上 下
48 / 69
囚われのアリストラム

誰が、お前になど従うものか

しおりを挟む
 絶望の闇が目に入る。
 鎖に縛られた手。
 枷に囚われた自分の姿。
 無力にうなだれた首筋から、滂沱の血がしたたり落ち、無力についた膝の下に黒い沼を作っている。

 そんな自分の姿に──

 ふいに笑いがこみ上げた。

 てっきり、何もかも無くしたと思っていた。
 違う。
 まだ、自我が残っている。
 アリストラムは、褪めた眼を押し開いて眼前の魔妖を見やった。
 凄艶に笑い、吐き捨てる。

「……誰が、お前になど従うものか」

 キイスの拳がアリストラムの頬を襲った。さらに何度も殴りつける。身体がのけぞった。鎖が軋み、悲鳴のような音を立てる。
 血まみれの姿でぐったりと枷に身を預けるアリストラムを、キイスは憎悪にまみれた蛇の眼差しで見やった。ふと、何かに思い当たった様子でにやりと笑う。

「あの狼のガキ、ゾーイとずいぶんと似ているようだな」

 アリストラムは声を押し殺した。

「……何のことだか」
「図星か」

 なめずるような吐息をつき、キイスはアリストラムの頤をつかんだ。残忍な爪先で頬を挟み、無理やりに顔を上向かせる。黒い尻尾が、あざ笑うかのようにくねっていた。
 猛毒をたっぷり含んだ冷淡な眼がアリストラムを見下ろす。

「人の魂は脆い」
 キイスは確信を込めて笑った。
「見えるぞ、聖銀。魂を嫉妬の炎で焼き焦がす醜い素顔、その取りつくろった仮面の奥にひそんだおぞましい欲望がな」

 血塗られた爪が、無数のあざと爪傷に腫れる肌をいたずらに嬲ってゆく。

「ずいぶんと小難しい言葉を使いますね」
 アリストラムは赤黒く変色した唇を吊り上げた。血の匂いの笑いを漏らす。

「まだ抗う力があるのか。面白い」
 喜悦に満ちた眼が、アリストラムの秘め隠した過去を視姦する。キイスはアリストラムの耳元に唇を寄せ、血なまぐさい吐息を吹きかけた。
「あの狼を、《殺せ》。《何も考えるな》」

 囚われの音が響き渡った。




 四肢が病的に震えている。
 後ろ手に縛られたまま暗闇にうち捨てられた挙げ句、何日も放置されている。
 もがけばもがくほど、互いに結びあわされた鉄の鎖がさらにきつく手首と喉とを締めあげる。起きあがることもできない。
 もはや、定かな意識はなかった。骨に皮が貼り付くほど急激にやせおとろえ、絶えず漏れる呻きも混濁にのまれ、まともな言葉にすらならない。
 刻印の煮えたぎる毒に犯された人間が、理性を保っていられるはずがなかった。
 身体の中外をうごめきまわる刻印の狂気と幻覚にひきずられ、ときおり、つんざくような悲鳴を上げて。また、何処ともしれぬ暗黒へと堕ちくずれてゆく。
 絶望の彼方にほんのわずか、星くずのように瞬いては幾度となく空しく流れ去ってゆく、かすかな思い。見果てぬ悪夢に澱んだ意識の底で、ぎらぎらと妄執の色を奔らせた眼だけが、食い入るように闇の向こうを見つめ続けている。

 絶対に来てはならない誰かを、探して。

 壊れた笑いがもれる。心が、深い闇のうねりに呑み込まれていく。
 まだ、自分を嘲える。
 まだ、生きている。

 アリストラムはわずかに揺り戻ってきた意識の中でぼんやりと思いをめぐらせた。こんな辱めを受けてまで何故、生に拘るのか。どうして、死ねないのか。

 だが、胸の底で冷たく狂おしくわだかまる闇が全てを否定する。

 それができるなら、とうに命を絶っている。
 できない理由がある。
 生きなければならない。
 たとえ、何があっても、生き抜かなければならない。
 ゾーイを殺して手に入れた命。後悔と絶望の汚泥にまみれた記憶の奥底に、怨念にも近い執着が渦巻いている。

 いや、違う──
 何かが、違う。《そうではない》。

 蜘蛛の糸にも似た、今にもちぎれそうな違和感だけが、アリストラムを生の妄執に引きずり止めている。
 それが何なのか、考えようとすれば即座に刻印が意識をくわえ込んで闇へと引きずり込む。

 体中を蝕み、絡みつき、うごめき這い回る、翡翠色の闇。心臓にまで食い込む棘が、全身を束縛し続ける。

 考えるな。
 考えるな。
 《何も考えるな》。

 何が大事なのか。何を守りたいのか。何を成し遂げたいのか。何のために、誰のために、なぜ、歯を食いしばっているのか。考えてはならない──

 ふと。
 地面を跳ねる堅い金属の音が響いた。確かな足音が飛ぶように駆け寄ってくる。

 アリストラムは絶望にくすんだ顔を上げた。
 岩陰から獣の影が飛び出す。

 獣は突然広がった空間の心許なさにつんのめり、立ち止まった。
 岩を掻く爪の音が響く。

 暗闇の中、はりつめた翡翠色の双眸がぴかりと反射した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】悪女のなみだ

じじ
恋愛
「カリーナがまたカレンを泣かせてる」 双子の姉妹にも関わらず、私はいつも嫌われる側だった。 カレン、私の妹。 私とよく似た顔立ちなのに、彼女の目尻は優しげに下がり、微笑み一つで天使のようだともてはやされ、涙をこぼせば聖女のようだ崇められた。 一方の私は、切れ長の目でどう見ても性格がきつく見える。にこやかに笑ったつもりでも悪巧みをしていると謗られ、泣くと男を篭絡するつもりか、と非難された。 「ふふ。姉様って本当にかわいそう。気が弱いくせに、顔のせいで悪者になるんだもの。」 私が言い返せないのを知って、馬鹿にしてくる妹をどうすれば良かったのか。 「お前みたいな女が姉だなんてカレンがかわいそうだ」 罵ってくる男達にどう言えば真実が伝わったのか。 本当の自分を誰かに知ってもらおうなんて望みを捨てて、日々淡々と過ごしていた私を救ってくれたのは、あなただった。

ぽっちゃりな私は妹に婚約者を取られましたが、嫁ぎ先での溺愛がとまりません~冷酷な伯爵様とは誰のこと?~

柊木 ひなき
恋愛
「メリーナ、お前との婚約を破棄する!」夜会の最中に婚約者の第一王子から婚約破棄を告げられ、妹からは馬鹿にされ、貴族達の笑い者になった。 その時、思い出したのだ。(私の前世、美容部員だった!)この体型、ドレス、確かにやばい!  この世界の美の基準は、スリム体型が前提。まずはダイエットを……え、もう次の結婚? お相手は、超絶美形の伯爵様!? からの溺愛!? なんで!? ※シリアス展開もわりとあります。

何もできない王妃と言うのなら、出て行くことにします

天宮有
恋愛
国王ドスラは、王妃の私エルノアの魔法により国が守られていると信じていなかった。 側妃の発言を聞き「何もできない王妃」と言い出すようになり、私は城の人達から蔑まれてしまう。 それなら国から出て行くことにして――その後ドスラは、後悔するようになっていた。

貴方といると、お茶が不味い

わらびもち
恋愛
貴方の婚約者は私。 なのに貴方は私との逢瀬に別の女性を同伴する。 王太子殿下の婚約者である令嬢を―――。

帰らなければ良かった

jun
恋愛
ファルコン騎士団のシシリー・フォードが帰宅すると、婚約者で同じファルコン騎士団の副隊長のブライアン・ハワードが、ベッドで寝ていた…女と裸で。 傷付いたシシリーと傷付けたブライアン… 何故ブライアンは溺愛していたシシリーを裏切ったのか。 *性被害、レイプなどの言葉が出てきます。 気になる方はお避け下さい。 ・8/1 長編に変更しました。 ・8/16 本編完結しました。

【完結】婚約破棄される前に私は毒を呷って死にます!当然でしょう?私は王太子妃になるはずだったんですから。どの道、只ではすみません。

つくも茄子
恋愛
フリッツ王太子の婚約者が毒を呷った。 彼女は筆頭公爵家のアレクサンドラ・ウジェーヌ・ヘッセン。 なぜ、彼女は毒を自ら飲み干したのか? それは婚約者のフリッツ王太子からの婚約破棄が原因であった。 恋人の男爵令嬢を正妃にするためにアレクサンドラを罠に嵌めようとしたのだ。 その中の一人は、アレクサンドラの実弟もいた。 更に宰相の息子と近衛騎士団長の嫡男も、王太子と男爵令嬢の味方であった。 婚約者として王家の全てを知るアレクサンドラは、このまま婚約破棄が成立されればどうなるのかを知っていた。そして自分がどういう立場なのかも痛いほど理解していたのだ。 生死の境から生還したアレクサンドラが目を覚ました時には、全てが様変わりしていた。国の将来のため、必要な処置であった。 婚約破棄を宣言した王太子達のその後は、彼らが思い描いていたバラ色の人生ではなかった。 後悔、悲しみ、憎悪、果てしない負の連鎖の果てに、彼らが手にしたものとは。 「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルバ」にも投稿しています。

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

【完結】王女様がお好きなら、邪魔者のわたしは要らないですか?

曽根原ツタ
恋愛
「クラウス様、あなたのことがお嫌いなんですって」 エルヴィアナと婚約者クラウスの仲はうまくいっていない。 最近、王女が一緒にいるのをよく見かけるようになったと思えば、とあるパーティーで王女から婚約者の本音を告げ口され、別れを決意する。更に、彼女とクラウスは想い合っているとか。 (王女様がお好きなら、邪魔者のわたしは身を引くとしましょう。クラウス様) しかし。破局寸前で想定外の事件が起き、エルヴィアナのことが嫌いなはずの彼の態度が豹変して……? 小説家になろう様でも更新中

処理中です...