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何も終わっていない
今までも、そして、今この瞬間にも
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今のラウには、何の力もない。ただの狼だ。傷ついた、手負いの獣。
アリストラムは拳で地面を叩いた。礫が拳に突き刺さる。だが、どんな痛みも、胸を引き裂く思いを消すことなどできはしなかった。
何度、同じあやまちを繰り返せば気が済むのだろう。
死を願うことがどんなに愚かで、浅はかで、そして自分勝手な思い込みだったか。
なぜ、もっと早く気付かなかったのだろう。
何が真実で、何が嘘だったのか。本当に求めていたものは何だったのか。
今までも、そして、今この瞬間にも、それは手の届くところにあって、もしかしたら、ずっと在り続けるものであったかもしれないのに。
キイスが狼の襟首を掴んで地面になげうつ。狼の傷ついた身体が再び地面にもんどり打った。
アリストラムはよろめく足で立ち上がった。
一歩一歩、薄氷を踏みしめるようにして歩く。
狼は後ろ足で宙を掻いている。
痙攣が止まらない。
「ラウ」
アリストラムはくずおれるようにラウの傍らへとひざをつき、静かに呼びかけた。
狼は頭をもたげた。
額が割れて、血が眼に流れ込んでいる。その目が、ほっとしたような優しい形にゆるんだ。口を割り、弱々しく舌を伸ばして、差し伸べたアリストラムの手を舐める。
「傷の手当てを」
掌を血に浸して目を閉じる。温い温度が伝わった。触れた指先で癒しの呪を空書し、魔力の呼び水を与える。狼は目を閉じた。尻尾が、一回、力なく持ち上がる。
「終わったな」
キイスが傲然と近づいてくる。
「いいえ」
アリストラムは即座に否定する。
キイスがわずかに表情を変える。
「何だと」
「何も終わってはいない、と申し上げたのです」
腕の中の狼が翡翠の眼を開けた。アリストラムを見上げ、動かない身体を震わせながら、喉の奥から泡立つような唸り声をこぼす。
力なくもがきながらも立ち上がろうとする狼を、アリストラムは穏やかな掌を押し当てて制した。
「大丈夫です。落ち着いて、ラウ。じっとしていてください。傷が癒着するまで動いてはいけませんよ。伏せ、そして、待て、です」
「その身体でやる気か。いいだろう。相手してやる」
キイスは嬉しそうに含み笑った。口が耳まで裂けてゆく。鮮烈な色がのぞいた。
「そのつまらぬ勇気に免じて、心ゆくまで存分にいたぶり殺してやる」
「……殺す?」
アリストラムは口元をゆがませた。風に吹かれた枯れ草のように立ち上がる。
「言ったはずです。貴方に従うつもりはない、と」
ラウの血に濡れた拳で唇を拭う。鉄錆の味がした。
アリストラムは拳で地面を叩いた。礫が拳に突き刺さる。だが、どんな痛みも、胸を引き裂く思いを消すことなどできはしなかった。
何度、同じあやまちを繰り返せば気が済むのだろう。
死を願うことがどんなに愚かで、浅はかで、そして自分勝手な思い込みだったか。
なぜ、もっと早く気付かなかったのだろう。
何が真実で、何が嘘だったのか。本当に求めていたものは何だったのか。
今までも、そして、今この瞬間にも、それは手の届くところにあって、もしかしたら、ずっと在り続けるものであったかもしれないのに。
キイスが狼の襟首を掴んで地面になげうつ。狼の傷ついた身体が再び地面にもんどり打った。
アリストラムはよろめく足で立ち上がった。
一歩一歩、薄氷を踏みしめるようにして歩く。
狼は後ろ足で宙を掻いている。
痙攣が止まらない。
「ラウ」
アリストラムはくずおれるようにラウの傍らへとひざをつき、静かに呼びかけた。
狼は頭をもたげた。
額が割れて、血が眼に流れ込んでいる。その目が、ほっとしたような優しい形にゆるんだ。口を割り、弱々しく舌を伸ばして、差し伸べたアリストラムの手を舐める。
「傷の手当てを」
掌を血に浸して目を閉じる。温い温度が伝わった。触れた指先で癒しの呪を空書し、魔力の呼び水を与える。狼は目を閉じた。尻尾が、一回、力なく持ち上がる。
「終わったな」
キイスが傲然と近づいてくる。
「いいえ」
アリストラムは即座に否定する。
キイスがわずかに表情を変える。
「何だと」
「何も終わってはいない、と申し上げたのです」
腕の中の狼が翡翠の眼を開けた。アリストラムを見上げ、動かない身体を震わせながら、喉の奥から泡立つような唸り声をこぼす。
力なくもがきながらも立ち上がろうとする狼を、アリストラムは穏やかな掌を押し当てて制した。
「大丈夫です。落ち着いて、ラウ。じっとしていてください。傷が癒着するまで動いてはいけませんよ。伏せ、そして、待て、です」
「その身体でやる気か。いいだろう。相手してやる」
キイスは嬉しそうに含み笑った。口が耳まで裂けてゆく。鮮烈な色がのぞいた。
「そのつまらぬ勇気に免じて、心ゆくまで存分にいたぶり殺してやる」
「……殺す?」
アリストラムは口元をゆがませた。風に吹かれた枯れ草のように立ち上がる。
「言ったはずです。貴方に従うつもりはない、と」
ラウの血に濡れた拳で唇を拭う。鉄錆の味がした。
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