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わたし、狼になります!

第62話 黒百合《ノワレ》の騎士

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「こんなところにいらっしゃったのですか」

 夕日が森の奥にまで差し込んだ。するどいきらめきが散る。光の基因は剣だ。

 三年に一名ずつ交互に、宮廷内の臣下から、女王の近衛として白百合《ブラン》の騎士、王配の近衛として黒百合《ノワレ》の騎士が選ばれる。その栄誉とともに下賜される白と黒それぞれの勲章とサーベル。

 今上の王配殿下は──おじいさまは、もうお亡くなりになって久しいけれど。儀礼として、騎士は選ばれ続けている。
 三年前は、黒百合《ノワレ》の騎士の番だった。

 選んだのは、レディ・マール。
 王弟マール公の妃、そして友達の──友達のはずの──ユヴァンジェリンだ。

 真っ黒な軍服、目元を隠す真っ黒な仮面。ぞっとするほどきらびやかな、冷たい鋼の刃を手にした軍人が、一気に距離を狭めてくる。

 男の胸には黒百合の勲章が下がっていた。

 シェリーは後ずさった。かごが切り株から転がり落ちる。
 中に入っていた色とりどりの果物やシロップのびんがまき散らされた。

 仮面の下からのぞく男の眼は、ルロイがシェリーを見るときの人なつこい黒い瞳とはまるで違う、ぞっとする酷薄な光を帯びていた。

「お探し申し上げておりました、王女殿下」

 冷ややかな、手にした剣の放つ光と同じ、氷のような声。剣を収めようともせず、男は口を開く。

「あなたは、いったい」

 シェリーは、恐ろしさで口の中がからからになるのを感じた。舌が下あごに貼り付いたようになっている。どうして、が、ここに。

「どうして、ここに」
 シェリーは何とかして平静を装おうとした。何度も眼をしばたたかせ、動揺を押さえ込む。

「どうして、とは面妖なお言葉」

 軍人はかすかに眼を細めた。取りすまして笑う。貴族の笑い方だった。

「ずっと、お捜し申し上げておりました。醜悪なる怪物バルバロどもによって城からさらわれ、行方不明になった王女殿下の行方を、皆、今もなお必死になって探しております」
「バルバロにさらわれ──」

 何を言われているのか分からず、シェリーはおうむ返しに繰り返した。
 頭の中がまるで馬鹿になったみたいに白く固まって動かない。

 軍人はお為ごかしの薄い笑みを頬へ貼り付けたまま、大股に歩み寄ってくる。
 王女を捜していると口では言いながら、未だ無礼な剣を鞘へ収めようともしない。その鋼の色にこもる黒光りの反射。

 笑みの奥に潜んだ光が、シェリーの眼をふいに射た。
 喉の奥に詰まった恐怖が、悲鳴になってほとばしり出かける。

「王女ともあろう御方が、はしたない声などお上げになってはなりませんよ」

 はっと顔を上げる。
 男はもう、目の前にいた。黒手袋の手が伸びる。

 谷から吹き上げる突風がシェリーの髪をかき乱す。男の靴に踏みにじられた枯れ葉が、ひどく荒々しい音を立てて踏みにじられた。枯れ枝が折れる。乾いた土がざらつく。

 心臓の鼓動が怖いほど激しく早く打ち鳴らされる。息が詰まりそうだ。

 ルロイや、バルバロのみんなと一緒に過ごしている間は、それが当たり前だと思って気にも留めなかった音。気が付かなかったのだ。あまりにも当然のように、皆、静かだったから。

 森の中で、こんな乱暴な歩き方をするバルバロはいない。
 こんな音をさせるのは。

(探せ)

 あのとき、洞窟で聞いた声がふいに耳の奥にこだました。

 間違いない。
 恐怖のあまり、故意に閉ざしていた記憶が、まざまざとよみがえる。

 あのとき聞いた声。黒い仮面の下に見えた眼。

 シェリーを追って洞窟にまで入り込んできた黒い軍服の一団、その先頭にいた黒百合の紋章の男。
 名をルドベルク。

 その男が、なぜ、ここに。

 答えは、自問せずとも分かっていた。
 目の前にいるこの男が、シェリーを森へ捨てた実行犯だからだ。

「違います」
 シェリーは毅然と貴族の手を払いのけた。だが、できるのは棒のように立ち尽くすことだけだった。膝が震え、足が動かない。

 仮面の下に光る黒い目が、ぬめるように光った。嘲弄の色だった。
 背筋につめたい怖気が走る。

「お戻り頂けないならば、無理やりにお連れ申し上げるだけのこと」

 男は、ルドベルク卿は、薄い唇を嫌な形に吊り上げた。
 芝居じみた手の広げ方をし、剣の切っ先をゆらゆらと宙に泳がせる。ちらちらと反射する赤い光は、まるで夕闇の墓地に躍るかぼちゃのランタンのようだった。

「わがままな王女」
 男は仮面の下の眼を蛇のようにほそめた。苦々しく吐息をもらす。
「どうやって貴女があの森から抜け出したのか、不思議だったのです。いくら探しても死体が見つからない。がなければ──」

 ふいに声の調子が変わった。何かの屈辱を思い出したかのように頬を押さえ、食いしばった歯を軋らせて、口元をゆがめる。

「野獣とバルバロの徘徊するこの森で、武器一つ持たぬ小娘が生きてゆけるはずがない。なのに、むさぼり食われた跡もなければ骨一本すらない。血の一滴も飛び散っていない。果たしてこんなことがありえるでしょうか?」

 こざかしい問いを投げて寄越す。
 悲鳴を上げてはならない、と分かっていた。だが、声を押し殺す前に、喉の奥から恐怖の呻きが漏れた。
 シェリーは蒼ざめ、肩をこわばらせてかぶりを振った。

「わたくしは、何も知りません」
「禍根は元から断たねばならぬ、ということです」

 男は喜悦にゆがんだ笑みを浮かべてシェリーの手首を掴んだ。恐ろしい力で、ぐいと引きずり寄せられる。

「や、やめて」
 恐怖に息が詰まる。

「バルバロは野獣。けだものです。満月の夜になると人面獣心の怪物に変わる。群れで人間を襲い、赤子を引き裂いて食らう。女をさらえば気が狂うまで蹂躙し、飽きれば捨てるか食らうか、そのどちらかだと聞き及びます。貴女はいったい、どうやってそんな野獣の群れの中で生き延びたのですか?」

 喉元に、ぎらりと光る剣が押し当てられた。冷たい感触が肌に、ひた、と吸い付く。

「王女の名が、その御身が、けだものに穢されるようなことがあっては、決してならぬのです」
 総毛立つシェリーの表情が、血を吸い慣れてぬめる輝きを帯びる剣の腹にまざまざと映し出された。

「生き恥をさらすぐらいならば、いっそ──そう、お思いにはなられませんか?」
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