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連載
ふわふわと言われないように (中編)
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*
週の半ばに亮一から金曜日に『四人で飲みに行かないか』と誘われた。予定が無かった可南子は、二つ返事で頷く。
前に食事の場を設けてから、結衣は亮一に関して否定的な事を可南子に言わなくなった。
可南子は周りが急激に変化しているのに、自分がまったく変われていない事に罪悪感を抱く。
居酒屋風の焼鳥屋で通された小上がりの個室は、普通の大人でもこぢんまりと感じる広さだった。そこで大きな三人に囲まれて食事をすると、多少なりの圧迫感を感じる。亮一と広信は身長が180はあるし、結衣もヒールを履くと170に手が届く大きさだ。
しかも、入ったときよりも部屋の気温が高い気がする。広信が個室に入った途端に人好きのする笑顔を浮かべながら、壁に付いていたエアコンの温度を下げた理由がわかった。
可南子は冷え性なのもあって十一月に入ると保温機能のあるインナーを着ているので、熱くて着ていた薄いセーターごと腕を少し捲くる。
隣にいる身体の大きな亮一とはテーブルも小さめなのもあって、動くと腕が触れ合う。距離が近いだけでもその体温を感じるのに、触れ合ったワイシャツ越しの鍛えられた腕の感触に、肌に残った官能が芽吹いて顔が赤らんでしまう。
それに、亮一は可南子の方に寄ってきている気がする。気のせいだと信じてちらりと亮一を見ると、飲んでも変わらない顔色ながら目の中に酔いを見つけた。いつもの亮一の目を知っているからわかることで、そのことにも勝手に可南子は照れる。
「酔っていませんか」
目の前の広信と結衣が二人で談笑を始めたのを見て、可南子は亮一に自分のウーロン茶を差し出す。
「酔ってない」
確かに、酔っている範疇では無いだろうけれど。
亮一が手に持っているビールがもう底から5センチほどしかないのを見ながら、可南子は何杯目だっけと思う。この三人が水よりも酒をよく飲むのは知っていたが、三人揃うと感心するしかないくらいに飲む。
机の端に置かれた空のグラスを見やった後、可南子がウーロン茶をまた自分の手元に引き寄せようとすると亮一がそのグラスを持った。
そして、あきらかに可南子のグロスの後が付いている所を確認して、そこに口を当てて飲み始めた。可南子は目と口を開けたまま、立派な喉仏が上下に動くのを見る。
亮一はそれを飲み干すと、平然と言い放つ。
「いや、酔ってるみたいだな」
そう言って、壁側に座っている可南子の横にあるドリンクのメニュー表を、可南子を抱きこむように背中から腕を伸ばして取ろうとした。
目の前の広信と結衣の視線を感じて、背中に固い腕が触れたと同時、避けるように上体を机に寄せてしまった。動揺が耳まで赤く染め、可南子は二人に顔を向けることが出来ず、机の上の料理を凝視したまま動けない。
それなのに、背中に亮一からの刺すような視線と身に纏(まと)った苛立ちを感じる。
「……ビールとウーロン茶。僕、ちょっと手洗い。ついでに頼んでくるから」
いつも笑顔を崩さない広信が強張った顔を伏せながら立ち上ると、横で結衣が信じられないものを見るように広信を見上げた。
「可南子はウーロン茶で、亮一はジョッキで水ね。私が、頼んでくるから」
結衣が広信の腰の辺りのワイシャツを掴むと、広信は強張った顔のまま結衣の手を取った。そのまま、立つのを手伝う。
「あの」
可南子が焦って赤い顔を上げると、結衣は顔の前で手を立てて謝るような仕草をした。そのまま、広信が開けた障子を閉めて出て行く。
すぐに横にいる亮一が可南子の肩を抱えると自分の胸にもたせ掛けた。起き上がろうにも力が入らず、可南子はしな垂れかかったような形になる。
「か、帰ってきます」
「今、行ったばかりだろ」
亮一は可南子の髪に口づけながら、むっとしたように言う。
「嫌なのか」
「よ、酔ってる!」
可南子はテーブルの角を持つと上体を起こす。
広信と結衣の目の前で、ウーロン茶を飲んだ上に身体を接触させてきた。完璧に見られたし、気を使われた。広信が顔を強張らせたのを見たことが無い可南子は、かなり不愉快な思いをさせたのでは無いかと心配になる。
胸の中が恥ずかしさでいっぱいになり、きゅっと抓まれたように痛んだ。
「これぐらいの量で、酔うわけが無い」
亮一は可南子の首筋に顔を埋めると大きく呼吸をした。その勢いある呼気に、首筋から全身に根を張るように肌が粟立つ。
「……ずっと、様子がおかしい。何でだ」
「お、おかしくない」
「嘘だ。俺から離れようとしている」
亮一は黙ってしまった可南子の後頭部を持つと、容赦なく唇を重ねてきた。
ビールの香りが鼻をつく。飲んでいないのに飲んだような錯覚を覚えるほどに息が混じる深さ。
「んっ」
下腹部に勝手に力が入り、その中が蠢いた。自分の甘く熱い吐息が、亮一の口に届いたのがわかる。
体温を感じるだけで情欲に火が灯る。それほど丹念に撫でられ続けた肌は、すぐに次を欲しがり疼く。
目映い悦楽を覚えた身体は、また同じものがあると信じて疑わない。
好きだという気持ちは心にびっしりと絡んで、そこからいつだって亮一に向かって手を伸ばしている。
「……離さないからな」
唇を離されて注がれた至近距離からの射抜く熱い視線の中に、可南子は鬼気迫るものを見た。
表情に浮かんでいる、刺すような苦悩は、憂愁を帯びている。
「は、はなれません」
私だって、一緒にいたい。
でも、目の前の人は好きだという気持ちだけでそばにいるには、あまりにもレベルが高すぎる人だ。
だから、いま、がんばっている。少しだけ待って欲しい。
頭の中に、黒いエナメルの底と踵の内側が黄色の、ピンヒールのパンプスが浮かんだ。
……いつか、似合うようになるだろうか。
可南子の目に寂しげな色が浮かぶと、亮一は頬を引きつらせた。
*
会計を済ませた後、店の前で結衣は可南子に「これ、借りるね」と、笑顔で亮一を指差した。
引きつった結衣の笑顔を見てうろたえた可南子の肩を、広信は指でとんっと軽く叩いた。振り返った可南子に笑顔で首を振る。
結衣の後を亮一がうんざりした顔で付いていく。
「大丈夫。あの二人は、いっつもあんな感じ」
可南子は横で、にこやかに立っている広信を見上げる。
相変わらず警戒心を抱かせない細身の色男は、可南子に笑顔を向けた。
「私、何かしましたか?結衣さんが怒ったの、私のせいですよね」
心配を隠しもせず、二人を目で追う。
少し離れたビルの前で亮一が腕を組んで壁を背にして立ち、その前で結衣が腰に手をやって、亮一と対峙している。
「なんで、結衣がかなちゃんのせいで怒るの?」
「私が、亮一さんの前でしっかりしてないから」
触れられたくらいで動揺せずに、もっと平然としていれば良かった。
結衣の綺麗に弧を描いた眉がぐっと額の方に上がったのが見えて、可南子ははらはらとする。
広信は不思議そうな顔で、可南子に聞く。
「かなちゃん、それ以上、しっかりしてどうするの」
これ以上、伸びしろが無いと言われた気がして可南子は黙る。
やはり、あのハイヒールが似合う女の人にはなれないだろうか。
なら、せめて、亮一に合うもっと優秀で明るい人が現れたら、自分は身を引けるだろうかと考えて、無理だと思うと情けなくなった。
広信は首を右と左に傾けた後、「あー」と小さく声を出した。
「かなちゃん、亮一を目指して、あんな風にしっかりしないとって思っているなら、アプローチの方向を完全に間違っているよ。亮一の能力的なものって、男から見てもちょっと無いよ」
広信が核心をずばりと突いてきて、可南子は思わず身体を強張らせた。
「え、嫌だよ、かなちゃん。あんなのを世の中の男の普通だと思われたら、皆、所在無いんだけど」
明るく軽い言葉には力が宿っていた。
頭の中で考え過ぎて憂鬱になった気持ちに、広信の茶化した口調が小さな風穴を開ける。
言われてみればそうかもしれない。
答えの出ないことを考え続けて、自分から不幸に身を落としかけていたことに気づく。
「……あのさ、かなちゃんはさ、これからどんどん男と接しても大丈夫になっていくよ。一緒に居るのが、男の中の男みたいな奴だからね。あの迫力が大丈夫なら、他へのハードルも下がる。亮一は、それに気づいてるんだよ。だいぶ、前からね」
広信は可南子の異性への苦手意識に気づいているような口ぶりだった。可南子は広信の友人に至近距離で近寄られて、固まってしまったことがある。それを見られているせいかと、気まずそうに俯く。
そんな可南子に、広信は明るく話し続ける。
「亮一の本気に触れて、かなちゃんはもっと綺麗(きれい)になる。単刀直入に言うと、かなちゃんは大抵の男と幸せになれるよ」
とても亮一と仲が良いはずの広信が、他の男性を引き合いに出して、可南子はびくりとする。
でも、広信のゆったりとした口調には、亮一と可南子は合わないと言っている響きは無い。
「問題は、亮一だね」
そこで初めて、広信は表情を崩す。愛想が消えた冷静な目で、結衣に何かを言われ続けている亮一を見やった。
「あれは、かなちゃんとじゃないと幸せになれない。かなちゃんと別れた瞬間に、不幸装置に逆戻りだ。いや、災厄装置に格上げか」
不幸装置、災厄装置という、恐ろしげな言葉に可南子は顔を上げる。
そこで見た広信の口元に浮かんだ冷笑は辛辣だった。初めて見る表情と、その言葉の冷ややかさに可南子は反応に困る。
可南子の視線を感じて、広信はまたその表情に人好きのする笑顔を浮かべる。
「だからね、僕のわがままとしては、かなちゃんにストッパーというかクローザーになって欲しいんだよ」
広信は手をボールを握るような形にして、手首をスナップさせた。
可南子はよくわからず首を傾げたが、広信は何度か手首をスナップさせた後、その手を握る。
「かなちゃんは、胃もたれしかしない本気モードの、重い亮一のそばにいるんだ。僕はね、すごいと思ってるよ」
「でも」
私は、頼ってばかりで何も返せていないと思う。これからも、何かをちゃんと渡せるかもわからない。
「あのレベルの出来る人間に必要なのって、そばに居て、なんだか知らないけど和ませてくれる女の子だと思うんだよ。かなちゃんは、可愛くてきれいで和ませてくれるわけだからさ、亮一にはもう堪(たま)らないんだと思う。つまり、そばで笑ってるだけで良いんだよ」
可愛くてきれいと言われて、可南子は小さく頭を振る。それに、笑っているだけの女には、絶対にあのハイヒールは似合わない。
「難しく考えすぎてるよ」
率直過ぎる言葉は、痛みを持って響いた。
頭の中で考えすぎると、真っ黒に澱んでいくのは何故だろう。澱んでいくとわかっていても、中毒のように止められない
「でも、わからないよね。かなちゃんにとっては、亮一は会ってやっと二ヶ月くらいだもんね。でもね、周りからするとあの亮一は奇跡みたいで、お祭り騒ぎだよ。あの、勉強や趣味や仕事にかける力をそばで見てきた身としてはさ、あれを恋愛に掛けてるなら重いだろうと心底思う。だから、いろいろと戸惑う自分をかなちゃんは責める必要が無いと思うよ」
結衣に何かを言われ続けている亮一に視線をやって、広信は顔からまた笑顔を消す。
可南子に視線を戻すと、人の心を開かせるような笑顔を浮かべる。
「……かなちゃんが亮一を好きだという気持ちが、亮一には一番大事なんだ。それを見失うような『しっかり』は、いらないかなぁ」
亮一は可南子が笑いかけると、いつも嬉しそうにする。故意のように見過ごしていた事実は、暖かい真実だ。
けれど、好きなだけで良いというのは贅沢な気がして可南子が曖昧に笑むと、広信はまたにこりとする。
「それにね、二人でいるんだからさ、いろんなことを話してあげてよ。これはね、結衣を二年掛かって落として、十年掛かって結婚まで漕ぎ着けた僕のアドバイス」
広信のどこまでも明るい、悪戯っぽい笑顔に、可南子も釣られる。
切ないほどそばにいたい気持ちから始まったのがこの恋だ。亮一に懸命に想いを伝えていた時の自分を思い出すと、胸が痛む。
大事にされるから、自分も頼られるような人になりたいと思った。でも、好きだと言って喜んでもらえる今を、もっと噛み締めていても良い気がしてくる。
可南子は軽くなった気持ちをそのまま表情に乗せて、広信に笑んだ。
「あの、楽になりました。ありがとうございます」
広信ににこりと笑み返されると、考えすぎて重く沈んだ気持ちが浮上する。
「そういえば、広信さんが亮一さんに送るように言ってくれなければ、私は亮一さんとちゃんと出会っていませんでしたね。ありがとうございます」
朝の太陽を受けたような笑顔で可南子が伝えると、広信が珍しく笑顔を固めて引きつらせた。
固まった笑顔のまま、顎の辺りを撫でる。
「……うん、けっこう、かなり、効いた。さすが、かなちゃん」
明らかな自嘲の苦笑いを浮かべて、広信は何度も小さく頷きながら、頭を掻いた。
週の半ばに亮一から金曜日に『四人で飲みに行かないか』と誘われた。予定が無かった可南子は、二つ返事で頷く。
前に食事の場を設けてから、結衣は亮一に関して否定的な事を可南子に言わなくなった。
可南子は周りが急激に変化しているのに、自分がまったく変われていない事に罪悪感を抱く。
居酒屋風の焼鳥屋で通された小上がりの個室は、普通の大人でもこぢんまりと感じる広さだった。そこで大きな三人に囲まれて食事をすると、多少なりの圧迫感を感じる。亮一と広信は身長が180はあるし、結衣もヒールを履くと170に手が届く大きさだ。
しかも、入ったときよりも部屋の気温が高い気がする。広信が個室に入った途端に人好きのする笑顔を浮かべながら、壁に付いていたエアコンの温度を下げた理由がわかった。
可南子は冷え性なのもあって十一月に入ると保温機能のあるインナーを着ているので、熱くて着ていた薄いセーターごと腕を少し捲くる。
隣にいる身体の大きな亮一とはテーブルも小さめなのもあって、動くと腕が触れ合う。距離が近いだけでもその体温を感じるのに、触れ合ったワイシャツ越しの鍛えられた腕の感触に、肌に残った官能が芽吹いて顔が赤らんでしまう。
それに、亮一は可南子の方に寄ってきている気がする。気のせいだと信じてちらりと亮一を見ると、飲んでも変わらない顔色ながら目の中に酔いを見つけた。いつもの亮一の目を知っているからわかることで、そのことにも勝手に可南子は照れる。
「酔っていませんか」
目の前の広信と結衣が二人で談笑を始めたのを見て、可南子は亮一に自分のウーロン茶を差し出す。
「酔ってない」
確かに、酔っている範疇では無いだろうけれど。
亮一が手に持っているビールがもう底から5センチほどしかないのを見ながら、可南子は何杯目だっけと思う。この三人が水よりも酒をよく飲むのは知っていたが、三人揃うと感心するしかないくらいに飲む。
机の端に置かれた空のグラスを見やった後、可南子がウーロン茶をまた自分の手元に引き寄せようとすると亮一がそのグラスを持った。
そして、あきらかに可南子のグロスの後が付いている所を確認して、そこに口を当てて飲み始めた。可南子は目と口を開けたまま、立派な喉仏が上下に動くのを見る。
亮一はそれを飲み干すと、平然と言い放つ。
「いや、酔ってるみたいだな」
そう言って、壁側に座っている可南子の横にあるドリンクのメニュー表を、可南子を抱きこむように背中から腕を伸ばして取ろうとした。
目の前の広信と結衣の視線を感じて、背中に固い腕が触れたと同時、避けるように上体を机に寄せてしまった。動揺が耳まで赤く染め、可南子は二人に顔を向けることが出来ず、机の上の料理を凝視したまま動けない。
それなのに、背中に亮一からの刺すような視線と身に纏(まと)った苛立ちを感じる。
「……ビールとウーロン茶。僕、ちょっと手洗い。ついでに頼んでくるから」
いつも笑顔を崩さない広信が強張った顔を伏せながら立ち上ると、横で結衣が信じられないものを見るように広信を見上げた。
「可南子はウーロン茶で、亮一はジョッキで水ね。私が、頼んでくるから」
結衣が広信の腰の辺りのワイシャツを掴むと、広信は強張った顔のまま結衣の手を取った。そのまま、立つのを手伝う。
「あの」
可南子が焦って赤い顔を上げると、結衣は顔の前で手を立てて謝るような仕草をした。そのまま、広信が開けた障子を閉めて出て行く。
すぐに横にいる亮一が可南子の肩を抱えると自分の胸にもたせ掛けた。起き上がろうにも力が入らず、可南子はしな垂れかかったような形になる。
「か、帰ってきます」
「今、行ったばかりだろ」
亮一は可南子の髪に口づけながら、むっとしたように言う。
「嫌なのか」
「よ、酔ってる!」
可南子はテーブルの角を持つと上体を起こす。
広信と結衣の目の前で、ウーロン茶を飲んだ上に身体を接触させてきた。完璧に見られたし、気を使われた。広信が顔を強張らせたのを見たことが無い可南子は、かなり不愉快な思いをさせたのでは無いかと心配になる。
胸の中が恥ずかしさでいっぱいになり、きゅっと抓まれたように痛んだ。
「これぐらいの量で、酔うわけが無い」
亮一は可南子の首筋に顔を埋めると大きく呼吸をした。その勢いある呼気に、首筋から全身に根を張るように肌が粟立つ。
「……ずっと、様子がおかしい。何でだ」
「お、おかしくない」
「嘘だ。俺から離れようとしている」
亮一は黙ってしまった可南子の後頭部を持つと、容赦なく唇を重ねてきた。
ビールの香りが鼻をつく。飲んでいないのに飲んだような錯覚を覚えるほどに息が混じる深さ。
「んっ」
下腹部に勝手に力が入り、その中が蠢いた。自分の甘く熱い吐息が、亮一の口に届いたのがわかる。
体温を感じるだけで情欲に火が灯る。それほど丹念に撫でられ続けた肌は、すぐに次を欲しがり疼く。
目映い悦楽を覚えた身体は、また同じものがあると信じて疑わない。
好きだという気持ちは心にびっしりと絡んで、そこからいつだって亮一に向かって手を伸ばしている。
「……離さないからな」
唇を離されて注がれた至近距離からの射抜く熱い視線の中に、可南子は鬼気迫るものを見た。
表情に浮かんでいる、刺すような苦悩は、憂愁を帯びている。
「は、はなれません」
私だって、一緒にいたい。
でも、目の前の人は好きだという気持ちだけでそばにいるには、あまりにもレベルが高すぎる人だ。
だから、いま、がんばっている。少しだけ待って欲しい。
頭の中に、黒いエナメルの底と踵の内側が黄色の、ピンヒールのパンプスが浮かんだ。
……いつか、似合うようになるだろうか。
可南子の目に寂しげな色が浮かぶと、亮一は頬を引きつらせた。
*
会計を済ませた後、店の前で結衣は可南子に「これ、借りるね」と、笑顔で亮一を指差した。
引きつった結衣の笑顔を見てうろたえた可南子の肩を、広信は指でとんっと軽く叩いた。振り返った可南子に笑顔で首を振る。
結衣の後を亮一がうんざりした顔で付いていく。
「大丈夫。あの二人は、いっつもあんな感じ」
可南子は横で、にこやかに立っている広信を見上げる。
相変わらず警戒心を抱かせない細身の色男は、可南子に笑顔を向けた。
「私、何かしましたか?結衣さんが怒ったの、私のせいですよね」
心配を隠しもせず、二人を目で追う。
少し離れたビルの前で亮一が腕を組んで壁を背にして立ち、その前で結衣が腰に手をやって、亮一と対峙している。
「なんで、結衣がかなちゃんのせいで怒るの?」
「私が、亮一さんの前でしっかりしてないから」
触れられたくらいで動揺せずに、もっと平然としていれば良かった。
結衣の綺麗に弧を描いた眉がぐっと額の方に上がったのが見えて、可南子ははらはらとする。
広信は不思議そうな顔で、可南子に聞く。
「かなちゃん、それ以上、しっかりしてどうするの」
これ以上、伸びしろが無いと言われた気がして可南子は黙る。
やはり、あのハイヒールが似合う女の人にはなれないだろうか。
なら、せめて、亮一に合うもっと優秀で明るい人が現れたら、自分は身を引けるだろうかと考えて、無理だと思うと情けなくなった。
広信は首を右と左に傾けた後、「あー」と小さく声を出した。
「かなちゃん、亮一を目指して、あんな風にしっかりしないとって思っているなら、アプローチの方向を完全に間違っているよ。亮一の能力的なものって、男から見てもちょっと無いよ」
広信が核心をずばりと突いてきて、可南子は思わず身体を強張らせた。
「え、嫌だよ、かなちゃん。あんなのを世の中の男の普通だと思われたら、皆、所在無いんだけど」
明るく軽い言葉には力が宿っていた。
頭の中で考え過ぎて憂鬱になった気持ちに、広信の茶化した口調が小さな風穴を開ける。
言われてみればそうかもしれない。
答えの出ないことを考え続けて、自分から不幸に身を落としかけていたことに気づく。
「……あのさ、かなちゃんはさ、これからどんどん男と接しても大丈夫になっていくよ。一緒に居るのが、男の中の男みたいな奴だからね。あの迫力が大丈夫なら、他へのハードルも下がる。亮一は、それに気づいてるんだよ。だいぶ、前からね」
広信は可南子の異性への苦手意識に気づいているような口ぶりだった。可南子は広信の友人に至近距離で近寄られて、固まってしまったことがある。それを見られているせいかと、気まずそうに俯く。
そんな可南子に、広信は明るく話し続ける。
「亮一の本気に触れて、かなちゃんはもっと綺麗(きれい)になる。単刀直入に言うと、かなちゃんは大抵の男と幸せになれるよ」
とても亮一と仲が良いはずの広信が、他の男性を引き合いに出して、可南子はびくりとする。
でも、広信のゆったりとした口調には、亮一と可南子は合わないと言っている響きは無い。
「問題は、亮一だね」
そこで初めて、広信は表情を崩す。愛想が消えた冷静な目で、結衣に何かを言われ続けている亮一を見やった。
「あれは、かなちゃんとじゃないと幸せになれない。かなちゃんと別れた瞬間に、不幸装置に逆戻りだ。いや、災厄装置に格上げか」
不幸装置、災厄装置という、恐ろしげな言葉に可南子は顔を上げる。
そこで見た広信の口元に浮かんだ冷笑は辛辣だった。初めて見る表情と、その言葉の冷ややかさに可南子は反応に困る。
可南子の視線を感じて、広信はまたその表情に人好きのする笑顔を浮かべる。
「だからね、僕のわがままとしては、かなちゃんにストッパーというかクローザーになって欲しいんだよ」
広信は手をボールを握るような形にして、手首をスナップさせた。
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「かなちゃんは、胃もたれしかしない本気モードの、重い亮一のそばにいるんだ。僕はね、すごいと思ってるよ」
「でも」
私は、頼ってばかりで何も返せていないと思う。これからも、何かをちゃんと渡せるかもわからない。
「あのレベルの出来る人間に必要なのって、そばに居て、なんだか知らないけど和ませてくれる女の子だと思うんだよ。かなちゃんは、可愛くてきれいで和ませてくれるわけだからさ、亮一にはもう堪(たま)らないんだと思う。つまり、そばで笑ってるだけで良いんだよ」
可愛くてきれいと言われて、可南子は小さく頭を振る。それに、笑っているだけの女には、絶対にあのハイヒールは似合わない。
「難しく考えすぎてるよ」
率直過ぎる言葉は、痛みを持って響いた。
頭の中で考えすぎると、真っ黒に澱んでいくのは何故だろう。澱んでいくとわかっていても、中毒のように止められない
「でも、わからないよね。かなちゃんにとっては、亮一は会ってやっと二ヶ月くらいだもんね。でもね、周りからするとあの亮一は奇跡みたいで、お祭り騒ぎだよ。あの、勉強や趣味や仕事にかける力をそばで見てきた身としてはさ、あれを恋愛に掛けてるなら重いだろうと心底思う。だから、いろいろと戸惑う自分をかなちゃんは責める必要が無いと思うよ」
結衣に何かを言われ続けている亮一に視線をやって、広信は顔からまた笑顔を消す。
可南子に視線を戻すと、人の心を開かせるような笑顔を浮かべる。
「……かなちゃんが亮一を好きだという気持ちが、亮一には一番大事なんだ。それを見失うような『しっかり』は、いらないかなぁ」
亮一は可南子が笑いかけると、いつも嬉しそうにする。故意のように見過ごしていた事実は、暖かい真実だ。
けれど、好きなだけで良いというのは贅沢な気がして可南子が曖昧に笑むと、広信はまたにこりとする。
「それにね、二人でいるんだからさ、いろんなことを話してあげてよ。これはね、結衣を二年掛かって落として、十年掛かって結婚まで漕ぎ着けた僕のアドバイス」
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切ないほどそばにいたい気持ちから始まったのがこの恋だ。亮一に懸命に想いを伝えていた時の自分を思い出すと、胸が痛む。
大事にされるから、自分も頼られるような人になりたいと思った。でも、好きだと言って喜んでもらえる今を、もっと噛み締めていても良い気がしてくる。
可南子は軽くなった気持ちをそのまま表情に乗せて、広信に笑んだ。
「あの、楽になりました。ありがとうございます」
広信ににこりと笑み返されると、考えすぎて重く沈んだ気持ちが浮上する。
「そういえば、広信さんが亮一さんに送るように言ってくれなければ、私は亮一さんとちゃんと出会っていませんでしたね。ありがとうございます」
朝の太陽を受けたような笑顔で可南子が伝えると、広信が珍しく笑顔を固めて引きつらせた。
固まった笑顔のまま、顎の辺りを撫でる。
「……うん、けっこう、かなり、効いた。さすが、かなちゃん」
明らかな自嘲の苦笑いを浮かべて、広信は何度も小さく頷きながら、頭を掻いた。
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