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Adagio-二人はまだ出会わない

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  麻衣は冷蔵庫にマグネットで貼り付けたチラシを気にしつつ仕事に追われ電話出来ずにいた。
 「そろそろ、電話するかねぇ?」
 チラシを受け取ってから半年経っていた。大体が、見学に行く=習うの決定。なので、本当にやるかどうか迷っていたのもあるが、電話しようかと思った矢先に緊急の仕事が入り、それに対応している間に本来予定に組み込まれていた仕事まで始まり、鬼の忙しさになっていたのだ。
 月曜、午後の一時。どうやらこのピアノ教室の定休日らしいので、お休みに電話するのはどうなんだ?と悩みもしたが、レッスン中に電話が来るのも結構嫌なもんだよな。しかも白熱してる時とか、超集中してる時とかだとイラっとするもんな。と思い、携帯を握った。教室の先生こそが練習している可能性には思い至らなかった。

 『はい、高科たかしなピアノ教室です』
 柔らかい、まるでチェロのような声だった。麻衣好みの声なのだが、そんなことよりも「また男か」と麻衣は若干の苦々しさを持ってその声を受け止めていた。
 なぜか、麻衣は女の講師に習ったことが無い。小さい頃に通っていたピアノ教室の先生は男だったし、音高に入るために教授した声楽家はピアノ教師からの紹介で、こちらも男だった。音高の声楽、副科ピアノの講師も男。大学の講師も声楽、ピアノ共に男。全員が既婚者であったし、子供に色目を使うような男がいるはずも無かったのでそういう面で嫌なのではなく、麻衣としては女性の講師とキャッキャいいながらレッスン。というのをしてみたいと思っていたのだ。
 「あの~、以前チラシをですね、その貰って、見学に行けたらと……」
 『あぁ、見学希望の方ですか……』
 不思議と、男の声が沈んでいる。もしかすると半年の間に空きが無くなったのかもしれないと思い当たる。
 「あ、空きが無いなら……」
 『いえ、その……』
 電話越しに何かを探す音が聞こえる。スケジュール帳でも見ているのだろうか?と思い、麻衣は大人しく待っている。
 『あー…うん~?』
 こちらに話しかける意図ではない声に、麻衣はすでにどうやって前言撤回して電話を切ろうかと、考えていた。
 『あの』
 「あのですね」
 同時だった。続きを譲ろうとしたが麻衣より先に男が譲ったため、麻衣はそのまま言葉を続けた。
 「あの、このチラシ貰ったの半年も前なので、埋まってるなら他を探しますから、大丈夫ですよ?」
 『あぁ、半年前ですかー』
 記憶を手繰っているらしく、ややポヤッとした男の声。
 「その、なんか居酒屋でパーマの男の人に貰って、仕事も忙しかったので半年もそのまま……」
 『あっ!』
 どうやら何かを思い出したらしい男が、大きな声を上げたことに謝りつつ、ページをペラペラと捲りあまつさえちょっと破いてしまったらしい音を電話越しに聞き取る。
 『その、空いてないこともないです。ただ、日曜日の二十時からになってしまうのですが、それでも構わないのでしたら、一度見学に来て頂いて、そこで改めて決めて頂ければと……』
 「あー、わかりました。見学にお伺いします」
 『はい、それでは見学の日取りは……』
 「いつでも大丈夫です。そちらのご都合のいいときに……」
 麻衣はITと言っても在宅でシステムエンジニアの真似事をしているので、毎日が休日であり、毎日がお仕事日だった。なので、時間の都合は誰よりも付けやすい反面、舞い込んでくる仕事の量によっては地獄を見る。
 『そうですか。……では、次の日曜日、十九時からのレッスンの子が居ますので、その時間でどうでしょうか?』
 「了か……わかりました。それでは、よろしくお願いします」
 『はい。では』
 「失礼致します」
 電話を切って、麻衣はこれと言った感想はいだかず、カレンダーにしるしをつけた。


    ♪     ♪     ♪     ♪     ♪     ♪


 物凄く集中していた所に電話の音が響き、自宅でピアノ教室を開いている高科たかしな理一さとかずは少しだけ眉を顰めた。
 電話を取ると、落ち着いた声の女性で、見学希望だと言う。四ヶ月ほど前はぽつぽつと空きがあったのだが、一度音大時代の友人が企画した合同発表会で数人の生徒と共に演奏をしたところ、沢山のレッスン希望が集まりみっちりと予定が埋まっていた。
 平日のレッスン時間は十四時から二十一時までと決めていて、子供たちの帰宅時間までは主婦が多く、十六時から二十時時までは小学生から高校生、残り一時間は仕事を持つ社会人を受け入れている状態だった。休日は朝十時からで年齢層は入り乱れているが、日曜の十九時は高校生で来年音大受験を控えている女子生徒だった。熱心な子で、周に三日通っている。日曜の夜遅くまでレッスンするのは夜道が危険なので避けたかったのだが、スケジュール的にそこしか空いて居なかった。平日の昼前は不可能として、定休日にしている月曜日は自身の練習に当てているので、どうしてもそこに組み込むのは、いやしかし……と悩んだのだが、女子生徒とその親が問題無いと言うのでそこに組み込ませて貰っている。しかし、白熱してレッスン時間を過ぎても続けてしまうことがあった。女子生徒はそれを喜んでいたが、いい事ではない。
 「あ、名前メモし忘れてたなぁ……」
 理一は一生懸命思い出そうとするが、そもそも麻衣は名乗り忘れている。
 一日に対し一ページ割り当てられている分厚いスケジュール帳の、半ばまで破けた日曜のページを眺めてため息をついた。
 (なんで慌ててしまったんだろう……)
 大学時代の友人である大野にけしかけられた半年前の居酒屋。ナンパしろと言われ断固として拒否したのを思い出した。
 聞き耳を立てる友人を窘めたが彼がそれを止めることはなく、逐一こんな話をしていると告げてくる。女性に対して夢を捨てきれない理一としては耳を塞ぎたくなる内容だったのだが、背中しか見えない女性の男性に求める条件が……自分に一致することに驚愕したのだ。
 昔、理一は女で手酷い目に合っている。大野はその事情を知っている為、せめてチラシぐらいはとあんな手段に出たのだろう。その大野に追い払われるようにレジへと向かった。
 理一の家は都心への利便性はいいが、東京ではない。どうせ連絡が来ることなどないだろうと思ったので、顔を見たいという誘惑に打ち勝ち居酒屋を出た。それが、住所が近いと聞いて(期待なんかしてない)と反発しつつも、やはり連絡を待ってしまう自分の情けなさに呆れたものだった。
 存在も忘れ始めていた、あの邂逅から半年。思い出した瞬間、良くわからない熱が足から頭まで駆け上るのを感じた。気付けばスケジュール帳を捲る指に力が入り、思わずページを半分ほど破いてしまったのだ。
 日曜の八時からなら、うっかり伸びてしまっていた女子生徒のレッスン時間を彼女が来ることで守れるし、これでいいんだと言い聞かせる。
 (確か大野は美人だったって言ってたな……いやいや、そういえば十も離れてるって言ってなかったっけ?駄目駄目、こんなおじさん相手に……いや!そもそも、生徒さんになるかもしれない人をそんな目で見ちゃ駄目だ!あぁもう、僕はどうしたらいいんだ……。生徒、生徒、生徒……)
 悶々と、理一は日曜までの日を過ごす嵌めになった。
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