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番外編
義姉と夫の気遣い 後半
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柊子は、何を言われたのか分からなかった。
「柊子は前に言っただろ。大学で誰にも声をかけられなかったからモテなかったって。そんな馬鹿な話があるかとずっと思ってた。やっぱり君は、中学生のときから男子生徒に人気があった」
柊子は瞬いた。
確かに、見合いの最中にそんな話をした。そう、丁度ここでだ。今は椅子が二脚あるが、あのときは一脚だった。大学時代は透明人間だったのかなど、とんでもない質問を投げられたことも記憶にある。
「そこは、梓さんの単なる憶測だから」
「いや、あのひとがそんな適当なことを言うわけがない」
説得力の方向が柊子にとって未知の領域だった。
「だから柊子は、中学のときはモテて、今も綺麗だから、大学のときもモテてたはず」
「それは大事なことなの?」
「俺の考えが正しいと、数学的帰納法で証明された」
大それた証明手法を用いて導き出した結果がそれなのか。
柊子は眉根を寄せた。卓朗は柊子の困惑顔に、やけにじっとりと視線を這わせた。
「柊子は中学のとき、放送部に入ったのか?」
「え、うん……」
「中一から?」
話がどこに向かうのか分からないまま、柊子はうなずいた。
「柊子が中一のとき、俺は中三か」
「年齢としては、まあ、そうね」
卓朗はチェアのアームに指を置き、爪でこつんとそこを突いた。
「俺がもし柊子と同じ中学にいたら、君の放送の声を聞いて、それだけで惚れる自信がある」
柊子はそれとなく卓朗の持つ缶ビールに視線をやった。一本目だ。さほどペースは早くないはずだが、夫はかなり酔っているようだ。
「俺はそうだな、放送の声の主を探して一年のクラスを歩き回ったかな。もしくは、部活の後輩に探らせたか。最終手段として放送室の前で出待ちして、柊子とコンタクトを取ろうとしたはず。で、付き合ってくれと頼み込む」
「何の話?」
「可能性の話」
答になっているような、なっていないような。
卓朗はビールを一口あおった。それをサイドテーブルに置き、背もたれから身を起こして柊子と正面で向き合った。
「桐島さん、俺と付き合ってくれる?」
柊子はワケが分からないという顔をしたが、卓朗のごく真面目な目を見て、気圧され乗ってうなずいてしまった。
なんと卓朗は破顔してガッツポーズをした。
「やった!」
やった?
そして卓朗はまた背もたれに体を預け、すうっと達観した顔になった。
「俺たちが付き合いはじめて、俺は浮かれて勉強に身が入らず、成績が落ちて先生に『受験生の自覚を持て』って小言を食らうまで鮮明に映像が描ける」
「確かに、よくある話ではあるけど……?」
「まあ、一年間は俺も我慢して清い交際を心がける。で、俺の卒業式に、柊子が寂しいですって泣いて、俺はボタンを渡してから、柊子とファーストキスを交わすってのがいいなあ」
「何言ってるの」
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、少女漫画的シーンが頭に浮かんで、不覚にもちょっとときめいてしまった。柊子は照れてオリーブを、乱暴にフォークで刺して口に運んだ。
「柊子は俺を追って、俺と同じ高校に来て」
「まだ続くの?」
「俺は高三で柊子と再会し、感動してたまらず君を抱くだろうな」
「だめ、待って」
柊子は手のひらを卓朗に示した。
「その設定だと私はまだ十五歳なんだけど」
「そうか、柊子は高校に入りたてだからな。……十五はさすがにまずいな」
卓朗は顎に手をあて考える素振りをみせた。
「じゃあキスと、おっぱいを触るくらいで」
「やだ、そんなこと考えてるの? 受験生のくせに!」
「柊子が十五なら俺は十七だぞ。思春期の野郎の頭の中はおっぱいでいっぱいなんだよ。隙あらば執拗に観察して揉む機会を狙ってるからな。柊子も気を付けろ」
「はい気を付けます。思春期の卓朗さんには近寄らないようにします」
卓朗はよしとうなずいてから視線を上に向け、また柊子に顔を戻した。
「確かに、学校で慌ただしく、誰が通るか気にしながらイチャイチャしても集中できないよな」
「同意を求めないで」
「……そういうシチュエーションにすごい興奮はするけど」
それについて言及は避けた。
「やっぱり、俺が大学になって下宿して、柊子を招いた方がじっくり何度も抱ける」
「さっきから一体、何のシミュレーションをしてるの」
「いろんな世界の柊子を抱く手順」
卓朗はにやと笑った。
「どの世界線でも、柊子の最初で最後の男は絶対に俺」
情けない、本当に情けないと思いつつ、柊子は顔を赤くし、卓朗から目を逸らせた。
「酔っぱらい」
「柊子は、引き続き俺を追って同じ大学を受験して、合格を決める。俺はその日に、俺の下宿で柊子の初めてをもらう……その設定だと俺も未経験か」
柊子は性懲りもなく、またも脳裏にその光景を描いてしまった。若い、成人になった、成熟したての肢体の卓朗に、完全に大人になっていないからだを預ける自分。
いやだ。
柊子は席を立った。飲み干していたグラスに、もう少し梅酒を追加しようとして、結局手を止めた。空いたグラスを見たまま、しばらく立ち尽くしていた。
「柊子?」
卓朗は柊子のすぐ後ろにやってきて、手に持っていた空いた缶をシンクに置いた。
「私、ばかみたい」
「……なに」
「二十歳そこそこのときの自分に嫉妬すると思わなかった」
みたいではない。馬鹿だ。卓朗より、自分の方が完全に酔っている。今日はいろいろあって動揺していたのも鑑みても、どうかしている。
こんなことで感傷的になるなんて。
卓朗は目を見開いた。
「え、は?」
「私がいちばん綺麗だった、若いときに、卓朗さんと」
そこで言葉を詰まらせた。言葉にするとさらに愚かしさが増した。消えたいほどに恥ずかしい。
「ごめんなさい。ばかみたい」
卓朗が、柊子の背にぴたりとくっついた。彼のからだの熱が分かるほどに近くに。
「君は今の方が綺麗だ」
「現実の私より、芸術家の卓朗さんの頭の中の、若い私のほうが綺麗に決まってる」
「俺のしょうもない妄想の中の柊子より、今ここにいる柊子の方が完璧に美しいよ」
卓朗は、柊子の耳のうしろに鼻を押しつけ、下の首に唇で触れた。ゆっくりと、彼の手が柊子のウエストから腿に降りた。
夢うつつ、背のあたたかさを感じ、それで覚醒した。
背から抱きしめられているが、決して不快でない熱さだ。空気は冷たい。
昨晩のことが頭のなかで巡ってくる。
恥ずかしすぎる。
ありもしない過去の自分に嫉妬して、いやな気分になり拗ねた。卓朗に慰めというのか、宥めというのか、どちらとも取れる情を与えられ、それを貪り飲んで夜を過ごした。
もぞもぞと動くと、腰に回されていた腕が緩んだ。
「起きるか?」
卓朗の掠れた声が耳に届き、柊子の呼吸も少し乱れた。
柊子は照れをごまかすために、けだるさを装いながら上体を上げた。背中で卓朗はさっと立ち上がり、ベッドから降りて部屋を出てしまった。
いそいそと去っていく裸の背中を、ややあっけに取られ見ていた柊子だった。卓朗も照れているのだ。彼は昨晩、酔っているとはいえ随分と赤裸々に、若干卑猥な妄想を述べていた。珍しいことだ。
柊子は卓朗のベッドヘッドにある時計を見た。まだ早い時間だ。なのでもう一度、そこに横になった。
昨日、心が乱れる話を聞いた。いつもだったら二日は引きずっただろう。でも今日は気分が悪くない。宵の、卓朗との会話に全ての感情を持っていかれたせいだ。
まさかとは思いつつ、卓朗もそれを見越しての、昨晩のあの言動だったのかと勘ぐった。
姉弟そろって、抜け目のないひとたち。
柊子はベッドの上で伸びをした。
それでも、シャワーを浴びて朝食を食べるころには、お互いそれなりの態度を見せることができるようになった。こうして慣れていくのだろう。それは決していやなことではない。
卓朗が空いた食器を軽くゆすいで食洗機に入れていたとき、彼は「あ」と声を出し、柊子に顔を向けた。
「そういや福海さんがさ、栗をくれるって。箱にいっぱいあるから、部署の希望者で適当に分けてほしいって昨日言ってた。今日、まとめて持ってくるって。栗。いる?」
「欲しい。嬉しい。栗剥き道具あるわよ。栗ご飯にしましょ」
「紙袋、シンクの下に入れてたよな」
「うん。適当に持っていって」
卓朗はシンクの下の扉を開け、身を屈めて中を探った。柊子は栗が楽しみで機嫌良く鼻歌を歌っていたのだが、卓朗のああ?という叫びに、変な声を出してしまった。
「な、なに?」
振り向くと、卓朗はある紙袋を持ってそれを指さし、そして悲壮な顔を柊子に向けていた。
「デリチュースの袋があるじゃないか!」
それは昨日、梓が柊子に持たせてくれた手土産の、チーズケーキの外袋だ。綺麗でしっかりしているので、また何かに使えると思ってとっておいたものだ。まさに今日のように、何かを渡すときやもらうときのために。
「チーズケーキを食べたのか?」
卓朗の目は血走っている。ただごとではない。
「昨日、食べたの。……梓さんにもらって」
「はあ?」
卓朗は毒づいた。
「あいつ……嫌がらせが本当に上手い女だな」
「え、いや、そんなことは……な、なんで」
「俺の大好物なんだよ」
柊子は口を開けた。なんと、そういうことだったのか。
「デリチュースのチーズケーキ。杏のジャムが乗ってるやつ」
上層のジャムは杏だったらしい。
「ごめんなさい……美味しかったから、全部一人で食べちゃって……、あ、梓さんは二人分って思ってたはず……」
「このサイズだったろう」
卓朗が手で示したのは、直系十二センチくらいの円だ。まさにその通りだったから柊子はうんと肯定した。
「俺もあれくらいなら余裕で一人で食う。もう一つ大きなサイズがあるのに、わざわざ小さなサイズを買ってるあたり、俺には食わせずに見せびらかすつもりだったんだ。ほんと性格の悪さがにじみ出てるよ!」
「あー……」
柊子はあれを一人分でないサイズだと思った。ただし柊子は末っ子特有の、そこにあるものは全て自分のものという行動を地でよくやる。無意識の行動で、あらかじめ分けるのだと告げられているとやらないのだが、言われてないとやらかす。卓朗は最初驚いていたし、叔母の美晴はよく呆れているし、こどものころに姉と兄に叱られたこともあった。
そんな自分は一人で食べてしまったが、あれが二人分以上を想定されているのは明白だ。
とはいえ、卓朗の好物なのだ。しかもここまで憤るほど。あの梓が知らないとは思えない、気がする。セオリーに則るなら、もうワンサイズ上を買う。あくまでセオリーに則るなら。……現に貴久の袋には沢山のラスクが入っていた。
いや責任転嫁はよくない。柊子は、自分ががめつく食べ尽くしてしまったことに罪悪感を覚えた。柊子の癖を梓が知っているはずがない……多分。
「ごめんなさい。買ってくるわ。私ももう一度食べたいし」
柊子の提案に対し、卓朗は顔をしかめたままで首を振った。
「この辺にはない。大阪まで行かないと」
「お……おおさか?」
柊子は目を見開いた。
「今はネット通販が休止中なんだ」
詳しすぎる。
「誰かに頼んだのか自分で買いに行ったのか分からないけど、何にせよ手が込んでやがる」
柊子は唖然としていた。
「そこまで計算ずくなら、……梓さん、こ、怖すぎるんだけど」
「そうだよ。知ってる」
なんて姉弟だと、柊子は息を飲んだ。
「柊子は前に言っただろ。大学で誰にも声をかけられなかったからモテなかったって。そんな馬鹿な話があるかとずっと思ってた。やっぱり君は、中学生のときから男子生徒に人気があった」
柊子は瞬いた。
確かに、見合いの最中にそんな話をした。そう、丁度ここでだ。今は椅子が二脚あるが、あのときは一脚だった。大学時代は透明人間だったのかなど、とんでもない質問を投げられたことも記憶にある。
「そこは、梓さんの単なる憶測だから」
「いや、あのひとがそんな適当なことを言うわけがない」
説得力の方向が柊子にとって未知の領域だった。
「だから柊子は、中学のときはモテて、今も綺麗だから、大学のときもモテてたはず」
「それは大事なことなの?」
「俺の考えが正しいと、数学的帰納法で証明された」
大それた証明手法を用いて導き出した結果がそれなのか。
柊子は眉根を寄せた。卓朗は柊子の困惑顔に、やけにじっとりと視線を這わせた。
「柊子は中学のとき、放送部に入ったのか?」
「え、うん……」
「中一から?」
話がどこに向かうのか分からないまま、柊子はうなずいた。
「柊子が中一のとき、俺は中三か」
「年齢としては、まあ、そうね」
卓朗はチェアのアームに指を置き、爪でこつんとそこを突いた。
「俺がもし柊子と同じ中学にいたら、君の放送の声を聞いて、それだけで惚れる自信がある」
柊子はそれとなく卓朗の持つ缶ビールに視線をやった。一本目だ。さほどペースは早くないはずだが、夫はかなり酔っているようだ。
「俺はそうだな、放送の声の主を探して一年のクラスを歩き回ったかな。もしくは、部活の後輩に探らせたか。最終手段として放送室の前で出待ちして、柊子とコンタクトを取ろうとしたはず。で、付き合ってくれと頼み込む」
「何の話?」
「可能性の話」
答になっているような、なっていないような。
卓朗はビールを一口あおった。それをサイドテーブルに置き、背もたれから身を起こして柊子と正面で向き合った。
「桐島さん、俺と付き合ってくれる?」
柊子はワケが分からないという顔をしたが、卓朗のごく真面目な目を見て、気圧され乗ってうなずいてしまった。
なんと卓朗は破顔してガッツポーズをした。
「やった!」
やった?
そして卓朗はまた背もたれに体を預け、すうっと達観した顔になった。
「俺たちが付き合いはじめて、俺は浮かれて勉強に身が入らず、成績が落ちて先生に『受験生の自覚を持て』って小言を食らうまで鮮明に映像が描ける」
「確かに、よくある話ではあるけど……?」
「まあ、一年間は俺も我慢して清い交際を心がける。で、俺の卒業式に、柊子が寂しいですって泣いて、俺はボタンを渡してから、柊子とファーストキスを交わすってのがいいなあ」
「何言ってるの」
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、少女漫画的シーンが頭に浮かんで、不覚にもちょっとときめいてしまった。柊子は照れてオリーブを、乱暴にフォークで刺して口に運んだ。
「柊子は俺を追って、俺と同じ高校に来て」
「まだ続くの?」
「俺は高三で柊子と再会し、感動してたまらず君を抱くだろうな」
「だめ、待って」
柊子は手のひらを卓朗に示した。
「その設定だと私はまだ十五歳なんだけど」
「そうか、柊子は高校に入りたてだからな。……十五はさすがにまずいな」
卓朗は顎に手をあて考える素振りをみせた。
「じゃあキスと、おっぱいを触るくらいで」
「やだ、そんなこと考えてるの? 受験生のくせに!」
「柊子が十五なら俺は十七だぞ。思春期の野郎の頭の中はおっぱいでいっぱいなんだよ。隙あらば執拗に観察して揉む機会を狙ってるからな。柊子も気を付けろ」
「はい気を付けます。思春期の卓朗さんには近寄らないようにします」
卓朗はよしとうなずいてから視線を上に向け、また柊子に顔を戻した。
「確かに、学校で慌ただしく、誰が通るか気にしながらイチャイチャしても集中できないよな」
「同意を求めないで」
「……そういうシチュエーションにすごい興奮はするけど」
それについて言及は避けた。
「やっぱり、俺が大学になって下宿して、柊子を招いた方がじっくり何度も抱ける」
「さっきから一体、何のシミュレーションをしてるの」
「いろんな世界の柊子を抱く手順」
卓朗はにやと笑った。
「どの世界線でも、柊子の最初で最後の男は絶対に俺」
情けない、本当に情けないと思いつつ、柊子は顔を赤くし、卓朗から目を逸らせた。
「酔っぱらい」
「柊子は、引き続き俺を追って同じ大学を受験して、合格を決める。俺はその日に、俺の下宿で柊子の初めてをもらう……その設定だと俺も未経験か」
柊子は性懲りもなく、またも脳裏にその光景を描いてしまった。若い、成人になった、成熟したての肢体の卓朗に、完全に大人になっていないからだを預ける自分。
いやだ。
柊子は席を立った。飲み干していたグラスに、もう少し梅酒を追加しようとして、結局手を止めた。空いたグラスを見たまま、しばらく立ち尽くしていた。
「柊子?」
卓朗は柊子のすぐ後ろにやってきて、手に持っていた空いた缶をシンクに置いた。
「私、ばかみたい」
「……なに」
「二十歳そこそこのときの自分に嫉妬すると思わなかった」
みたいではない。馬鹿だ。卓朗より、自分の方が完全に酔っている。今日はいろいろあって動揺していたのも鑑みても、どうかしている。
こんなことで感傷的になるなんて。
卓朗は目を見開いた。
「え、は?」
「私がいちばん綺麗だった、若いときに、卓朗さんと」
そこで言葉を詰まらせた。言葉にするとさらに愚かしさが増した。消えたいほどに恥ずかしい。
「ごめんなさい。ばかみたい」
卓朗が、柊子の背にぴたりとくっついた。彼のからだの熱が分かるほどに近くに。
「君は今の方が綺麗だ」
「現実の私より、芸術家の卓朗さんの頭の中の、若い私のほうが綺麗に決まってる」
「俺のしょうもない妄想の中の柊子より、今ここにいる柊子の方が完璧に美しいよ」
卓朗は、柊子の耳のうしろに鼻を押しつけ、下の首に唇で触れた。ゆっくりと、彼の手が柊子のウエストから腿に降りた。
夢うつつ、背のあたたかさを感じ、それで覚醒した。
背から抱きしめられているが、決して不快でない熱さだ。空気は冷たい。
昨晩のことが頭のなかで巡ってくる。
恥ずかしすぎる。
ありもしない過去の自分に嫉妬して、いやな気分になり拗ねた。卓朗に慰めというのか、宥めというのか、どちらとも取れる情を与えられ、それを貪り飲んで夜を過ごした。
もぞもぞと動くと、腰に回されていた腕が緩んだ。
「起きるか?」
卓朗の掠れた声が耳に届き、柊子の呼吸も少し乱れた。
柊子は照れをごまかすために、けだるさを装いながら上体を上げた。背中で卓朗はさっと立ち上がり、ベッドから降りて部屋を出てしまった。
いそいそと去っていく裸の背中を、ややあっけに取られ見ていた柊子だった。卓朗も照れているのだ。彼は昨晩、酔っているとはいえ随分と赤裸々に、若干卑猥な妄想を述べていた。珍しいことだ。
柊子は卓朗のベッドヘッドにある時計を見た。まだ早い時間だ。なのでもう一度、そこに横になった。
昨日、心が乱れる話を聞いた。いつもだったら二日は引きずっただろう。でも今日は気分が悪くない。宵の、卓朗との会話に全ての感情を持っていかれたせいだ。
まさかとは思いつつ、卓朗もそれを見越しての、昨晩のあの言動だったのかと勘ぐった。
姉弟そろって、抜け目のないひとたち。
柊子はベッドの上で伸びをした。
それでも、シャワーを浴びて朝食を食べるころには、お互いそれなりの態度を見せることができるようになった。こうして慣れていくのだろう。それは決していやなことではない。
卓朗が空いた食器を軽くゆすいで食洗機に入れていたとき、彼は「あ」と声を出し、柊子に顔を向けた。
「そういや福海さんがさ、栗をくれるって。箱にいっぱいあるから、部署の希望者で適当に分けてほしいって昨日言ってた。今日、まとめて持ってくるって。栗。いる?」
「欲しい。嬉しい。栗剥き道具あるわよ。栗ご飯にしましょ」
「紙袋、シンクの下に入れてたよな」
「うん。適当に持っていって」
卓朗はシンクの下の扉を開け、身を屈めて中を探った。柊子は栗が楽しみで機嫌良く鼻歌を歌っていたのだが、卓朗のああ?という叫びに、変な声を出してしまった。
「な、なに?」
振り向くと、卓朗はある紙袋を持ってそれを指さし、そして悲壮な顔を柊子に向けていた。
「デリチュースの袋があるじゃないか!」
それは昨日、梓が柊子に持たせてくれた手土産の、チーズケーキの外袋だ。綺麗でしっかりしているので、また何かに使えると思ってとっておいたものだ。まさに今日のように、何かを渡すときやもらうときのために。
「チーズケーキを食べたのか?」
卓朗の目は血走っている。ただごとではない。
「昨日、食べたの。……梓さんにもらって」
「はあ?」
卓朗は毒づいた。
「あいつ……嫌がらせが本当に上手い女だな」
「え、いや、そんなことは……な、なんで」
「俺の大好物なんだよ」
柊子は口を開けた。なんと、そういうことだったのか。
「デリチュースのチーズケーキ。杏のジャムが乗ってるやつ」
上層のジャムは杏だったらしい。
「ごめんなさい……美味しかったから、全部一人で食べちゃって……、あ、梓さんは二人分って思ってたはず……」
「このサイズだったろう」
卓朗が手で示したのは、直系十二センチくらいの円だ。まさにその通りだったから柊子はうんと肯定した。
「俺もあれくらいなら余裕で一人で食う。もう一つ大きなサイズがあるのに、わざわざ小さなサイズを買ってるあたり、俺には食わせずに見せびらかすつもりだったんだ。ほんと性格の悪さがにじみ出てるよ!」
「あー……」
柊子はあれを一人分でないサイズだと思った。ただし柊子は末っ子特有の、そこにあるものは全て自分のものという行動を地でよくやる。無意識の行動で、あらかじめ分けるのだと告げられているとやらないのだが、言われてないとやらかす。卓朗は最初驚いていたし、叔母の美晴はよく呆れているし、こどものころに姉と兄に叱られたこともあった。
そんな自分は一人で食べてしまったが、あれが二人分以上を想定されているのは明白だ。
とはいえ、卓朗の好物なのだ。しかもここまで憤るほど。あの梓が知らないとは思えない、気がする。セオリーに則るなら、もうワンサイズ上を買う。あくまでセオリーに則るなら。……現に貴久の袋には沢山のラスクが入っていた。
いや責任転嫁はよくない。柊子は、自分ががめつく食べ尽くしてしまったことに罪悪感を覚えた。柊子の癖を梓が知っているはずがない……多分。
「ごめんなさい。買ってくるわ。私ももう一度食べたいし」
柊子の提案に対し、卓朗は顔をしかめたままで首を振った。
「この辺にはない。大阪まで行かないと」
「お……おおさか?」
柊子は目を見開いた。
「今はネット通販が休止中なんだ」
詳しすぎる。
「誰かに頼んだのか自分で買いに行ったのか分からないけど、何にせよ手が込んでやがる」
柊子は唖然としていた。
「そこまで計算ずくなら、……梓さん、こ、怖すぎるんだけど」
「そうだよ。知ってる」
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