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3章

18. 虹の橋

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 ――どこかで、水の滴る音がする。

 それは、雨音だった。

「ああ……降ってきてしまった……予報では15時くらいからだったのに……」

 蕾は、いつもの昼食場所――本棟の屋上駐車場への扉を開け、外を覗いて溜息をついた。降り始めたばかりの雨が、辺りを濡らしてゆく。
 屋上には屋根がないため、どこか屋内で弁当を食べるしかない。そう思って憂鬱になっていると、いつもの片隅に人影が佇んでいるのが見えた。

(あれ……千宮司さんだ。雨降ってきたのに……どうしたんだろう)

 メモを拾ってもらってから、蕾は千宮司と言葉を交わすことが多くなった。と言っても、全部千宮司から声をかけてくるので、それに二言三言返事をする程度だったが。彼に慣れてきたとはいえ、まだ自分から声をかけるなど恐ろしいことはできない。蕾は彼を見なかったことにして、どこか屋内で一人になれるところを探しに行こうとした。そしてふと、思い出す。

(そういえば……千宮司さん、ここのところずっと元気なかった……飼っているが調子悪いって言ってたな……)

 何となく、気にかかった。
 蕾は、家族同然だった愛猫との死別を経験している。もし千宮司がその苦しみと闘っているなら、無視してはいけないような気がした。

 蕾は鞄の中から携帯用の折りたたみ傘を取り出し、開いた。そしてゆっくり千宮司に近づいていく。そうしながらも、時々足が止まる。自分から声をかけに行くなど正気の沙汰ではない、今すぐ回れ右をするべきだ、という思いが胸中を渦巻く。それと同時に、どうしても千宮司の様子が気になり、彼に声をかけるべきだ、という使命感が募ってゆく。
 蕾は勇気を振り絞り、腕を最大限まで上に伸ばして千宮司の背中に傘を差しだしながら言った。

「ああああああ、雨、降ってきましたよ?」

 千宮司が振り向く。蕾の心臓は鳴り響くドラム状態だったが――それが一瞬止まった。彼が、泣いていたから。

「ごめっ、ごめんなさっ!」

 蕾は慌ててその場から去ろうとしたが、千宮司に引き留められた。彼の手は大きく、傘を握る蕾の手をすっぽりと包んでいる。男性に手を握られるなど蕾にとってはこの世の終わり、今すぐ昇天レベルだったが、千宮司の悲痛な表情と声に現世に留め置かれた。

「木下さん、教えてくれ。どうしたらこの苦痛から逃れられる? 今すぐ、今すぐ逃れたい。仕事も手につかない。何をしていても思い出してしまう。もう耐えられない」

 ――やっぱり、ワンちゃん旅立ってしまったんだ……。

 それを知った途端、蕾の目に涙が溢れた。愛猫の死に直面したときの記憶が甦り、千宮司の苦しみとリンクする。彼の苦しみが手に取るように感じられた。これだけは、経験した人にしか分からない。「たかがペットの死だろ」という人には、絶対分からない。そう言う人は、愛したことがないのだ。人に寄り添い多くを与えてくれる、かけがえのない小さな生き物を、深く愛したことがないのだ。
 愛した分だけ、より深く激しくなる、その臓腑ぞうふえぐるような苦しみと悲しみ――その嵐の只中にいる千宮司に、蕾は辛いことを告げなければいけない。

「ないです。今すぐ苦痛から逃れる方法、ないです。効くのは“日にち薬”だけ。私の場合は、毎日泣かなくなるのに3か月かかりました。そして1年後には、涙なしに思い出を振り返ることもできるようになりました」

「3カ月……1年……。嫌だ、そんなに待てない」

「その子を深く愛した証拠です。千宮司さん、その子を愛さない方が良かったですか? 出会わない方が良かったですか? その子との日々が、無かった方が良かったですか?」

「それも嫌だ。あいつには俺が死ぬまで生きていて欲しかった。死ぬなら同時が良かった」

 蕾は頷いて、千宮司の嗚咽を聞きながら言った。

「虹の橋……って、知ってますか?」

「知らない。なに、それ」

「一種の伝説です。作者不明の有名な詩があるんですよ。
 虹の橋は、天国の少し手前にかかっていて……人に寄り添って暮らしていた動物たちは、命の灯が消えたのち、虹の橋のふもとに辿り着くそうです。そこはとても素敵な場所で、動物たちはみんな元気いっぱい楽しく暮らしているそうです。病や怪我はすっかり癒され、老いていた子もすっかり元気になって。
 でもその子たちには一つだけ気がかりなことがあって……かつて一緒に暮らしていた、自分を愛してくれた人が、傍にいないことが寂しくて、恋しくてたまらないんです。だからその子たちは、その場所で待ってるんです。その人が、やがて虹の橋に辿り着くまで。一緒に虹の橋を渡るために。
 そのときが来て、その人の姿が見えたなら、その子は一目散に駆けて行く。想像してみてください、目をキラキラ輝かせて、自分に向かって全速力で駆けてくるその子の姿を。千宮司さんの腕の中に飛び込んできて、尻尾をちぎれんばかりに振って、顔を舐め回ってくる、その子の姿を」

 千宮司は顔をぐちゃぐちゃにして、泣き崩れた。
 蕾はもらい泣きしながら、言葉を続ける。

「虹の橋で、また会えます。千宮司さん、それまで私たちは、一生懸命生きなきゃいけないそうです。私はあの子ともう一度会えるなら、今すぐ死んでもいいと思いましたが……多分、そうしちゃいけない。亡くした子は、それを望んでいない。その子たちは、愛する人が一生懸命生きて自分の元に帰って来るのを待っているんです。
 だから今は、泣くしかないです。苦しむしかないです。いつか会えるその日まで」

「そうか……ないのか。今すぐこの苦しみから逃れる方法は、ないのか」

「ないです。諦めて、涙が枯れるまで泣いてください」

 千宮司と一緒に泣きながら、蕾はポケットティッシュを鞄から2つ取り出し、ひとつを千宮司に差し出した。千宮司はそれを受け取って鼻をかみながら、真っ赤になった目と鼻で恥ずかしそうに笑い、言った。

「みんな、俺に言うんだ。“元気出してください” “いつまでも悲しんでるものじゃない” “たかがペットが死んだくらいでどうしたんだ、おまえおかしいんじゃないか”
 でも、君は違うんだな。俺を責めたり、上っ面だけの中途半端な慰めなんか言わず、俺にどんどん悲しめと言うんだな。この苦しみを甘受しろと、言うんだな」

「はい。私、泣くのに付き合います。あっ……迷惑ですね、ごごごごご、ごめんなさい!!」

 その場から立ち去ろうとした蕾の手を、千宮司は再び強く握りしめて叫んだ。

「付き合ってくれ。頼む、付き合ってくれ!」

「はい、じゃあ泣きましょう! ポケットティッシュ、まだいっぱいありますよ!」

「そうじゃなくて、いや、それもなんだけど、俺と付き合って欲しいんだ!」

「はい! いっぱい泣きましょう!!」

 相合傘をしていることも忘れ、空腹であることも忘れ、蕾は愛猫を思い出して号泣し始めた。最期の瞬間を思い出すと、今でも心が激しく揺さぶられる。千宮司がしつこく「付き合ってくれ」を連呼しているが、その真意に気付くほどの恋愛経験値など、蕾には無かった。
 
 ――雨が、強くなってゆく。

 まるで水に、包まれているみたいだ。
 
 水――そうだ、私、泉に落ちた、とローズは意識がゆるゆると浮上してゆくのを感じた。
 過去の夢から引きはがされ、蕾の記憶が徐々に遠のいてゆく。
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