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刻印を抑える唯一の方法
「もうすぐ、わたしと同じようにアリストラムさまも──壊れるわ」
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ラウはもう一度かぶりを振って、不安まじりの苦い思いを振り払った。
傍らの剣を掴んで立ち上がる。
尻尾をぱたぱたと器用に振って、服のお尻に着いた石ころを払い落とす。
おなかが、ぐうう、と鳴った。
魔力が絶対的に足りていないのだ。ラウはおなかを押さえた。
「おなかすいた……」
でも、もうこれ以上アリストラムに無理をさせるわけにはゆかなかった。今、アリストラムの傍にいたら、また──
アリストラムを苦しめてしまう。
魔妖の食欲を満たせるほど、今のアリストラムに魔力が残っているとは思えない。
極限まで魔力を失ってしまえば、また目を覚ませないほどの昏睡状態に陥ってしまうだろう。
ふと、嫌な空気が吹き寄せた。
背筋を逆撫でされたような感覚が走り抜ける。
悪意とも無力感ともつかぬ、粘りけを帯びた視線が、背後からラウを見つめていた。
背中の毛が、逆立つ。
ラウは息を吐いた。耳をぴくりと後ろに回し、おもむろに振り返る。
凄艶な月光を後ろに背負ったミシアが立っていた。
「ごきげんよう、ラウさま」
レースの手袋をはめた両手を楚々と結び合わせ、ぴたりとエナメルの靴の先を揃えて。
さながら主人の命令を待つオルゴール人形のように立ちつくしている。
ラウは息をするのも忘れて、まじまじとミシアを見つめた。
濡れたように光る黒髪。風に舞い立てられ、そよぐスカート。
ミシアの足元から、するどくよじれた細い黒い影が一直線に伸びている。
手には、ナイフを持っている。表情の欠けた顔はぞっとするほど青白かった。
「お待ち申し上げておりました」
刃に映し出されたミシアの黒い瞳は何の感情もなく、ラウの眼前に立っていながら何一つ見てはいなかった。アリストラムと同じ眼だ。
完全に支配され尽くした眼。
「ここで死んでくださいませ」
ミシアは偽りの笑みを浮かべた。
銀のナイフを両手に握りしめ、一歩ずつ、前へと歩み出てくる。
「いくらミシアのお願いでも、そればっかりは叶えてあげるわけにはいかないな」
ラウは背後へと目を走らせた。ここは断崖絶壁。戦うには足場が悪すぎる。自分はともかく、ミシアの命が危ない。
体勢をずらす。足下の土が焦りの音を立てた。ここはまずい。何とかして場所を変えなければ。
ラウの意図に気づいたか、ミシアが駆け寄ってきた。
ぎごちなく構えたナイフを、棒のように腕ごと繰り出す。
のろ過ぎる動きだった。
ラウは難無く横に飛んでかわす。このまま逃げてしまえば、きっとミシアも後を追ってくる。とっさにそう判断し、身を翻して坂道を駆け下りようとしたとき。
「きゃっ」
悲鳴が聞こえた。
ラウはぎくりとして振り返った。
ミシアは誰もいない絶壁の端で足をくじかせていた。
身体が大きく、崖側へとふらつく。
「何やってんの。危ないだろ」
罠かもしれない。
そんな刹那の判断すら、頭からすっ飛んでいた。
ラウはミシアの元へと駆け戻った。ミシアの腕を掴んで、安全な場所まで引き戻す。
「ミシア、そのナイフをこっちへ渡して」
ラウは手を差し出した。ミシアは目を大きく見開いて、こわばった青白い顔をラウへと向けた。
「ラウさま……わたし、どうして、こんなところに?」
おびえた風なミシアのしゃべり方に、ラウはつい、ほっと気を許して笑いかけて見せた。
「良かった、目が覚めたんだ。いきなり後ろから来るからびっくりしたよ。でも、もう大丈夫。ナイフを渡して。アリスのところへ行こう。治療してもら……」
突如、目の前を銀の細い光が薙ぎ払った。
焼けつく痛みが肩に走る。
ラウは息を呑み、よろめいた。
肩の傷からひとすじ、ふたすじ。血の焼けるほろ苦い煙が上がっている。
普通のナイフではない。聖銀の祝福がかかった刃だ。
ラウは傷の上から肩を押さえた。
指の合間から血が滲み出す。
止まらない。
「ラウさま。貴女をお連れするのは、アリストラムさまのところではありませんわ」
ミシアは仮面のように微笑んだ。
「わがあるじ、レオニスさまのところです」
ミシアの手に握られた銀のナイフは、ラウの血に濡れて黒くてらてらと光っていた。
聖なる刃の祝福は、魔妖にとっては神の一撃に等しい。ラウは舌打ちした。
「眼を覚ませ、ミシア。刻印なんかに支配されちゃだめだ」
ミシアは暗い眼でラウを見やった。
「支配、ですって」
嘲笑の目だった。
「貴女は、魔妖のくせに、刻印がどれほどたやすく人間の心を壊してしまうのかご存じないのね」
言葉が胸に突き刺さる。
「心を……壊す?」
思いも寄らない反撃に、ラウはうろたえた。
「そうよ」
ミシアの笑みがうつろに深まってゆく。
「わたしに刻印をつけたのはキイスさまです。アリストラムさまの仰ったとおりよ。初めて逢ったときは、もちろんすごく怖くて……最初は、殺されるかと思ったけど、でも、あの方はわたしに優しくしてくださいました。口ぶりは乱暴でしたけれども、何度も逢って……話をしているうちに……」
ミシアはゆっくりと深呼吸した。
眼を閉じ、大きく襟ぐりの開いた胸元に手を入れて、清楚なフリルの影に隠れていた乳房ごと刻印を揺すり出す。
「気が付いたら、わたしはあの方のものにされていた」
ほんのりと欲情の色に染まった乳房が、暗黒の花に彩られはじめる。《お前は、俺の物だ》。《俺の命令を聞け》。《俺の言うとおりにしろ》。
ミシアの身体を、心臓を、全身を拘束する言葉の刺が、肌の上を這い回り、絡みつき、縛り上げてゆく。
「でも、知らなかったの」
ミシアは扇情的に身体をくねらせた。スカートの裾を掴んで、ゆっくりとめくりあげてゆく。
「《刻印は人間を家畜にする》」
「やめて、ミシア」
ラウは声をつまらせた。とっさに眼をそらす。
ミシアは病的な仕草で、赤いくちびるをねっとりと舐めた。
スカートの下は、ナイフの鞘を挟んだ薄いガーターストッキングだけ。他には何も身につけていない。ミシアは、ナイフを鞘へとしまい、半裸に近い姿を月に晒したまま、ぞっとする微笑をうかべた。
「刻印が発動したら、ね? こんなふうに、媚びを売って」
ラウはミシアの鬼気迫る様子に、身体を凍り付かせる。
「《支配》してもらわないと、生きていけなくなるの」
ミシアは、逃れようとするラウを追った。
一歩、また、一歩。
偽りの笑みにいろどられた顔が、妖艶なかぎろいを匂い立たせながら、蒼白に染め上げられてゆく。
「もうすぐ、わたしと同じようにアリストラムさまも──壊れるわ」
傍らの剣を掴んで立ち上がる。
尻尾をぱたぱたと器用に振って、服のお尻に着いた石ころを払い落とす。
おなかが、ぐうう、と鳴った。
魔力が絶対的に足りていないのだ。ラウはおなかを押さえた。
「おなかすいた……」
でも、もうこれ以上アリストラムに無理をさせるわけにはゆかなかった。今、アリストラムの傍にいたら、また──
アリストラムを苦しめてしまう。
魔妖の食欲を満たせるほど、今のアリストラムに魔力が残っているとは思えない。
極限まで魔力を失ってしまえば、また目を覚ませないほどの昏睡状態に陥ってしまうだろう。
ふと、嫌な空気が吹き寄せた。
背筋を逆撫でされたような感覚が走り抜ける。
悪意とも無力感ともつかぬ、粘りけを帯びた視線が、背後からラウを見つめていた。
背中の毛が、逆立つ。
ラウは息を吐いた。耳をぴくりと後ろに回し、おもむろに振り返る。
凄艶な月光を後ろに背負ったミシアが立っていた。
「ごきげんよう、ラウさま」
レースの手袋をはめた両手を楚々と結び合わせ、ぴたりとエナメルの靴の先を揃えて。
さながら主人の命令を待つオルゴール人形のように立ちつくしている。
ラウは息をするのも忘れて、まじまじとミシアを見つめた。
濡れたように光る黒髪。風に舞い立てられ、そよぐスカート。
ミシアの足元から、するどくよじれた細い黒い影が一直線に伸びている。
手には、ナイフを持っている。表情の欠けた顔はぞっとするほど青白かった。
「お待ち申し上げておりました」
刃に映し出されたミシアの黒い瞳は何の感情もなく、ラウの眼前に立っていながら何一つ見てはいなかった。アリストラムと同じ眼だ。
完全に支配され尽くした眼。
「ここで死んでくださいませ」
ミシアは偽りの笑みを浮かべた。
銀のナイフを両手に握りしめ、一歩ずつ、前へと歩み出てくる。
「いくらミシアのお願いでも、そればっかりは叶えてあげるわけにはいかないな」
ラウは背後へと目を走らせた。ここは断崖絶壁。戦うには足場が悪すぎる。自分はともかく、ミシアの命が危ない。
体勢をずらす。足下の土が焦りの音を立てた。ここはまずい。何とかして場所を変えなければ。
ラウの意図に気づいたか、ミシアが駆け寄ってきた。
ぎごちなく構えたナイフを、棒のように腕ごと繰り出す。
のろ過ぎる動きだった。
ラウは難無く横に飛んでかわす。このまま逃げてしまえば、きっとミシアも後を追ってくる。とっさにそう判断し、身を翻して坂道を駆け下りようとしたとき。
「きゃっ」
悲鳴が聞こえた。
ラウはぎくりとして振り返った。
ミシアは誰もいない絶壁の端で足をくじかせていた。
身体が大きく、崖側へとふらつく。
「何やってんの。危ないだろ」
罠かもしれない。
そんな刹那の判断すら、頭からすっ飛んでいた。
ラウはミシアの元へと駆け戻った。ミシアの腕を掴んで、安全な場所まで引き戻す。
「ミシア、そのナイフをこっちへ渡して」
ラウは手を差し出した。ミシアは目を大きく見開いて、こわばった青白い顔をラウへと向けた。
「ラウさま……わたし、どうして、こんなところに?」
おびえた風なミシアのしゃべり方に、ラウはつい、ほっと気を許して笑いかけて見せた。
「良かった、目が覚めたんだ。いきなり後ろから来るからびっくりしたよ。でも、もう大丈夫。ナイフを渡して。アリスのところへ行こう。治療してもら……」
突如、目の前を銀の細い光が薙ぎ払った。
焼けつく痛みが肩に走る。
ラウは息を呑み、よろめいた。
肩の傷からひとすじ、ふたすじ。血の焼けるほろ苦い煙が上がっている。
普通のナイフではない。聖銀の祝福がかかった刃だ。
ラウは傷の上から肩を押さえた。
指の合間から血が滲み出す。
止まらない。
「ラウさま。貴女をお連れするのは、アリストラムさまのところではありませんわ」
ミシアは仮面のように微笑んだ。
「わがあるじ、レオニスさまのところです」
ミシアの手に握られた銀のナイフは、ラウの血に濡れて黒くてらてらと光っていた。
聖なる刃の祝福は、魔妖にとっては神の一撃に等しい。ラウは舌打ちした。
「眼を覚ませ、ミシア。刻印なんかに支配されちゃだめだ」
ミシアは暗い眼でラウを見やった。
「支配、ですって」
嘲笑の目だった。
「貴女は、魔妖のくせに、刻印がどれほどたやすく人間の心を壊してしまうのかご存じないのね」
言葉が胸に突き刺さる。
「心を……壊す?」
思いも寄らない反撃に、ラウはうろたえた。
「そうよ」
ミシアの笑みがうつろに深まってゆく。
「わたしに刻印をつけたのはキイスさまです。アリストラムさまの仰ったとおりよ。初めて逢ったときは、もちろんすごく怖くて……最初は、殺されるかと思ったけど、でも、あの方はわたしに優しくしてくださいました。口ぶりは乱暴でしたけれども、何度も逢って……話をしているうちに……」
ミシアはゆっくりと深呼吸した。
眼を閉じ、大きく襟ぐりの開いた胸元に手を入れて、清楚なフリルの影に隠れていた乳房ごと刻印を揺すり出す。
「気が付いたら、わたしはあの方のものにされていた」
ほんのりと欲情の色に染まった乳房が、暗黒の花に彩られはじめる。《お前は、俺の物だ》。《俺の命令を聞け》。《俺の言うとおりにしろ》。
ミシアの身体を、心臓を、全身を拘束する言葉の刺が、肌の上を這い回り、絡みつき、縛り上げてゆく。
「でも、知らなかったの」
ミシアは扇情的に身体をくねらせた。スカートの裾を掴んで、ゆっくりとめくりあげてゆく。
「《刻印は人間を家畜にする》」
「やめて、ミシア」
ラウは声をつまらせた。とっさに眼をそらす。
ミシアは病的な仕草で、赤いくちびるをねっとりと舐めた。
スカートの下は、ナイフの鞘を挟んだ薄いガーターストッキングだけ。他には何も身につけていない。ミシアは、ナイフを鞘へとしまい、半裸に近い姿を月に晒したまま、ぞっとする微笑をうかべた。
「刻印が発動したら、ね? こんなふうに、媚びを売って」
ラウはミシアの鬼気迫る様子に、身体を凍り付かせる。
「《支配》してもらわないと、生きていけなくなるの」
ミシアは、逃れようとするラウを追った。
一歩、また、一歩。
偽りの笑みにいろどられた顔が、妖艶なかぎろいを匂い立たせながら、蒼白に染め上げられてゆく。
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