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二章 入学旅行二日目

2-21   チェカに何が起きたのか――『クク・アキ』最新刊

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 霧の震える指先が、8巻のページをめくる。
 フルカラーの口絵では、チェカが3冊の『竜辞典』を腕に抱え、驚愕の表情で襲撃者がいると思われる方向を見ている。
 霧は更にページをめくり、集中して読み始めた。

 8巻のチェカは33歳。アデルの13歳の誕生日を祝うシーンから始まっている。この物語が、チェカの現実の人生に沿って書かれていると考えると、この8巻はおよそ3年と半年前のことになる。
 チェカは13歳になったアデルに『魔法士学園準備校』に行くことを勧めるが、その学校は全寮制のため、アデルは行くのを渋っている。チェカはアデルに無理強いをせず、その気になればいつでも準備校に入学できるからと告げ、二人は誕生日の豪華な晩餐を楽しんだ。

 霧はどんどん読み進めた。

 辞典魔法士たちの会合や、学園の教師陣との会話シーン。とりとめのない日常会話の中に、最近のククリコ・アーキペラゴに起きている異変が散らばっている。
 辞典魔法士たちの、謎の失踪。
 王政復古派の、不穏な動き。
 そして女子の出生率が年々低下の一途を辿っている懸案。

(この8巻の時点で、新生児の割合が男子7対女子3……。確かにこれはまずいな。しかも年々女子の出生率が低下してるっていうことは、8巻から3年後の今は、もっと女の子が生まれる確率が落ちているというわけだよね……。う~ん、なんで? どしてそうなった? 世界を牛耳ろうとする王政復古派のしわざなのか? わざと世の中を混乱させて、自分たちが覇権を得る足がかりにするつもり……とか? だとしたら、どうやって男女の出生率をコントロールしてるの? う~ん、わからん! わからんということが、わかったわ!)

 霧は投げやりにそう思いながら、頭の中でククリコ・アーキペラゴの過去をおさらいする。
 1540年より前。それは、当時の辞典魔法士にとっては耐え難い苦痛に満ちた時代。圧政者に虐げられた多くの人々にとっても、苦難の歴史だ。
 その昔、この世界にはいくつかの大陸と多くの国があり、人々は王の支配の元、不自由な生活を強いられていた。辞典魔法は特別な秘術と位置付けられ、王侯貴族のみが使用権利を独占していた。王侯貴族は辞典魔法士を奴隷として所有し、他国との戦争の際、彼らを使い捨ての武器同然に扱い、その多くを理不尽な命令で死なせたと伝わっている。

(そういえば、学園が保管してる貴重な古書、『ダリアの手記』を読んだチェカが、驚愕するエピソードが何巻かにあったな……。結構、ショッキングな内容だった。辞典魔法士の才能のある者に無理やり子供を産ませて、赤子のうちから洗脳したり……、大量殺人を命じた国王からのむごい命令に従わなかっ辞典魔法士を、見せしめのために拷問して殺したり……。この頃の『辞典』は今の『辞典』と違って、まるで制限のかかっていない最強兵器だったから……それを使った世界大戦は、世界をめちゃくちゃにしたとか……)

 今の『辞典』には人々を守るために様々な制限がかかっているが、この頃の『辞典』は兵器として利用されていたので、簡単に人を殺すことができた。
 やがて勃発ぼっぱつした世界大戦では、大地は焦土と化し、多くの辞典魔法士が無念の死を遂げたという。
 そこに立ち上がったのが、救済者ダリアと、ソイフラージュを中心とした辞典魔法士たちだ。彼らは各国の王を殺し、その居城の一つを空に浮かばせ、不可侵の拠点から戦った末、悲願の自由を勝ち取った。その際、敵に操られた悲劇の辞典魔法士が『ギデオンの鉄槌』という未曽有の災厄を引き起こし、多くの人の犠牲と共に大陸はバラバラになり、今の多島海世界アーキペラゴができあがった。
 そして災い転じて福となす。王政の完全解体と権力者の横暴を払拭したダリアたちは、新しい『辞典』の仕組みを取り入れ、それに伴い通貨システムを根絶し、理不尽な労働というくびきから人々を解放した。
 『辞典』のもたらした革新的な新制度は、あらゆる差別と格差を極限までなくすことに成功し、以来人々は平和で幸福な人生を送る権利を有し、今に至る。

(あたしはこれが物語フィクションだと思ってたから、ククリコ・アーキペラゴという理想郷の実現にすげぇ~っ、いいなぁ、って思ってたけど……現実にその世界にいる今……ほんと、この世界って奇跡の具現だよなぁ……)

 霧はしみじみと、そう思った。
 現在のククリコ・アーキペラゴには、いわゆるベーシックインカムが整っている。
 住居は誰にでも提供してもらえるし、衣食に関しても『辞典』さえあれば十分な量が手に入る。つまり、働かない、を選択して生きることも可能なのだ。労働が義務という日本で暮らしていた霧にとっては、まさに理想郷。
 もし現代日本でその制度を取り入れたら、労働に疲れた多くの人は働くのをやめ、社会機能が停止するだろう。しかし、このククリコ・アーキペラゴではほとんどの大人が働くことを選択し、極めて円滑に制度が運営されている。

 ククリコ・アーキペラゴが理想郷とも言える現在の制度を成功させたのは、霧の暮らしていた日本や世界の在り方と、何もかもがかけ離れているからだ、と霧は思う。

 両者の違いとは、まず、この世界には国の別が無い点。
 そして日本社会と比べると、その仕組みが大きくかけ離れている点。『辞典』を中心とした仕組みが、その核となる。
 そして何より、人々の幸福度が極めて高く、人々の意識が社会への貢献を己の誇りとしている点、などだ。
 もちろん、それだけではない。
 『辞典』があれば生きていく上では何も困らないが、何でも欲しいものが際限なく手に入るわけではなく、購入できる物や量には制限がかかっているのだ。特に、優れた芸術品や高度な技術を用いて作られた製品、誰もが欲しがるような1点物の品や貴重なサービスなどは、入手条件が厳しく、高い規制が設定されている。
 そららの制限は、社会貢献をすればその働きに応じて段階的に外される。
 つまり無職でも十分暮らしていけるが、働けば世に出回る流通品やサービスの入手枠が広がり、より豊かに暮らしていける仕組みになっているのだ。
 そのため、ほとんどの大人が何らかの職業に就くことを希望する。
 そしてその選択肢は、かなり広く豊富だ。職にあぶれる、ということはほぼ無い。

(その理想郷に、今いるんだよねぇ……ほんと、奇跡だよなぁ……)

 奇跡、としか形容できない現状との対比として、自分の忌まわしい過去がせりあがってくる。

 日本での霧の暮らしは、ひどいものだった。

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