音のない風

紫 李鳥

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前編

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 この村に住み着いて2年が過ぎた。株で儲けた金で平屋の古い一戸建てをキャッシュで買い、付いていた小さな畑には大根やじゃがいも、なすを植えた。近くの渓流で釣りを楽しみ、ついでに岩魚いわなをゲット。これで、野菜と魚がそろった。あとは米と肉だけだ。

 米や肉、石鹸やトイレットペーパーなどの生活必需品は、中古のワゴン車を使って駅前のスーパーでまとめ買いをする。駅前まで来たついでに描き溜めたアクリル画を売る。

 だが、車の荷台に並べた0号からF8の風景画を、じっくり鑑賞する者など滅多にいない。いたとしても、無愛想に新聞を広げている俺に一瞥いちべつして通り過ぎるのが関の山だ。それでも、中には声をかける者もいた。

「……この小さいの幾ら?」

 スーパーの袋を提げた中年女が横柄な物の言い方をした。

「あ、1万円です」

 絵心のない奴に売る気がなかった俺は、5倍の値段をふっかけた。

「えーっ!1万円?そんなにすんの」

 女は糸屑のような細い目を、セーターの毛玉ぐらいに丸くしていた。

「高いですか?」

 俺は新聞に顔を戻すと、一言ひとことそう言って新聞を捲った。暇つぶしの相手ではないことを察したのか、女は返事もせずに去っていた。フン。俺は自嘲じちょうするかのように鼻でわらうと、新聞を畳んだ。

 余生の夢である、“悠々自適”。それが、この片田舎に居を構えた理由である。浪費さえしなければ、年金が受け取れる年齢までの生活費の蓄えはあった。“自給自足”をベースに、好きな絵を描いて一生をえたかった。

 電気、ガスなどの光熱費や固定電話などの公共料金は口座振替にしているので、この家にやって来る者は誰一人としていない。文字どおり、門前雀羅もんぜんじゃくらを張るが如く閑散としていた。


 それは、秋も深まった頃だった。朝食を済ますと、いつものように絵を描きに出た。渓流の紅葉を眺望できる小高い丘に登っている時だった。突然、音のない風が耳をで、その瞬間、何か動くものが視界に入った。それに目をやると、黒いものが森の奥に向かっていた。目を凝らすと、黒いコートを着た女だった。

「えっ……」

 場所にそぐわない女の格好を見て、俺は思わず声が漏れた。その動きはゆっくりだが、確実に森の奥に進んでいた。

「……まさか」

 不吉な予感がした俺は、枯れ葉を載せた草の上にイーゼルとキャンバスを置くと、丘を下りて森に向かった。

 落ち葉を踏まないように音を殺して歩くと、やがて、黒いコートが見えた。木陰から覗いていると、女は太い幹の傍らでハイヒールの足を止めた。俯いた女は考えるように、しばらくじっとしていた。やがて、コートの中のスカーフを手にすると、適当な枝に結んだ。そして、その輪の中に頭を入れようとしていた。

「そんなんじゃ、死ねないよ」

 そう言って、女に歩み寄った。振り向いた女が驚いた目を向けた。

「無理だ、止めとけ」

 俺の言葉に、女は俯いた。スカーフをほどくと、女のコートのポケットに押し込んだ。27、8だろうか、落ちたアイラインで泣いていたことが推測できた。疲れはてたように項垂うなだれた女は、言葉を返す気力もないようだ。

「……うちでお茶でも飲みませんか」

 その言葉にも反応せず、俯いたままだった。

「人生、色々ありますよ。俺だって死にたいと思ったことがあります。俺でよければ話を聞かせてください」

 すると、女は顔を上げて、薄く微笑ほほえんだ。その目は、少しさみしそうだったが、綺麗だった。

「さあ」

 俺も口角を上げると、歩き出した。女はゆっくりとついて来た。

「コーヒーのうまいのがあるんですよ。コーヒーは好きですか」

 歩きながら振り向いた。

「……えぇ」

 女は小さく返事をした。

「スーパーで売ってる大して高くもないブレンドですが、インスタントよりは全然旨い。近くの渓流で釣りをしたり、野菜も作ってます。小さい畑ですが、食うには困らない。朝は鳥のさえずりで目が覚め、夜は星空を眺めながらとこに就く。ここに来てよかったと思ってます」

 無意識のうちに住み心地の良さをアピールして、女に関心を持たせようとしていた。

「このとしで独身ですが、独身だから冒険ができたのかもしれない。東京にいたサラリーマンの頃は恋人もいましたが、ま、結婚は縁ですからね」

 女を安心させるために大雑把おおざっぱに身分を明かした。女は終始俯いたままだった。



 家に入れると、湯を沸かした。台所から居間を覗くと、女は炬燵こたつの傍らに横座りして窓の外を眺めていた。その横顔は、憂いに満ちていた。

「さあ、どうぞ」

 蚤の市のみのいちで買ったロココ調のコーヒーカップを置いた。

「……いただきます」

 女は少し微笑むと、取っ手を持った。

「シュガーは?」

「いいえ、大丈夫です」

 女はゆっくりとカップに口をつけた。俺もマイカップに口をつけた。

「……美味しい」

「よかった」

 和らいだ表情になってくれて、俺は嬉しかった。

「秋もいいですけど、春もいいですよ。桜が咲いた後には、田畑一面に蓮華草れんげそうが咲きます」

 そう言って、窓を見た。女も窓に顔を向けた。

「……なんか、都会暮らしに疲れて。貯めた金でここを買ったんです。ご覧のとおり、古い家ですから安かったです。ま、年金が貰える歳までの貯えはあるので、のんびり生きていこうと思って」

 俺は無意識のうちに、安定した生活をアピールしていた。

「……画家さんですか」

 女は、壁に立て掛けた数枚の風景画を見ていた。

「あ、趣味で」

「お上手ですね」

「ありがとうございます。車にも置いていますが、全然売れなくて」

「何か、賞に応募されたら?」

 女は目を輝かせながら、俺を見ていた。

「えっ?」

「絶対、入賞しますわ」

 予期せぬその言葉に俺の気持ちが動いた。
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