上 下
57 / 76
わたし、狼になります!

第57話 覚えていないなら、思い出させてあげようか

しおりを挟む
 ルロイは眼を閉じた。記憶の底からどす黒い思いがふつふつとにじみ出してくる。

 首につけられた鎖は、心と身体の双方を縛って離さぬ古傷そのものだ。薄汚い檻の奥から見上げた、無邪気な微笑み。怖いぐらいに天真爛漫な笑顔。あの笑顔がなければ、今でも人間を憎悪し続けていただろう。

 だが、もし、その笑顔が。
 偽りだったとしたら。

 あの笑顔も、愚かすぎる純粋な優しさも、餓死寸前に見た非情のまぼろしでしかなかったのだとしたら。
 本当は、あの王女も他の人間たちと同じように、バルバロの姿を見ただけで蔑みのまなざしをくれるような冷酷な女だったとしたら。

 まさか、シェリーも、本当は、他の人間たちと同じように──

「そんなことはない」
 心臓の打つ音がますます大きく、激しく、耳元近くで叩き鳴らされているように思えた。自分自身にさえ聞こえないほどの小さな声で、ルロイはうめく。すべてを押し流す濁流にも似た憎悪が、わずかに残る希望の防波堤を乗り越え、へし折ってゆく。

「何がないって?」

 シルヴィは奇妙な薄い笑みを浮かべた。腕の中の妹たちのうち、ひとりの尻尾を掴んで、ぶらんとぶら下げる。からまった毛糸の玉のようだった。
 シルヴィの手元で、狼っ子は訳も分からず、ただじたばたと、短い手足を振り回して暴れる。

「ねえさま、やめて。くるしい」
「ねえさま、ノーラをはなしてあげて」
「ねえさま、やめて。ノーラ、くるしいってゆってる」

「やめろ、シルヴィ」
 ルロイは呆然とつぶやく。

 こんな光景ならば、何度も見た──火の中に、赤く熱せられた鉄の棒が突っ込まれているのを。人間が黒百合《ノワレ》の紋章がついた焼き印の棒を手に取るのを。幼いバルバロが踏みつけられているのを。その眼が、恐怖に見開かれるのを。

「もし、本当に覚えていないなら、思い出させてあげようか」
 シルヴィの口元が、泣き顔のようにゆがむ。声が震えていた。
「……人間どもの兵士が村にやってきて母さんたちを殺し、あんたやあたしを奴隷として連れてった日のことをさ」

 肉が焼け焦げる臭い。首筋に奴隷の焼き印が捺される。記憶の中の幼いバルバロが悲鳴を上げた。


 突然。

 背後から乾いた音がした。ルロイは反射的に振り返った。どこから転がってきたものか、手提げのかごが地面を転がってゆく。ばらけて落ちた包帯が枯れ木にからまり、白く風にたなびくのが見えた。

 蒲黄の傷薬。油紙。竜血樹の樹液を混ぜた膏薬。一面にちらばっている。
 誰かの影が動いた。家の陰に身を隠し、茫然と立ちつくしていたその影は、やがて血闘を見定めに来た村の者たちの向こう側へとまぎれ込んで見えなくなった。

 ルロイは耳をそばだてた。
「何だ、今の音」
「さあね。知らない」
 シルヴィはぎごちなく目をそらす。妹たちは眼をまるくしてシルヴィを見上げた。

「ねえさま、何でそんなこというの」
「いわなくていいの?」
「なんでだまってるの?」

「お黙り。妹たち。静かにおし」
 シルヴィは尻尾を強く振って妹たちの口を塞いだ。その声は苛立って怒っているようにも、あざとく泣いているようにも聞こえた。



 ルロイは何度も家の前でうろうろとしたあと、一つ息をついて、ドアを開けた。
「ただいまー、シェリー。帰ったよ」
 つとめて明るい声を出す。だが返事はない。
 家の中は、奇妙にがらんとして、薄暗かった。寒気を帯びた隙間風が首筋を撫でる。

「シェリー」
 ルロイは足音を立てないよう、そっと部屋に入った。もしかしたらベッドで眠っているのかもしれない。そう思って寝室をのぞく。
 ベッドは空だった。シーツも乱れたまま。まるで、寝起きのままあわてて飛び出したかのようだ。
 背中がいやな風になぶられるかのようにざわついた。普段のシェリーなら、絶対にこんなだらしないことはしない。

 ごくりと唾を飲み込む。シェリーの痕跡は確かにまだ残っている。

 改めて室内を見回す。
 引き出しが乱雑に開けられていた。いろいろと中身がこぼれている。まるで何かをあわてて取り出し、そのまま閉めるのも忘れてしまったかのように見えた。何がないのか、記憶を手繰ってみる。救急箱代わりのかご。包帯、あて布、それからはさみもない。傷薬もない。

 ルロイは心臓の位置を手で押さえた。喉の奥に何かがつまったような、変な動悸がこみ上げてくる。気味の悪い汗が額ににじんだ。

 おもむろにテーブルを振り返る。エプロンが放り投げられている。さっきまでにこにこと微笑んでいたシェリーの面影が、くしゃくしゃになったエプロンと重なってぼんやりと浮かぶ。

 テーブルの上に、石盤が置いてあった。何か書いてある。
 ルロイはわずかに震える手で石盤を取った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました

Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。 順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。 特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。 そんなアメリアに対し、オスカーは… とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

運命の歯車が壊れるとき

和泉鷹央
恋愛
 戦争に行くから、君とは結婚できない。  恋人にそう告げられた時、子爵令嬢ジゼルは運命の歯車が傾いで壊れていく音を、耳にした。    他の投稿サイトでも掲載しております。

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

処理中です...