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高くつくよ、この代償はね!
「《来い》──《俺の元へ》。《どこまでも堕ちろ》」
しおりを挟むもはや、人でも、聖銀でもない。
老獪な深紅の眼をし、闇に侵蝕された憎悪の翼と、醜悪なくろがねの鱗を顔に浮かび上がらせた魔妖が、長く尖った舌をちろちろと出して、アリストラムの刻印を舐め上げた。
「魔妖……だったのか……!」
「気づくのが遅い」
かつてレオニスだった者の、蛇の狂気を宿した、絶美極まりない顔が近づく。
「聖職者に化けて人の中に紛れ込めば、愚鈍な貴様等には気づかれないと踏んだのだが、」
長い牙がむき出された。首筋が深々と噛み破られる。ぶつっ、と肉の破れる音とともに、熱い血がアリストラムの頬にいくつも奔りついた。毒が注ぎ込まれる。
黄色い毒がじゅくじゅくと泡だってこぼれる。
牙の頸木に繋がれ、アリストラムは喘いだ。
「聖銀の血は、人の中で最も《神》に近しい、半神の血族だ。人間ごときと交わらせて薄めるには惜しい。だから」
長く、おぞましく伸びた牙が、刻印の浮かび上がった鎖骨を、噛み砕かんばかりにきつく噛んでゆく。
毒で視界がかすむ。
「《来い》──《俺の元へ》。《どこまでも堕ちろ》」
血を舐めずられ、命を蝕まれてゆく。耐え難く息が乱れた。
くずおれかけた身体をぐいと押し上げられ、蛇の舌で、刻印をちろり、ちろりと舐め上げられ、すすられる。
見る間に狂おしい熱を放ちだした刻印をレオニスにつかみ取られて、アリストラムは声をつまらせた。
「《逃がさない》」
ゆがんだ声、軋む声、もはや人のものではない声が、自我を慰み物にしてゆく。
残酷な手が、アリストラムの首を鷲掴んだ。
「《お前は、俺のものだ》」
深々と突き立つ牙が、刻印を噛み砕いた。息のかすれ飛ぶような激痛に、意識が吹き飛ばされる。
「……っ……あ……!」
「《逆らうことは、許さない》」
狂気めいた残酷な高笑いが、刻印に支配され尽くした脳髄にどよめき渡る。
アリストラムは逃れようとして数歩、後ずさり、よろめいて膝をつく。
何もかもが狂って見えた。
巨大な秩序の歯車が、ぼろぼろに朽ち、砂に変わってくずれおちてゆく。
身体の中をふつふつと、血を濁らせる毒が巡り始める。
視界が偽りの灰色に塗り込まれた。
色のない世界。
心閉ざされた世界。
音もなく、ただ。
刻印の闇だけが視界をどす黒く覆ってゆく。
絶望の光。
ぼろぼろの黒い毛皮が、レオニスの足元に横たわるのが見えた。
アリストラムはふるえる手を伸ばした。
手の甲に、鉄色の鱗が浮かんでは消え、浮かんでは消えて、やがてどす黒く広がってゆく。感染している。全身が焼け付くように熱い。銀の髪が無数の子蛇に変わって、ざわざわとうねる。からみつく。
このままでは駄目だ。堕ちる。戻れない──
ふいに狼の身体が痙攣した。口元がひくりとひきつれる。
「ラウ」
アリストラムはかろうじて呻いた。
狼はうっすらと眼を開けた。
ぱた、ぱた、と尻尾が弱々しく砂を打つ。
かすんだ翡翠の瞳が、またたいた。
ゆっくりと、視線を動かしてゆく。
湖を見つめている。
耳が、ぴくりと動いた。
まるで、何かがそこにある──と。
最後の力を振り絞ってしらせるかのように。
だが、そこまでだった。狼はすべての力を使い果たし、眼を閉じた。
いったい、何を伝えようとしたのだろう。
声すら出せず、身体を動かすこともかなわず、それでも眼だけで何かを伝えようとした。
その思いの在処を。ラウが伝えようとしたものが何だったのかを。
アリストラムは顔を上げて探す。
探し続ける。
湖底にきらめく何かが見えた。
意識が、わずかに動く。
毒血に濁る眼で、光を放つ鋭い形を見つめる。
暗く青白く広がる水晶の地底湖の底に、翡翠の輝きを放つ剣が沈んでいる。
胸の奥深くにわずかな痛みが疼く。
それは、ラウが肌身離さず帯びていた剣。ゾーイの形見である、あの刀剣だった。
込められたラウの、そして、ゾーイの想い──
「ラウ」
痛みはやがて規則正しく繰り返される動悸となり、ついには激しく乱れ打つ鼓動となった。
「ラウ!」
アリストラムは声を振り絞った。
刻印の支配から身をよじって逃れ、地底湖へと分け入って山刀を掴む。
アリストラムは水際の飛沫を蹴散らして立ち止まった。
使い慣れぬ鋼の重みに、思わず息が止まる。
「ほう? まだ逆らえたとはな」
レオニスは余裕のある凶悪な笑いを片頬にかすめさせた。
「だが、もう、逃げ場はないぞ」
水辺に立ちつくしたアリストラムは、全身を濡らし、冷え切った身体から白く火照った蒸気を立ち上らせて笑った。
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