3 / 68
1章
3. クローゼットの先には
しおりを挟む
前世のローズは、それはもう、今とはまるで違う存在だった。
日本、という国に生まれた「木下蕾」という名前の女。
絶望的なほど容姿に恵まれなかった上、グズでのろまという非常に残念な女。
醜い上に愚鈍な子供が、同じ年頃の子からどういう扱いを受けるかは、明白だ。
特に男子は酷かった。蕾に向かって聞くに堪えない罵声を何度も浴びせた。目が合えば「目が腐る」、ぶつかれば「バカがうつる」。掃除中にゴミ箱の中身をぶちまけられ、机に花瓶を置かれた。――蕾は何一つ、悪いことはしていないのに。醜く愚鈍ということは、これほどの仕打ちを受けるほど、罪なのか。理不尽な扱いに、蕾は徐々に他人に対して心を閉ざしていった。もちろん、友達など作れるはずもないし、男性恐怖症になったのは言うまでもない。
小学校時代も、中学生時代も、さんざんだった。
無機質なコンクリートで囲われた、無慈悲な牢獄――彼女にとって、学校とはそういう場所だった。
息をひそめ、一日を無事にやり過ごすことだけをひたすら祈って過ごした日々。
やがて高校を卒業し、経済的な事情で進学をあきらめた蕾は、地元の機械製品を扱う工場にフルタイムのパートとして就職した。本当は正社員の職が欲しかったが、何社受けても彼女を雇ってくれる会社はなかったのだ。
その工場で彼女は修道女のようにひっそりと、淡々と時間をやり過ごした。
青春など望むべくもなく。同じ年頃の女の子が経験するような恋愛は、蕾にとって遥か遠く手の届かない贅沢品だった。
どんなにか、憧れただろう。
どれほど、渇望しただろう。
――私だって、おしゃれして誰か素敵な人とデートしてみたい。
何度そう思ったか知れない。
現実世界で実現不可能な願望を、蕾は仮想世界の中に求めた。
ゲームの世界は、とても心地よかった。誰も蕾を傷つけない。クリアできるように作られているから、必ず報われる。
たくさんの乙女ゲームの中でも、特に「野ばらのクローゼット~運命の貴公子とワルツを」――略して「ばらクロワルツ」はお気に入りだった。
美しいドレスがたくさん登場し、好きなように着せ替えて楽しめる。たっぷりのフリルとたくさんのリボン、赤にピンクに純白――リアルでは絶対に似合わないし、ましてや着る機会もない豪華なドレスを、自分の分身として操作する可愛いヒロインに着せるのは、とても楽しく心が躍った。
ローズとして転生し、魔女ヴァネッサに出会ってから、ぼんやりしていた前世の記憶は次第にはっきりと浮かび上がってくるようになった。
バラバラだった記憶は時系列にそって組みたてられ、ローズは自分の前世がどんなに惨めな存在だったかを、克明に思い出した。
だからこそ――ローズは裕福な貴族の美しい令嬢に生まれ変わったことに、歓喜した。しかも富と美貌だけでなく、優秀な頭脳まで具わっていた。ローズは記憶力に優れ、一度学習した内容はすぐに覚えることが可能で、しかも忘れない。前世の「蕾」とは大違いだ。「蕾」は、どんなに努力しても覚えたことをすぐにボロボロ忘れていった。「私の脳みそはザル仕様に違いない。何もとどめておくはできなんだ」とまで思ったほどだ。
最高の器に生まれ変わった自分に、ローズはどれほど神に感謝したことか。
今度は幸せになれる、そう思った。
「それなのに……。それなのに、どうして悪役令嬢なの?!」
ローズは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
ここが「ばらクロワルツ」の世界なら、ローズは間違いなく破滅への道をたどるだろう。この世界は、ヒロインであるシャーロットを幸福に導くために用意された世界なのだから。つまりローズは、どう足掻いても幸せにはなれない。
「そんなの嫌!嫌!嫌ぁっ!!」
絶望感が胸を浸食してゆく中、ひとつだけ希望の明かりが灯っていることに気が付いた。
『何か困ったことがあれば、いつでも訪ねておいで。お嬢ちゃんには特別にいつでも会ってあげよう。何といっても、面白いからね』
そう言ってククク、ヒャヒャヒャと笑った魔女ヴァネッサ。
「ヴァネッサ……そうだ、彼女に会いに行こう。何か助言をしてくれるかもしれない」
ヴァネッサは「蝶の森への道を作っておいてあげる」と言って、ローズのクローゼットの一つに魔法をかけた。
ローズは涙を拭うと、そのクローゼットの前に立った。
そして取っ手に手をかけると魔女に教わった通り「魔女ヴァネッサの元に続く道を開いて!」と叫び、扉を開ける。
「!!」
クローゼットの中にあるドレスの隙間から、光が零れている。ドレスを掻き分けてその向こうを覗き込むと、蝶の飛び交う森がそこにあった。
「あ……なんか、見たことある、これ。前世で見た映画化されたハイファンタジーで、こういうの、あった。クローゼットの先が別の場所に繋がっているってやつ……」
ローズはそう呟いて、クローゼットの中に足を踏み入れた。さっきまで沈み込んでいた心が、少し浮上する。あの物語は、前世で大好きだった。ワクワクしてきた。
『この宇宙には無数に異なった世界が存在して、互いに影響し合っている』――魔女は確か、そう言っていた。クローゼットが別の場所にリンクしている現象も、その結果なのだろうか?
クローゼットの中をくぐり抜けると、蝶の舞う幻想的な美しい森が広がっていた。
その美しさを見てローズは少し元気になり、この先に希望が示されることを期待して歩みを進めた。
日本、という国に生まれた「木下蕾」という名前の女。
絶望的なほど容姿に恵まれなかった上、グズでのろまという非常に残念な女。
醜い上に愚鈍な子供が、同じ年頃の子からどういう扱いを受けるかは、明白だ。
特に男子は酷かった。蕾に向かって聞くに堪えない罵声を何度も浴びせた。目が合えば「目が腐る」、ぶつかれば「バカがうつる」。掃除中にゴミ箱の中身をぶちまけられ、机に花瓶を置かれた。――蕾は何一つ、悪いことはしていないのに。醜く愚鈍ということは、これほどの仕打ちを受けるほど、罪なのか。理不尽な扱いに、蕾は徐々に他人に対して心を閉ざしていった。もちろん、友達など作れるはずもないし、男性恐怖症になったのは言うまでもない。
小学校時代も、中学生時代も、さんざんだった。
無機質なコンクリートで囲われた、無慈悲な牢獄――彼女にとって、学校とはそういう場所だった。
息をひそめ、一日を無事にやり過ごすことだけをひたすら祈って過ごした日々。
やがて高校を卒業し、経済的な事情で進学をあきらめた蕾は、地元の機械製品を扱う工場にフルタイムのパートとして就職した。本当は正社員の職が欲しかったが、何社受けても彼女を雇ってくれる会社はなかったのだ。
その工場で彼女は修道女のようにひっそりと、淡々と時間をやり過ごした。
青春など望むべくもなく。同じ年頃の女の子が経験するような恋愛は、蕾にとって遥か遠く手の届かない贅沢品だった。
どんなにか、憧れただろう。
どれほど、渇望しただろう。
――私だって、おしゃれして誰か素敵な人とデートしてみたい。
何度そう思ったか知れない。
現実世界で実現不可能な願望を、蕾は仮想世界の中に求めた。
ゲームの世界は、とても心地よかった。誰も蕾を傷つけない。クリアできるように作られているから、必ず報われる。
たくさんの乙女ゲームの中でも、特に「野ばらのクローゼット~運命の貴公子とワルツを」――略して「ばらクロワルツ」はお気に入りだった。
美しいドレスがたくさん登場し、好きなように着せ替えて楽しめる。たっぷりのフリルとたくさんのリボン、赤にピンクに純白――リアルでは絶対に似合わないし、ましてや着る機会もない豪華なドレスを、自分の分身として操作する可愛いヒロインに着せるのは、とても楽しく心が躍った。
ローズとして転生し、魔女ヴァネッサに出会ってから、ぼんやりしていた前世の記憶は次第にはっきりと浮かび上がってくるようになった。
バラバラだった記憶は時系列にそって組みたてられ、ローズは自分の前世がどんなに惨めな存在だったかを、克明に思い出した。
だからこそ――ローズは裕福な貴族の美しい令嬢に生まれ変わったことに、歓喜した。しかも富と美貌だけでなく、優秀な頭脳まで具わっていた。ローズは記憶力に優れ、一度学習した内容はすぐに覚えることが可能で、しかも忘れない。前世の「蕾」とは大違いだ。「蕾」は、どんなに努力しても覚えたことをすぐにボロボロ忘れていった。「私の脳みそはザル仕様に違いない。何もとどめておくはできなんだ」とまで思ったほどだ。
最高の器に生まれ変わった自分に、ローズはどれほど神に感謝したことか。
今度は幸せになれる、そう思った。
「それなのに……。それなのに、どうして悪役令嬢なの?!」
ローズは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
ここが「ばらクロワルツ」の世界なら、ローズは間違いなく破滅への道をたどるだろう。この世界は、ヒロインであるシャーロットを幸福に導くために用意された世界なのだから。つまりローズは、どう足掻いても幸せにはなれない。
「そんなの嫌!嫌!嫌ぁっ!!」
絶望感が胸を浸食してゆく中、ひとつだけ希望の明かりが灯っていることに気が付いた。
『何か困ったことがあれば、いつでも訪ねておいで。お嬢ちゃんには特別にいつでも会ってあげよう。何といっても、面白いからね』
そう言ってククク、ヒャヒャヒャと笑った魔女ヴァネッサ。
「ヴァネッサ……そうだ、彼女に会いに行こう。何か助言をしてくれるかもしれない」
ヴァネッサは「蝶の森への道を作っておいてあげる」と言って、ローズのクローゼットの一つに魔法をかけた。
ローズは涙を拭うと、そのクローゼットの前に立った。
そして取っ手に手をかけると魔女に教わった通り「魔女ヴァネッサの元に続く道を開いて!」と叫び、扉を開ける。
「!!」
クローゼットの中にあるドレスの隙間から、光が零れている。ドレスを掻き分けてその向こうを覗き込むと、蝶の飛び交う森がそこにあった。
「あ……なんか、見たことある、これ。前世で見た映画化されたハイファンタジーで、こういうの、あった。クローゼットの先が別の場所に繋がっているってやつ……」
ローズはそう呟いて、クローゼットの中に足を踏み入れた。さっきまで沈み込んでいた心が、少し浮上する。あの物語は、前世で大好きだった。ワクワクしてきた。
『この宇宙には無数に異なった世界が存在して、互いに影響し合っている』――魔女は確か、そう言っていた。クローゼットが別の場所にリンクしている現象も、その結果なのだろうか?
クローゼットの中をくぐり抜けると、蝶の舞う幻想的な美しい森が広がっていた。
その美しさを見てローズは少し元気になり、この先に希望が示されることを期待して歩みを進めた。
1
お気に入りに追加
1,326
あなたにおすすめの小説
家庭の事情で歪んだ悪役令嬢に転生しましたが、溺愛されすぎて歪むはずがありません。
木山楽斗
恋愛
公爵令嬢であるエルミナ・サディードは、両親や兄弟から虐げられて育ってきた。
その結果、彼女の性格は最悪なものとなり、主人公であるメリーナを虐め抜くような悪役令嬢となったのである。
そんなエルミナに生まれ変わった私は困惑していた。
なぜなら、ゲームの中で明かされた彼女の過去とは異なり、両親も兄弟も私のことを溺愛していたからである。
私は、確かに彼女と同じ姿をしていた。
しかも、人生の中で出会う人々もゲームの中と同じだ。
それなのに、私の扱いだけはまったく違う。
どうやら、私が転生したこの世界は、ゲームと少しだけずれているようだ。
当然のことながら、そんな環境で歪むはずはなく、私はただの公爵令嬢として育つのだった。
村娘になった悪役令嬢
枝豆@敦騎
恋愛
父が連れてきた妹を名乗る少女に出会った時、公爵令嬢スザンナは自分の前世と妹がヒロインの乙女ゲームの存在を思い出す。
ゲームの知識を得たスザンナは自分が将来妹の殺害を企てる事や自分が父の実子でない事を知り、身分を捨て母の故郷で平民として暮らすことにした。
村娘になった少女が行き倒れを拾ったり、ヒロインに連れ戻されそうになったり、悪役として利用されそうになったりしながら最後には幸せになるお話です。
※他サイトにも掲載しています。(他サイトに投稿したものと異なっている部分があります)
アルファポリスのみ後日談投稿しております。
〘完〙前世を思い出したら悪役皇太子妃に転生してました!皇太子妃なんて罰ゲームでしかないので円満離婚をご所望です
hanakuro
恋愛
物語の始まりは、ガイアール帝国の皇太子と隣国カラマノ王国の王女との結婚式が行われためでたい日。
夫婦となった皇太子マリオンと皇太子妃エルメが初夜を迎えた時、エルメは前世を思い出す。
自著小説『悪役皇太子妃はただ皇太子の愛が欲しかっただけ・・』の悪役皇太子妃エルメに転生していることに気付く。何とか初夜から逃げ出し、混乱する頭を整理するエルメ。
すると皇太子の愛をいずれ現れる癒やしの乙女に奪われた自分が乙女に嫌がらせをして、それを知った皇太子に離婚され、追放されるというバッドエンドが待ち受けていることに気付く。
訪れる自分の未来を悟ったエルメの中にある想いが芽生える。
円満離婚して、示談金いっぱい貰って、市井でのんびり悠々自適に暮らそうと・・
しかし、エルメの思惑とは違い皇太子からは溺愛され、やがて現れた癒やしの乙女からは・・・
はたしてエルメは円満離婚して、のんびりハッピースローライフを送ることができるのか!?
誰からも愛されない悪役令嬢に転生したので、自由気ままに生きていきたいと思います。
木山楽斗
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢であるエルファリナに転生した私は、彼女のその境遇に対して深い悲しみを覚えていた。
彼女は、家族からも婚約者からも愛されていない。それどころか、その存在を疎まれているのだ。
こんな環境なら歪んでも仕方ない。そう思う程に、彼女の境遇は悲惨だったのである。
だが、彼女のように歪んでしまえば、ゲームと同じように罪を暴かれて牢屋に行くだけだ。
そのため、私は心を強く持つしかなかった。悲惨な結末を迎えないためにも、どんなに不当な扱いをされても、耐え抜くしかなかったのである。
そんな私に、解放される日がやって来た。
それは、ゲームの始まりである魔法学園入学の日だ。
全寮制の学園には、歪な家族は存在しない。
私は、自由を得たのである。
その自由を謳歌しながら、私は思っていた。
悲惨な境遇から必ず抜け出し、自由気ままに生きるのだと。
当て馬の悪役令嬢に転生したけど、王子達の婚約破棄ルートから脱出できました。推しのモブに溺愛されて、自由気ままに暮らします。
可児 うさこ
恋愛
生前にやりこんだ乙女ゲームの悪役令嬢に転生した。しかも全ルートで王子達に婚約破棄されて処刑される、当て馬令嬢だった。王子達と遭遇しないためにイベントを回避して引きこもっていたが、ある日、王子達が結婚したと聞いた。「よっしゃ!さよなら、クソゲー!」私は家を出て、向かいに住む推しのモブに会いに行った。モブは私を溺愛してくれて、何でも願いを叶えてくれた。幸せな日々を過ごす中、姉が書いた攻略本を見つけてしまった。モブは最強の魔術師だったらしい。え、裏ルートなんてあったの?あと、なぜか王子達が押し寄せてくるんですけど!?
悪役令嬢に転生したので、やりたい放題やって派手に散るつもりでしたが、なぜか溺愛されています
平山和人
恋愛
伯爵令嬢であるオフィーリアは、ある日、前世の記憶を思い出す、前世の自分は平凡なOLでトラックに轢かれて死んだことを。
自分が転生したのは散財が趣味の悪役令嬢で、王太子と婚約破棄の上、断罪される運命にある。オフィーリアは運命を受け入れ、どうせ断罪されるなら好きに生きようとするが、なぜか周囲から溺愛されてしまう。
【完結】冤罪で殺された王太子の婚約者は100年後に生まれ変わりました。今世では愛し愛される相手を見つけたいと思っています。
金峯蓮華
恋愛
どうやら私は階段から突き落とされ落下する間に前世の記憶を思い出していたらしい。
前世は冤罪を着せられて殺害されたのだった。それにしても酷い。その後あの国はどうなったのだろう?
私の願い通り滅びたのだろうか?
前世で冤罪を着せられ殺害された王太子の婚約者だった令嬢が生まれ変わった今世で愛し愛される相手とめぐりあい幸せになるお話。
緩い世界観の緩いお話しです。
ご都合主義です。
*タイトル変更しました。すみません。
目が覚めたら夫と子供がいました
青井陸
恋愛
とある公爵家の若い公爵夫人、シャルロットが毒の入ったのお茶を飲んで倒れた。
1週間寝たきりのシャルロットが目を覚ましたとき、幼い可愛い男の子がいた。
「…お母様?よかった…誰か!お母様が!!!!」
「…あなた誰?」
16歳で政略結婚によって公爵家に嫁いだ、元伯爵令嬢のシャルロット。
シャルロットは一目惚れであったが、夫のハロルドは結婚前からシャルロットには冷たい。
そんな関係の二人が、シャルロットが毒によって記憶をなくしたことにより少しずつ変わっていく。
なろう様でも同時掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる