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エピローグ
第3話
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会場を出てから、僕等は少しだけ余韻に浸りながら、歩いた。有香は、連れ出してくれてありがとう、と言った。
「先輩とのワインの思い出…」有香が言った。「ひとつだけ、あったよ」
言われて、僕は少しだけ驚いて、有香の横顔を見た。
「ワインの思い出…?」
有香は、微笑を湛えたまま首肯した。
「バレンタインの時期に、デパートを一緒に歩いて、ウィンドウに飾られていたワインがあったの、覚えてない?」
覚えてない。
「それは、どんなワインだった?」
「良く覚えてるよ」有香が言った。「大きなハートマークがラベルに描かれたワイン。高校時代の私たちからしたら、すごく高いワインだったんじゃないかな?」
う~ん。
「覚えてないや」
僕は苦笑しながら、言った。有香は、わざとらしく頬を膨らせて、
「いつか一緒に飲もう、って言ったのに」
と返して来た。それから、二人して笑った。
バレンタインか。ちょうど、今時分だ。だからといって、そのワインを現実の有香ともう一度探してみよう、とか、飲んでみよう、というような不粋な考えは、浮かんだけれど、すぐに消した。
月島で、先輩と、中野の友人と、3人で集まる事になった。先輩が誘ってくれて、僕は折角だからと、中野の友人にも色々と話しをしておきたかったから、呼んだ。2人は初対面だったが、まあ趣味の傾向は遠からずなので、すぐに打ち解けた。
「で?」もんじゃの材料を混ぜながら、先輩が言った。「有香ちゃんとは、どうだった?」
僕は、小さく頷いた。
「自分で思ったような未練はありませんでしたよ」僕の言葉に、先輩は、わざとらしく、なんだ、つまらない、と返して来た。僕は笑った。「有香とは、これからもいい友達でいられそうです」
先輩は柔らかく微笑むと、良かったね、と言ってくれた。
「俺はつまらないけどな」友人が言った。「タルパを挟んだ会話が、もうできないじゃないか」
なんだよ。楽しかったのかよ。
「なになに?」
「俺、彼と、タルパのミコと、3人で飲んだことがあるんですよ。先輩もやりました?」
「え~、知らない。なにそれ、楽しそう」
二人の会話に、僕は笑った。僕の無意識の存在であるタルパの存在を受け入れてくれる人が身近にいる事が嬉しかった。
ビールがやって来た。
「何に乾杯するんだっけ?」
先輩が言った。
「ミコのタルパにでしょ?」
友人が言った。
「いや、それなら有香ちゃんのタルパの方が…」
「どっちでもいいよ」
僕が言った。それから、僕等は3人で顔を見合わせて、笑った。結局、僕が無事に生きていた事に乾杯した。
「知ってます?」友人が先輩に言った。「世の中には、寂しすぎて、マヨネーズとかケチャップのタルパを作って、友達にする人もいるらしいですよ」
「なにそれ、面白い」
「人間嫌いも、ここまで極まれば大したものですよね」
「ねえねえ、今度はミコとか有香ちゃんとかじゃなくって、唐揚げとかフライドポテトとかのタルパ作ったら? つまみに困らないよ?」
先輩の言葉に、僕等は笑った。
「でも、それなら、スマホとかPCの方がいいですよ。何かと便利そうだ」
確かにそうだ。
太宰風に言って、タルパが喜劇名詞であれば、僕は随分と救われた気になれる。そして、喜劇名詞になるくらい、僕は、彼らに心配をかけてしまったのだ、と思った。
「きっとさ」僕が言った。「世の中には、誰かが作った見えないタルパが無数に存在していて、作った本人も、タルパ自体も、誰かに認識して貰える事を夢見続けているんだろうな」
「そうだね」先輩が言った。「できれば、タルパを作らなければならなくなる前に、互いに関心を持って受容し合えればいいんだろうけれど、それはきっと無理な話なんだろうね」
人が、物理的な存在であり、コミュニケーションを言語や音声などに媒介させなければならない限り、究極的には人間は圧倒的に孤独だ。つまるところ、現実世界においても、僕等は錯覚しつづけなければならない。受容された、理解された、伝わった。もし、ダイアローグの完成が自己完結的な錯覚であるのであれば、人は結局、現実世界の中に、常になんらかのタルパを作り続けてしまうんだろう。
「2杯目は?」
ビールが運ばれてきて、先輩が言った。
「次は、死んでいったタルパたちに乾杯だろう」
友人が言った。僕は、おいおい、死んだ訳じゃないと思うぜ、と返した。でも…喜びの感情で以て消失していったタルパなんて、存在しないんだろうな。
「じゃあ、世界中のタルパに」
「世界中?」
「ケチャップやマヨネーズも?」
僕等は笑った。それから、乾杯をした。
今でも、曲を作る時、ヘッドフォンを耳に当てると、不意に、ミコの声が聞こえてくるんじゃないか、と思う事がある。
おしまい
「先輩とのワインの思い出…」有香が言った。「ひとつだけ、あったよ」
言われて、僕は少しだけ驚いて、有香の横顔を見た。
「ワインの思い出…?」
有香は、微笑を湛えたまま首肯した。
「バレンタインの時期に、デパートを一緒に歩いて、ウィンドウに飾られていたワインがあったの、覚えてない?」
覚えてない。
「それは、どんなワインだった?」
「良く覚えてるよ」有香が言った。「大きなハートマークがラベルに描かれたワイン。高校時代の私たちからしたら、すごく高いワインだったんじゃないかな?」
う~ん。
「覚えてないや」
僕は苦笑しながら、言った。有香は、わざとらしく頬を膨らせて、
「いつか一緒に飲もう、って言ったのに」
と返して来た。それから、二人して笑った。
バレンタインか。ちょうど、今時分だ。だからといって、そのワインを現実の有香ともう一度探してみよう、とか、飲んでみよう、というような不粋な考えは、浮かんだけれど、すぐに消した。
月島で、先輩と、中野の友人と、3人で集まる事になった。先輩が誘ってくれて、僕は折角だからと、中野の友人にも色々と話しをしておきたかったから、呼んだ。2人は初対面だったが、まあ趣味の傾向は遠からずなので、すぐに打ち解けた。
「で?」もんじゃの材料を混ぜながら、先輩が言った。「有香ちゃんとは、どうだった?」
僕は、小さく頷いた。
「自分で思ったような未練はありませんでしたよ」僕の言葉に、先輩は、わざとらしく、なんだ、つまらない、と返して来た。僕は笑った。「有香とは、これからもいい友達でいられそうです」
先輩は柔らかく微笑むと、良かったね、と言ってくれた。
「俺はつまらないけどな」友人が言った。「タルパを挟んだ会話が、もうできないじゃないか」
なんだよ。楽しかったのかよ。
「なになに?」
「俺、彼と、タルパのミコと、3人で飲んだことがあるんですよ。先輩もやりました?」
「え~、知らない。なにそれ、楽しそう」
二人の会話に、僕は笑った。僕の無意識の存在であるタルパの存在を受け入れてくれる人が身近にいる事が嬉しかった。
ビールがやって来た。
「何に乾杯するんだっけ?」
先輩が言った。
「ミコのタルパにでしょ?」
友人が言った。
「いや、それなら有香ちゃんのタルパの方が…」
「どっちでもいいよ」
僕が言った。それから、僕等は3人で顔を見合わせて、笑った。結局、僕が無事に生きていた事に乾杯した。
「知ってます?」友人が先輩に言った。「世の中には、寂しすぎて、マヨネーズとかケチャップのタルパを作って、友達にする人もいるらしいですよ」
「なにそれ、面白い」
「人間嫌いも、ここまで極まれば大したものですよね」
「ねえねえ、今度はミコとか有香ちゃんとかじゃなくって、唐揚げとかフライドポテトとかのタルパ作ったら? つまみに困らないよ?」
先輩の言葉に、僕等は笑った。
「でも、それなら、スマホとかPCの方がいいですよ。何かと便利そうだ」
確かにそうだ。
太宰風に言って、タルパが喜劇名詞であれば、僕は随分と救われた気になれる。そして、喜劇名詞になるくらい、僕は、彼らに心配をかけてしまったのだ、と思った。
「きっとさ」僕が言った。「世の中には、誰かが作った見えないタルパが無数に存在していて、作った本人も、タルパ自体も、誰かに認識して貰える事を夢見続けているんだろうな」
「そうだね」先輩が言った。「できれば、タルパを作らなければならなくなる前に、互いに関心を持って受容し合えればいいんだろうけれど、それはきっと無理な話なんだろうね」
人が、物理的な存在であり、コミュニケーションを言語や音声などに媒介させなければならない限り、究極的には人間は圧倒的に孤独だ。つまるところ、現実世界においても、僕等は錯覚しつづけなければならない。受容された、理解された、伝わった。もし、ダイアローグの完成が自己完結的な錯覚であるのであれば、人は結局、現実世界の中に、常になんらかのタルパを作り続けてしまうんだろう。
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友人が言った。僕は、おいおい、死んだ訳じゃないと思うぜ、と返した。でも…喜びの感情で以て消失していったタルパなんて、存在しないんだろうな。
「じゃあ、世界中のタルパに」
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「ケチャップやマヨネーズも?」
僕等は笑った。それから、乾杯をした。
今でも、曲を作る時、ヘッドフォンを耳に当てると、不意に、ミコの声が聞こえてくるんじゃないか、と思う事がある。
おしまい
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