの多い道で自分から身体を接触させてきたからだ。
 しかも、人の気が緩みがちな酒が入る飲み会後だったからで、つまり、状況判断だ。

 ……俺を選んでくれれば、それでいい。

 可南子に伝える事に、嘘偽りは無い。
 自分の知らない所で、可南子が誰かに言い寄られているのは不愉快だが、それをコントロールするのは不可能だ。
 だが、広信の言う通り、可南子は問題が大きければ大きいほど、自分でどうにかしようとするだろう。
 話してくれなければ、知る術を亮一は持たない。
 一人で抱え込んで、考え過ぎた挙句、亮一が全く望まない場所に着地する可能性がある。
 ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。

「ちゃんと、大事にしろよ。かなちゃんと別れて、……狂うのは亮一だぞ」

 可南子が他の男の腕の中いる事を想像しただけで、亮一の肩にぐっと力が入り、腕の筋肉が隆起した。
 亮一に、冷静でいられる自信は全く無い。
 相手の男を殴りつけるだろう、自我を失う状況は、確かに『狂う』だ。
 広信の表現は適切だと、亮一は不気味に上がってきた赤黒い感情に、口元をいびつに歪ませる。
 可南子に対して抱く不安定さを露呈したような亮一の表情に、広信は憂いの色を濃くした。
 広信は溜め息をついて、自分の左手の薬指にはめている指輪を、亮一にひらひらと、ちらつかせる。

「僕はこうなるのに十年も掛かったから、これ以上のアドバイスは出来ないよ」
「……相手が、結衣だからな」
「そうなんだよ、結衣だからね」

 二人は暗い雰囲気を軽くするように、目を見合わせて、ふっと笑った。
 広信は友人たちがテーブルに戻ってくるのに気づいて、対外用の笑顔を仮面のようにつける。
 
「僕は、僕たち四人と、生まれてくる子供たちで、楽しくやりたいんだ。人生って楽しいだろう? って、子供に教えたくない?」

 無意識だろう、広信は微笑みながら、右手の親指と人差し指で結婚指輪をくるりと回すように撫でた。
 亮一はそれを眩しい思いで見る。

「……ああ、そうだな」
「ホント、かなちゃんに骨抜きにされたね」
「俺は生身の人間だと、思い出した」
「うわー、なんてしおらしいことを。録音して結衣に聞かせたい!」

 もう一度言ってよ、と、録音機能を起動させたスマートフォンを向けてくる広信から、亮一は面倒くさげに顔を逸らす。
 亮一は動かない自分のスマートフォンの画面を、じっと見て、溜息をつく。
 可南子に、愛していると、どんな事があっても一緒にいようと、言い続けるしかない。
 
 ……指輪か。

 可南子の薬指のサイズを、結衣は知っているだろうか。
 亮一は、喧嘩仲間のような幼馴染に頭を下げる事を厭わなくなった自分に苦笑した。
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