上 下
53 / 94
カエルの歌が聴こえない

第9話

しおりを挟む
 東京に転勤になって、社宅で暮らすようになってから、思えば、他人を家に上げた事がない。
「ちょっと」ミコが、掃除をしている僕に向かって、トイレの扉から顔だけ出しながら、言って来た。「ボクは家に上がってるからね」
 他人を家に上げた事がないので、散らかっていると言えば常に散らかっているし、殺風景と言えばとても殺風景だ。
 こういう時、つまりは独り暮らしの自宅に女性を招待する時、普通はドキドキとかワクワクとかするんだろうけれど、そういう気持ちはあまりなかった。
「だって、ボクがいつも居るから、慣れてるもんね」
 そういう訳でもないけど。大体、ミコの為に掃除した事はないし。
 あ、でも、学生時代、保健体育の教師が、男ならば女性と会う時は何があるか解らないから、ゴムを用意しておくのは礼儀だ、みたいな事を言っていたな。とは言え、やはり、有香とそういう事になる予感はなかった。
「人妻かもしれないもんね」
 僕は、ミコの言葉に笑った。
「ミコが拘ってるって事は、僕がそれを気にしてるって事なのかな」
 ミコは、えへへ~、と声に出して笑い、絶妙なタイミングで、ちゃんと彼女に訊く様に合図するからね、と言った。

 お昼過ぎに、有香がやってきた。彼女は、M3で会った時と同じコートと帽子の出で立ちだった。狭い玄関で迎え入れると、僕と並んだミコが、有香に向かって、いらっしゃいませ、と声を掛けたのが滑稽だった。

 僕はCubaseとメモ帳が立ち上がったPCの画面を見せた。彼女はコートと帽子をベッドの上に置くと、僕の隣に座った。狭い部屋の中で、彼女の肩と僕の肩が触れ合った。髪の毛から、いい匂いがした。どこか懐かしい香りだと感じるのは、もしかすると、その匂いが高校時代に嗅いだものと同じだったからかもしれない。いや、そんな訳ないか。

 僕は有香に、自分がスランプである事と、それを克服する目的でカエルの合唱の音階を基調とした楽曲を作る事を話した。有香はそれを聞いて小さく笑うと、じゃあ、わたしもカエルの合唱の歌詞を参考に作詞しようかな、と言った。

「曲はまだこれからなんだけれどね」僕が言った。「曲調と、歌詞の感じを合わせられたらなあ、って思って」
 言いながら、僕はPCの前に置いた25鍵の小さなキーボードを使って、ドレミファミレド、と弾いて見せた。
「また変拍子にするの?」
 有香の言葉に、僕は首肯した。
「7拍子か、13拍子にしようかと思ってるよ」
「13拍子…」有香が呟く様に言った。「13拍子の曲に歌詞をつけるのは、初めてかも」
 そうだろうね。
「13拍子、といっても、基本は混合拍子だからね」僕が言った。「6拍子と7拍子を交互に繰り返して13拍子を作ったりするのが基本だから、そんなに難しくないと思うよ」
 最近、ようやく7拍子の楽曲は市民権を得て来たように思えるけれど、11拍子以降の素数変拍子はそんなに陽の目を見ていないし、認知もされていない気がする。
「7拍子のリズムは」有香が言った。「たん・たん・たたた、って感じであってる?」
「あってるあってる」僕が返答した。「そのリズムが一番7拍を作りやすいね。7拍子は、4拍と3拍の混合で作って、そのあとに6拍を持ってこれば、13拍子」

 自分で言いながら、そういえば23拍子なんて曲も作ったけれど、今のDTMソフトって殆どがピアノロール式で、所謂楽譜なんてないから、楽譜で書き出したらどんな譜面になるんだろう、と思った。1小節に23拍もはいるのか。

「ねえねえ」後ろから、ミコが声を掛けて来た。いつのまにか、ベッドに腰かけて、僕等を見下ろしていた。「コーヒーくらい出したらどうなの?」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件

フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。 寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。 プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い? そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない! スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。

女の胸には男のロマンが詰まっているなんて真っ赤な嘘よ!

さいとう みさき
青春
「おっぱい」 それは神。 「おっぱい」 それは男の希望。 全てのおっぱいを愛する紳士諸兄に贈る少女のおっぱいをめぐる逸話。 君は「おっぱい」に希望を見出せるだろうか?

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

ジキタリスの花

華周夏
BL
物心ついた時から、いじめられてきた庇ってくれる人なんて誰もいない。誰にも──言えない。そんな僕を見つけてくれたのは、欲しかった言葉をくれたのは、光宏先輩、あなたでした。相模明彦、彼の淡く切ない初恋……。

彼女に思いを伝えるまで

猫茶漬け
青春
主人公の登藤 清(とうどう きよし)が阿部 直人(あべ なおと)に振り回されながら、一目惚れした山城 清美(やましろ きよみ)に告白するまでの高校青春恋愛ストーリー 人物紹介 イラスト/三つ木雛 様 内容更新 2024.11.14

ちっちゃくなった俺の異世界攻略

鮨海
ファンタジー
あるとき神の采配により異世界へ行くことを決意した高校生の大輝は……ちっちゃくなってしまっていた! 精霊と神様からの贈り物、そして大輝の力が試される異世界の大冒険?が幕を開ける!

処理中です...