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しおりを挟む「いい人で良かった」
傍らで横たわる澄が佐野のことを言った。
「ああ。女将さんが紹介してくれた人だ、信じて下駄を預けよう」
「……ええ」
――その頃、川上組の舎弟は良治の行方を追っていた。そして、〈酒処 勝〉にも追っ手はやって来た。
「女将。良治を見なんだか」
「よしさんかい? 最近見てないが、どうかしたかい」
「逃げやがった。本当に知らんのか」
「知らないよ。よしさんの子守りじゃあるまいし、なんで私が知ってんだい。なんなら、家中捜しておくれよ」
「……見たら知らせてくれ」
「ああ、分かったよ。ったく、どこに行っちまったんだろね。人騒がせな」
香は迷惑そうな顔をすると、板場越しに止まり木の客に酌をした。――
目を覚ました澄が憚りへ行こうと襖を開けると、座卓に味噌汁の匂いがする膳が向かい合っていた。澄から思わず笑みが溢れた。
平らげた膳を廊下に置いて暫くすると、佐野がやって来た。そして、佐野の計らいで、住居と屋台を提供してもらうことになった。
「――香さんからの頼みだ、中途半端なことはできねぇ。私と香さんとは三十年来の付き合いだ。香さんは、私の親友の嫁さんだった。あいつも短い命だったな……。あいつを亡くした地に住むのは辛いと言って、東京を離れた。あんな地の果てまで行っちまって……。とにかく、あんた達も惚れ合ってここまで逃げてきたんだ。命を粗末にしちゃいけねぇ。屋台なら、二人で食べていくには十分だ。良治さん。澄さんを泣かせちゃいけねぇよ」
その言葉に、良治は口を真一文字に結ぶと、力強く頷いた。澄も感謝の気持ちを込めて頭を下げた。――その日から、二人は借家住まいをすると、翌日からは屋台を引いた。香に教えてもらった澄のおでんはなかなか旨かった。
一方、〈酒処 勝〉には毎日のように川上組の舎弟が良治を捜しに来ていた。そんなある日、組長の金井が現れた。
「女将。何度もすまんが、良治からなんか連絡はねぇか」
「連絡があったらこっちから知らせるって、何回言ったら分かるんだい」
「あんたを信じん訳じゃねぇが、事が事だけにな。仁義に反する事は放っとけんからな。あの野郎、俺の顔に泥を塗りやがって」
憎々しい顔をした。
「組長さん。何があったか、私ゃ知らんが、良治さんはやくざには合わないよ。あの人には心があるからな」
「……どういう意味や!」
「言葉通りですよ」
「何っ! 聞き捨てならんな。心や? こっちが下手に出とったらいい気になりやがって。ほの心とやらがあるんなら、仁義を通すべきじゃねぇのか!」
「仁義だと? いいかい、組長。仁義とは義理人情、そして道徳だ。お前さんに何がある? 人情もなけりゃ、道徳もありゃしない。あるのは単に義理だけじゃないか。そんなあんたに誰がついて行くもんかね。ついて行くのは、他にめしの食い方を知らない外道だけだ」
「なんやとこらっ! 表に出やがらんかい! 」
「嫌なこった。お客さんが居るんだ、表で油を売る暇はないよ」
二人の客は止まり木の隅で小さくなっていた。
「いいか、組長。先代の組長、川上友一とは、“姐さん”“ともさん”と呼び合った仲だ。あの人には人情があった。今の義理だけの川上組にしたのは、お前さんじゃないか。いいか、よく見ろ」
香は胸元を大きく広げると、緋牡丹の刺青を見せた。金井や客らが目を丸くした。
「私が誰の女房だったか知らないわけじゃないだろ? 関東でその名を知られた鹿島健吉の女房だ」
胸元を隠した。
「てめぇら下っ端なんざ屁とも思っちゃいないよ。先代の川上友一の名を汚すような真似をするなら、知り合いを呼んで組を潰すこともできるんだ。そうしたくないから、見て見ぬ振りをしてきたんじゃないか。少しは人の気持ちも分かっておくれよ。えー、二代目」
「……」
金井は悔しそうに歯軋りをすると、拳を握った。
「分かってくれたかい。分かったら、一杯呑んでいけや」
「いや、結構や。邪魔したな。おい、行くぞ」
香を睨み付けていた二人の舎弟が金井の後を追った。
「女将さん。大丈夫け」
客の一人が心配そうな顔をした。
「なぁに、私に手出しはしないさ。そこまで莫迦じゃあるまい」
衿元を整えながら、香は長大息を漏らした。
金井の怒りは収まっていなかった。その腹いせに、良治の行方を手広く捜させた。――
人通りの多い絶好の場所を任されたのもあるが、二人の引く屋台は繁盛した。
「おう、亭主。かみさん、飛び切りの別嬪じゃねぇか。あんたも幸せもんだぜ」
客の一人が、がんもどきを頬張りながら良治を冷やかした。
「へぇ。お陰さんで、幸せもんです」
「あんたったら……」
澄が頬を紅くした。
「ハハハ……。お熱いこった。これがほんとのごちそうさまだ。勘定」
別の客がそう言って腰を上げた。
「ありがとうございます」
澄が愛想よく勘定した。
――それは、雪の降る夜だった。客が途切れたついでに、澄は近所の井戸に水を汲みに行った。良治は桶で皿を洗っていた。
「捜したぜ、良治」
聞き覚えのある声に振り向くと、川上組の子分が三人立っていた。あっと思った良治は、短刀を出そうと慌てて懐に手を入れたが、間に合わなかった。
「死ねっ!」
三腰の短刀が疾風のように良治に向かった。
「うっ……」
一瞬にして雪を赤く染めた。――
遊びに寄った佐野組の舎弟が、変わり果てた良治を見付け、急いで佐野に知らせに戻った。
井戸から戻った澄は、真っ赤に染まった雪に倒れている良治をを見て、
「あんたっ!」
叫ぶと、桶から手を離して駆け寄った。
「あんた! あんた!」
良治の体を何度も揺すった。だが、良治が応えることはなかった。澄は良治の手から短刀を取ると、
「……女将さん。私、この人に命を懸けたんです。……命を」
そう呟いて、自分の胸を思い切り刺した。
「うっ、うー……」
澄は良治に重なるように倒れた。粉雪が二人の上に降り積もっていた。
駆け付けた佐野は、その光景を目の当たりにして、
「遅かったか……」
自分を責めるかのように肩を落とした。
日本海も雪だった。店を閉めようと、香が洗い物をしていると、戸が開いた。急いで顔を上げると、笑みを浮かべた良治と澄が立っていた。
「元気だったか? よく来たな!」
出迎えようと板場を出た途端、二人の姿は消えていた。そして、戸も閉まったままだった。
……幻覚を見たのだろうか。香は狐につままれたような顔をすると、外に出てみた。だが、二人の姿はどこにもなかった。香はハッとすると、
「……会いに来てくれたんだね」
そう呟いて、音もなく降り注ぐ雪を見上げた。――
完
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