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1章

7. 落ち込み令嬢

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 退屈だ。とにかく退屈だ。
 広々とした屋敷内の書斎、うず高く積もれた本に埋もれるように座って読書をしていたローズは、あくびを噛み殺した。
 既にどの書物も目を通し、内容は頭に入っている。

 この世界に生まれ変わり授かったこの体は、前世の体とはまるで違い、美しい容貌はさることながら頭脳の出来栄えも並外れて秀逸だ。一度見聞きした事柄はたいてい一度で覚え、忘れることがほとんどない。「蕾」だった前世の自分とは大違いだ、とローズはしみじみ思う。「蕾」は記憶力が悪く、必要なことを覚えるためにいつも人の何倍も努力していた。それでも、記憶はボロボロと抜け落ちてゆく。
 辛かった前世を思い出し気持ちが落ち込んできたローズは、切り替えるために頭を振って伸びをした。

 「引きこもり大作戦」を始めて2週間。ローズはすでにを上げそうだった。
 もしこれを一生続けなければならないとしたら――ローズはゾッと背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「いいえ、一生は続かないわ。ええ、そう、一生は。シャーロットが無事に誰か恋愛対象の一人と結婚するまで、それまで耐えればきっと……」

 そう自分に言い聞かせていたとき、ローズに付き合って傍で本を読んでいたニルとカナが不思議そうにローズを見つめた。ローズはハッとして、ぎこちない笑顔を双子に向けて言った。

「何でもないの、何でもないのよ、ほほほ……」

 双子の姉妹は顔を見合わせたのち、こくりと頷き合ってローズに再び視線を戻して言った。

「あのぅ……ローズ様」
「少しおしゃべりしても、構いませんか?」

「もちろん。どうしたの?」

 どうやら双子はローズの集中が途切れるのを待っていたらしい。この二人は空気を読み他人の心中を察するのが得意なのだ。

「カレンが……そのぅ……ローズ様にお伝えしたいことがあるようなのです」
「でも言い出せず……差し出たことを申し上げて恐縮ですが……」
「お時間のあるときに、さりげなくカレンに話を振っていただけないでしょうか」

 互いに語尾を引き取って流れるように話す。いつもの双子のしゃべり方に耳を傾け、ローズはにっこり笑いながら「よくてよ。さっそく後で聞いてみるわ」と快諾した。
 それを見て双子は、嬉しそうに顔を見合わせた。
 伝えたいことって何かしら、とローズは双子に訊いてみたが双子は「私たちからは言えません。でも重要なことなのです」と言うばかり。ローズは諦めてカレンから直接訊くまで疑問をしまっておくことにした。

 その夜。ローズはカレンの助けを借りて、ディナーのためのドレスアップをしていた。貴族は家族と夕飯の席に座るだけでも、相応しい服装に着替えておしゃれしなくてはならない。面倒くさいがおしゃれ自体は嫌いではないため、ローズは何を着ても似合う鏡の中の自分を見て満足の微笑を浮かべた。
 そしてすっかり支度が整う頃、ローズはカレンに声をかけた。

「ねえカレン、何か私に伝えたいことがあるのではなくて?」

 カレンがハッとして息を呑む。

「お嬢様……どこからか、お聞き及びに?」

 聞き及ぶ? 何のことだろう? ローズは分からなかったが、知っているようなそぶりで話しを続けた。

「私、あなたの口から聞きたいと思っているの。ねえカレン、私、あなたにはとても感謝しているのよ。小さい頃からよく尽くしてくれたわね。……私が、とてもわがままなときもあったのに、よく我慢してくれたわ。本当の姉のように、私を諫めてくれたこともあったわね。とても勇気のいる尊い行いだったわ。カレン、いつも私に良くしてくれてありがとう」

「お嬢様…………っ!」

 カレンは目に涙を溜めて震えている。そして一つ深呼吸すると、はにかみながら言った。

「お嬢様、実は私、ロバートにプロポーズされたのです。それで……それで、承諾しました。お嬢様、結婚の許可をいただけますか」

「!!」

 ロバートとは、フィッツジェラルド家に使える従僕だ。確かカレンより10ほど年上のはずだが、とても気立てが良く、シュリほどではないが背が高く外見も良い。気転の利く働き者で、フィッツジェラルド家の執事が将来は自分の後を継がせるために教育していると聞く。そう、いつだったか二人が恋仲だと、誰かが言っていたではないか。
 ああ、そうなのね――と、ローズは思い至った。
 カレンは家に引きこもって何かに激しく落ち込んでいる私の様子を見て、今まで言い出せなかったのだ。きっと私の社交界デビューが済んだらすぐに言うつもりだったのだろう。

「まあ……っ、カレン、おめでとう!!」

 ローズは椅子から立ち上がると、カレンを抱擁した。

「ありがとうございます、お嬢様」

 カレンの目から涙が零れる。その幸せな輝きにローズの胸がチクンと痛んだが、彼女はその痛みを無視しながら晴れやかに笑い、ウキウキとした口調でカレンに言った。

「お父様にはロバートから話があるでしょうが、私からも話しておくわね。結婚式はいつ? お祝いに何を贈ろうかしら! しばらくは、私の侍女を務めてくれるの? ああ、どうしましょう、あなたのいない日々に耐えられるかしら、私!」

 カレンはすぐさま、許されるならこのまま仕事を続けたいと申し出た。ローズはそれを歓迎したが、きっと子供が生まれればローズの侍女で居続けるのは難しいだろう。ローズの胸には種々雑多な複雑な思いが入り乱れた。

「私、嬉し過ぎて体が火照ってたまらないわ。少し外の空気に当たってからディナーの席に行くわね。本当におめでとう、カレン!」

 そう言ってローズは満面の笑顔を湛えながら自室を出た。そして小走りで廊下を過ぎ、屋敷の裏の庭園へ――お気に入りのガゼボへと急いだ。

 庭園を走るローズの顔に、もう笑顔はない。
 涙がこみ上げてきて、今にも堰を切って溢れ出しそうだった。
 この涙を、誰にも見られてはいけない。
 ローズは薄暮の中、ひと気のないガゼボに辿り着くまでこらえた。

 そして辿り着くや、顔を覆って泣き始めた。

 喜び、嫉妬、羨望、焦燥感、悲しみ、不安――複雑に入り乱れ去来する様々な感情を持て余し、ローズはひとしきり泣きじゃくった。

 カレンは大事な侍女だ。子供の頃からローズに仕えてくれていて、主従を超えた絆を育んできた。カレンは思いやりに満ちていて、一度もローズに嘘をついたことがない。カレンの言葉にはいつも温かい愛情が詰まっていた。その大好きなカレンが幸せになるのだ。これほど嬉しいことはない。その気持ちに嘘はない。
 でも、それと同時に。
 カレンの幸せを嫉妬し、悪役令嬢の悲惨な末路が控えている自身の不幸な身の上を思い出して惨めな気持ちになった。もちろん、悲惨な未来を回避するためにあらゆる手を講じるつもりだが、その一つが今の引きこもり状態だと思うと情けなくてたまらなくなった。

「……私だって、幸せになりたい……誰かに愛され、愛したい……誰かに求めらる幸福を、手にしたい……」

 誰か――そう思うたび、このところ決まってシュリの顔が浮かぶ。
 彼の笑顔、真剣な眼差し、魅力的な声……それらを思い浮かべるだけで、苦しいほど胸が高鳴った。
 この気持ちが何と呼ばれているのかローズは知っていたが、ずっと知らないふりを続けている。
 ローズとシュリは主従関係。もし両想いになれたとしても、決して結ばれることはない。周囲に祝福され彼と結婚するなど、不可能なのだ。それでもどうしても彼が欲しければ、ローズはシュリに駆け落ちを迫るしかない。その結果、どうなるだろう? フィッツジェラルド家は娘の躾に失敗したと陰口を叩かれ、不名誉な評判に苦しむだろう。シュリはこの国に居場所を失い、世間知らずのローズを抱えて路頭に迷うだろう。

 それに――

 シュリは度々ローズに甘い言葉を囁くが、そこに恋愛感情は微塵もなく、きっとただひたすらにローズに恩義を感じ忠誠を誓っているだけなのだ。ローズはシュリの、シュリと二人の妹ニルとカナの恩人だから。
 三人は子供の頃に両親を亡くし、この国に売られてきた奴隷だった。白い肌をしたこの国の人たちと肌の色が違うのは、三人の生まれが遠い異国だからである。三人は故郷から引き離され、売られた先のある農園で酷い扱いを受けていた。6年前、その虐待現場を偶然通りかかり目にしたローズは、彼らを強引に引き取った。ローズはそのとき12歳、シュリは14歳、双子はまだ6歳だった。三人を屋敷に連れ帰り、医者に見せて彼らの体調が戻るよう世話をして、人間らしい生活を与えた――その恩義を、シュリは律儀に忘れずローズに忠誠を誓っているのだ。

(そうきっと、シュリにとっては恩義のある大切な主人、きっと私はそれだけの存在なのだわ)

 だからこの恋心を、決してシュリに知られてはいけない――ローズはそう自分に言い聞かせてきた。
 社交界に出れば、きっと素敵な男性と巡り会って新しい恋が始まるだろう。報われない苦しい恋ではなく、輝くような幸福な恋が――ローズはそう、切望していた。
 それなのに、「悪役令嬢」の運命を負わされ屋敷に引きこもる毎日。何ということだろう、これでは素敵な男性と出会うチャンスなどありはしない。
 ローズは泣きながら、前世から引きずっているただ一つの望みを反芻していた。

 一生に、ただ一度でいい。「相思相愛」という甘やかな幸福を味わってみたい。
 
 ああ――カレンが羨ましい。

 ――最悪だ、とローズは自身の狭量さに嫌悪を感じた。
 カレンの幸福だけを喜べば良いのに、己の不幸と比較して自己憐憫に涙するなど、情けなくてたまらなかった。

「私は、なんて、至らない……!」

 感情を抑えて平常心に戻りディナーに出席しなくては。
 そう理性が告げているが、ローズの感情はますます暴走していた。
 後から後から涙が零れ、パタパタと足元を濡らしてゆく。
 自分の涙に、一層悲しみが激しさを増す。
 このまま、誰にも愛されずに一生を終わることになったらどうしよう。
 悪役令嬢の最悪な結末を迎えてしまったらどうしよう。
 カレンが羨ましい。愛する人と一緒になれるなんて。
 考えないように蓋をしていた不安が、涙と共にドッと溢れ出す。

「私はただ幸せになりたいだけなのに……どうして? どうしてなの……」

 そのとき。
 ピシッと地面に落ちた枝を踏む音がして、ローズは俯いていた顔を上げた。
 ――そこに、一人の男が立っていた。

 薄暗がりの中、西の空に僅かに残る光の余韻に照らされた男は、涙で頬を濡らすローズを見つめたまま声もなく立ち尽くしていた。
 男は一目で上等だと分かるスーツに身を纏い、上品なステッキを手にしている。柔らかな金髪に縁どられた顔は見目麗しく、育ちの良さが滲み出た真っ直ぐな姿勢で身じろぎもせず立っている。

 ローズは涙を拭うのも忘れ、その男に声を掛けた。

「フィリップ殿下!……なぜ……ここに……?!」
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