優しい手に守られたい

水守真子

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ふわふわと言われないように (前編)

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 亮一の家には玄関から入った正面に一つ部屋がある。亮一は物置だと言っているが、それなりに広いクローゼットも付いた部屋で、折り畳んだ簡易ベッドまであった。
 その部屋を見たのは同棲を始めた後で、可南子はトランクや荷物をいくつか置かせてもらっている。
 可南子が使いたいストールがその荷物の中にあることを思い出して探していると、亮一が部屋に入ってきた。

「……何をしているんだ」

 なぜか訝(いぶか)しげに聞いてきた亮一に、可南子は顔を向けて微笑む。

「必要なものをこっちに置いているみたいで」
「そうか」

 亮一のどこかほっとしたような顔を見て、首を傾げながら自分の荷物に視線を戻す途中、亮一の私物が入った蓋の無いシンプルな収納ボックスが目に入った。
 その中に日本語訳にもなっている英語のペーパーブックを見つける。読んだことは無いが、平積みされているのを見たことがあった。

「亮一さん、英語もできるんですか」
「それなりに」

 そのペーパーブックの厚さを考えると、かなり出来る気がした。可南子も絵本のペーパーブックレベルならそこまで苦痛に感じないが、さすがにこの厚さのものを読もうとは思わない。
 少しためらってから、思い切って聞いてみた。

「……TOEIC、何点ですか」

 亮一が目を細めながら思い出すように答えた点数を聞いて、可南子は「普通じゃない!」と心の中で叫ぶ。

「仕事で上に行く条件に、TOEICの点数がいるんだ。設定された最低ラインだと話にならないだろ。英語の方が、情報が早いのも多いし、自分が欲しい情報は自分で読めないと意味が無い。でも、英語しかできないぞ」

 威張ったりひけらかしたりする態度など全く無く、亮一はペーパーブックを手に取ると捲る。
 その点数が普通なことのような亮一の自分に厳しい姿勢に、可南子は思わず居住まいを正した。その冷淡にも感じる横顔に、可南子は亮一を遠く感じる。
 亮一は、ぱらぱらと捲ったページで手を止めると目で追って読み出した。亮一は集中し始めると、話しかけてはいけないような雰囲気を出す。実際はそんなことはないのだが、その集中力に近付くのを遠慮してしまう。
 亮一が仕事をし始めると、台所に用事が無い限り、可南子は寝室やこの部屋で過ごす事が多い。しばらくすると亮一が険しい顔で探しに来て、そばに連れ戻される。
 可南子は自分の荷物から探していたストールをみつけて亮一を振り返ると完全に本に没頭していた。取り残されたような感覚になるのは、自分に不安があるからだ。
 父親に「ふわふわ」と言われたことを思い出して、ストールをぎゅっと握る。こっちを向いて欲しくて話しかけようとしたが、言葉をのみこんでしまった。

 ……もっと、ちゃんと、しっかりしないと。

 胸に湧き上がった晴れない気持ちを隠すように、可南子は亮一の背中に抱きついた。



 同棲して数週間が経った。暮らし始めてからすぐ、可南子は亮一が想像以上の水準の男性だと強く実感する事になる。
 小宮の件で世話になっていた時の可南子は精神的に不安定だった。一緒に住む期間が決まっていたのもあり、ここまで強く違いを感じるまでは無かった。
 亮一は体格が良く、背が高くて手足が長いという元々の素質に恵まれている上に、ジムに行って鍛えているために贅肉らしい贅肉が見当たらない。それは服越しでもよくわかった。
 低く響く声は落ち着いた印象を与え、スーツを着れば何割か男前度が上がる。その見た目をさらに補うように文句を言わずよく働く。
 これは以前からわかっていた。
 付き合うようになってから、亮一の精神力の強さに何度も圧倒された。また、胆力が強い人間が存在することを亮一で知った。心技体のレーダーチャートがきれいに欄外に振り切れたような人だと強く感じる。
 そんなに強いのに、可南子を気遣ってくれる優しさがある。
 残業が多い週の後半にはさすがに疲労感が取れなくなり、それでも家事をしていると様子に気づいて取り上げられる。
 可南子は悩んだ挙句、亮一が帰ってくる前に家事を済ませてしまおうと、平行して出来る家事を頭の中で組み立てながら帰宅して、靴を脱いだ瞬間からこなすようにした。
 全てが終わると、ほっとして、ソファでいつの間にか寝ていた事がある。玄関のドアが開く音がして慌てて起き上がって出迎えに行くと、急に起き上がったせいか、歩いている途中にふらついて、玄関そばの壁に肩をぶつけて止まってしまった。
 革靴の紐を解いていた亮一が顔色を変えて靴のまま上がってくると、何の躊躇も無く可南子を抱きかかえてベッドまで運んだ。
 その時の亮一の顔が忘れられない。悲壮感に歪んだ顔は、あきらかに亮一が自分自身を責めていた。

「ごめんなさい」

 そんな顔をさせてしまい申し訳なくて言うと、亮一は首を振った。

「俺は、可南子が居てくれれば良いんだ。頼むから無理をするな」

 そうはいかないと、可南子は思う。
 父親から「ふわふわ」と言われた意味は、幼い頃から無自覚に物事を疑わず単純な方向に捉えてしまう事じゃないだろうかと思った。
 緩みそうになる気をきつく締め付けることを、大学での出来事や仕事が教えてくれた。
 でも、どうやら他人の目から見ると全然違うらしいことが歯痒(はがゆ)い。それを脱したと思っていただけに尚更だ。
 世界は安全で美しいと無条件で信じていた幼い頃は、いつもそこにあるものをただ感じていた。空気のにおい、光の色、風が運ぶ湿度、すべてが自分のそばで踊っている気がしていた。
 でも、もう大人で、世界はどちらかというと、暗闇に偏っているのを知っている。
 自分には悪気が無いのだから何をしても許される権利があると奇妙に振りかざすのに、自分がそれをされるのは許さない。けばけばしい色の絵の具を五本の指でぐるぐる回して暗くしたような、歪んでいる世界。
 亮一はその世界でしっかりと足を付けて生きていける人だ。撥ね付けて、時には踏み潰して、そして味方に付けながら、渡っていける。
 可南子は、そういう悪意ある感情をまともに受けてダメージを受ける。立ち上がるまで、とても時間がかかる。
 安全だと思える亮一のそばは、どうしても気が緩む。
 亮一に甘えるだけじゃだめだと可南子は唇を噛んだ。好きな気持ちは正義の旗じゃない。ただの負担になってしまう。
 ふわふわなんて言われないように、ちゃんとしないといけない。周りから心配なんてされないように、亮一にあんな顔をさせないように、亮一に頼られるくらいに、もっと。
 長い間、好きだと伝えたい。
 その為に亮一に近づきたいのに、想いと逆行するような沈鬱(ちんうつ)な気分を、可南子は抱えた。



 残業中、可南子は亮一から来たメールを開いて微笑んだ。

『ごめん、遅くなる。先に寝ててくれ』

 スマートファンに表示されている亮一の名前を、可南子はピンクベージュのマニキュアを乗せた指で撫でる。
 可南子は大事にされすぎて緩みがちになる気を、装いで補うようになった。
 まだ美容室にいけず邪魔な髪は、一つに纏(まと)めて結ぶようにしている。アップにしなければ良いという亮一の言葉を可南子は何とか引き出した。
 髪をきゅっと纏(まと)める瞬間、身(み)が引き締まるのは気のせいではないはずだ。ベーシックな青の開襟シャツにカーキのタイトスカートを合わせると、ゴムじゃないウエストが身体を文字通り引き締めてくれた。玄関で9センチのヒールを履くと、まさに背筋が伸びる。
 靴は値段が高いから、足に合うという訳ではないので難しい。
 歩いても痛くなりにくく踵(かかと)が抜けたりしない、さらにデザインが好みな靴であれば、これはもう運命の出会いだ。
 先日、可南子はそんな出会いをしてしまった。
 家を引き払うなど家具家電の処理でいろいろ入用だったのに、つい惹かれるように手に取ってしまった。手に取ったら最後、試し履きをしたくなる。
 先がほんの少し尖ったベージュのエナメルの靴で、9センチという高いヒールなのに不安定感が無い。まさに靴の中に足が収まり、頭の上からくっと引っ張られる。
 既に持っている靴とは違う、自分の身体が頭から爪先まで直線で繋がった感覚に感動した。
 値段を見てレジに行くまで悩んでいたが、支払いを済ませると胸にあったつっかえの様なものがすぅっと消えた。
 その爽快感に買い物の怖さを感じると同時、絶対にワードローブのローテーションの中に加えようと心に決める。
 ありがたいことに磯田は相変わらず、専用の秘書を雇ってほしいと思うくらいに、仕事を振ってくれる。つまり、残業が増える。こういう買い物をした時は、こっそりと磯田に感謝をする。
 それに加えて、可南子は他部署の人から仕事の話を振られるようになった。
 部署や課同士は仕事が重なっていても、余計な仕事をお互い増やしたくない為に、ぎりぎりまで腹の探りあいをしている。
 火がつきそうになって、面倒事の割合が大きくなりそうな方がしょうがなく口火を切る。
 そういったグレーな部分を、可南子にどうなっているのかと聞いてくる人が増えた。
 営業の鈴木とのやりとりを見られていたからではないかと、可南子は思っている。
 鈴木は新人だったのだが前任が派遣社員ということもあって、ほぼ引継ぎ書だけで営業の庶務的な役割に配属された。
 結衣はできる限り助けていたが外出でいない事も多かった。
 伝票処理が主な仕事なのだが、関わる経理は個性的な人が多く、教えるという事に基本的に冷たい。
 鈴木が誰にも教えてもらえず途方にくれていることが多かったので、同じような伝票を処理していた可南子がよく声を掛けていた。
 小宮が退職してしばらく経つと、商品開発に関わる面倒ごとをまずは可南子に聞いてくる人が増えた。その対応で午前が潰れるということも、珍しくなくなった。
 問題はそこではない。他部署と関わることが多くなり仕事への見聞が広がってくると、可南子は自分が仕事のできるタイプではないと嫌でも気づくことになる。
 奇抜なアイデアがあるわけでも、足で仕事を取り付けに行く度胸があるわけでも、店舗の面倒ごとを収める手腕があるわけでもない。
 ただ、真面目に仕事をこなしているだけだ。
 先日、買った靴と同じ棚に、スタンド型の什器があり、その上に掲げるように宝石のような靴が陳列してあった。
 上品な黒のエナメルのピンヒールのパンプスで、針のように細く高い靴の踵は足の着地を間違えば、晴れの日でも転倒してしまいそうな繊細さ。照明が当たって、きらきらと輝いていた。
 家への送迎があって、毛足の長い絨毯が敷いてあるホテルでの用事しかこなせないような、履く人だけでなくシーンも選ぶ靴。
 底と踵の内側は黄色で、完全にパーティ用の靴だった。
 その時、亮一の横にいるのは、こんなヒールが似合う女性だろうなと可南子は思った。
 あの威風堂々たる自信に満ち溢れた人の横に、この靴を履いて背筋を伸ばして並べる女性。
 亮一に頼りきりの自分には、似合わない。
 結局、両親に同棲の許してもらえたのも亮一のお陰だと可南子は思っている。荷物を運ぶ時も頭にすでにどう動くかが描かれていたように、流れるように亮一は作業を進めた。可南子の方が指示通りに動いていたようなものだった。
 ……本当に、頼りきり。

 溜め息が出てしまう。
 可南子が亮一との関係に微(かす)かでも消極的な雰囲気を出すと、亮一はすぐに気づく。
 空気がひび割れるような緊張感の後に苦しげな顔で見られる。それから、平日だろうと関係なくその夜は確実にベッドに組み敷かれる。
 不安にさせないように、もっとしっかりしなくちゃという気持ちは、気を中央に寄せるように、身体を締めて高く見せる装いにつながる。

「最近、仕事に張り切ってる女の格好をしてるね。何か仕事のステップアップでも狙ってる?」

 一緒にランチをした早苗からの一言は、何故か胸に突き刺さった。
 可南子は張り裂けそうな思いを呼吸の中に押し殺して、絶え間なく聞こえる胸の不快な音に耳を傾けず、ふわりと笑んだ。

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