セイレーンの家

まへばらよし

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第三章 松井柊子

第二話 対峙

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 卓朗が店を出て、駐車場に向かう手前で電話が鳴った。母の負け惜しみかと思ったが、相手は違った。
 柊子からだった。
「はい」
『卓朗さん、あの』
 弱い声に、背筋が伸びた。どうかしたのかと聞く前に、懐かしい声がした。
『卓朗、私よ』
 全身に羽虫が這ったような感覚がした。
『柊子さんの具合が悪くなったの。迎えに来て』
「何故あんたが柊子と一緒にいる。柊子に何をした!」
『今いる住所をメッセージで送るわ。柊子さんの携帯から送るから、私の着信拒否は解除しなくていいわよ』
 余裕綽々の物言いで姉の梓は電話を切った。かけ直そうかと思ったが、約束通りすぐにメッセージが携帯に入った。姉の家の近くのようだった。
 卓朗は車に乗り、ナビに住所を入力し、車を発進させた。


◇◇◇


 柊子が貧血を起こし、介抱してくれていた梓は優しかった。横にさせてくれ、喫茶店のマスターから膝掛けまで借りてくれた。
「ごめんなさい。まさかこんなことになるなんて思ってなくて」
 不用意だったわと梓は始終申し訳なさそうにしていた。
 だから、柊子が卓朗に電話をかけ、話をするのがおぼつかないと判断し、電話を替わった梓の豹変振りに目を見開いていた。電話の向こうでの、初めて聞いた卓朗の激高した怒鳴り声にも驚いたのだが、それに対し眉一つ動かさず淡々と対応している梓にもびっくりした。
「今からだと三十分くらいかしら」
 彼女は冷静に腕統計を見ていたが、しかし柊子には親身の視線を向けた。
「大丈夫よ。あなたをここに放置したりしないから。……こんなことなら、三柴さんにも残ってもらったらよかったわね」
「……あの」
三柴裕樹みしばゆうきさん、あの人、しっかりしてるわね。成人になったばかりじゃなかったかしら」
「裕樹君は、息子さんの方で、先ほどの彼は貴久さんです。お父さんの方」
「は……おとうさん?」
 柊子の言うことを把握したのか、しばらくして梓は口を押さえた。リアクションが卓朗と同じだった。
「……私より年下だと思ってた」
 発した言葉まで同じで、柊子は笑ってしまった。その顔で多少安心したのか、梓もふうと息を吐いた。
 柊子にも余裕が戻ってきた。
「私たちのこと、お調べになったんですね」
 梓は気まずそうな顔をした。
「ごめんなさい。その通りよ。それで、あなたの昔のことも知って」
 柊子は一瞬息を詰め、目を閉じてからゆっくり息を吐くように意識した。
「……そうですか」
「でも、私が言いたかったのは、あなたのことというより、卓朗のことだったの。……卓朗は、騙されて帰ってくるかもしれないから、気を付けてって」
 横になったままで、柊子は梓を見た。どういうことなのか聞きたいのだが、そのまま尋ねるのは不躾だ。
「勝原さん、その辺の椅子、使っていいからね」
 しゃがんでいる梓に、マスターと思われる年配の女性が声をかけた。梓はありがとうと言って、椅子を引いて柊子の傍に戻ってきた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ないです」
「柊子さんが謝ることじゃないのよ。悪いのは私だから。しかもこの後、私と会ったことを卓朗にいろいろ聞かれるはずよ。こっちこそごめんなさい」
 梓は目を伏せた。
「私もねえ、卓朗のことが大嫌いなの。憎いとも思ってる。そんな自分がおかしいことも分かってる」
 まだ呪縛から逃げられないのと梓は言った。
「私の母は、自分が一番で崇められないと我慢ならない人なの。母は、一番自分を幸せにしてくれそうな父を選んで結婚したわ。でもちやほやされた過去も忘れられなくて、結婚しても周りの男たちに媚びを売ってた。もしかしたら、そうして父を嫉妬させて楽しんでいたのかもしれない。そんな母に父は耐えられなくなって愛人の元に行った。いよいよ父が帰ってこないって、……あれは受け入れるっていうのかしらね。諦観かしら。言葉の定義はどうでもいいんだけど、母は卓朗に執着するようになった」
 梓はまた苦く笑った。
「あなたは知っておいた方がいい話だから、いやな話だけど聞いてほしいの」
「私も、勝原さんが嫌でなければ、知りたいです」
「そうよね。自分の恥を言いたくないのかもしれないけど、卓朗は卑怯よね」
 隙あらば弟を落とす姉でごめんなさいと、梓は肩をすくめた。
「父が出て行って、母は私を卑下するようなことを繰り返し言うようになった。対して、卓朗のことは猫かわいがりし始めた。一方で、私に対して、ここをこうしてくれたらあなたの事が好きになれるって言うのよ。私は母に愛されたくて、奴隷のように母の言うことに従ってた。学校の成績のことも、家のことも、母に振り向いてもらいたくて必死だった。でも母の興味は卓朗からは離れないの。悔しくて悔しくて仕方がなかった。でも一番悔しかったのは、そんな母のことを、あの人はおかしいって弟が撥ね除けたことだった」
 柊子の目の前で、梓は手を握りしめた。
「ある日ねえ、母が言ったのよ。あの子に……卓朗にこどもができたら母さんどうしようって。多分、私たちの……、私と夫のあいだのこどもより愛するに決まってるって」
「それは」
 異様だ。
「ええ、私は母に操られてたのよ。母は卓朗を独り占めしたくて、結婚もさせたくなかったのが母の本心よ。私はそれを知ってた。なのに踊らせれたのか……自ら踊ったのかしら。上の子が四歳のときだったの。おたふく風邪にかかって。治りきったかな、と思ったときに、下の子がぐずるようになった。うまく隔離できなくて、移ってしまったかもって思ってた。……知ってて、でもそれを卓朗には告げず、半日だけ下の子の世話をしてほしいって卓朗にお願いしたの。卓朗が、私には少し含むことはあったでしょうけど、こどもたちには甘いのを知って、利用したのよ」
 使い込まれた木馬。たてがみの彫刻が美しい作品。
 こどもも、大人も愛さずにはいられない子馬。
「卓朗は罹患したわ。母はなんてことをしたのかと私を責めた。全てから逃げたくて部屋に閉じこもっていた日に、夫が言ったのよ。君はおかしいって」
 柊子は息を潜めて聞いた。自分の呼吸の音が梓の邪魔にならないようにと、祈るように待った。
「夫はこうも言ったの。私の母もおかしい。私の母は、私たちのこども二人のうち、息子の方ばかり露骨にかわいがって、娘をじゃけんにしてるって。同じ時に、卓朗が贈ってくれたあの木馬に乗ってる娘に、母が、女の子がそんなものに乗ってはしたない、弟に譲りなさいって言ってるのを見た。……あの木馬は、娘の為にって、卓朗が選んでくれたもので、……卓朗が、あの子を抱っこして、あの子と一緒に選んだ、お気に入りの木馬だったのに。乗ろうとしなくなった姿が、私と重なって」
 梓は絞るように言葉を吐いた。
「それで母から、こどもたちを逃がさないといけないってやっと思えたのよ。自分が強くなって盾にならないとダメだって。……私は、本当に運がよくて」
「え」
 そうだろうかと柊子は疑問に思った。梓は横顔にあたたかいものを見せた。
「夫が心理学を学んでいたのよ。ツテを辿ってくれて、いい先生に出会えたの。まだカウンセリングは続いているけど、母と距離をおけるようになった。……もしかしたら、そうして私が母を俯瞰で見ることができるようになったのと、卓朗が結婚したのを親族から聞いたからでしょうね。母が、あなたのことを調べるって言い出して、協力してほしいって」
 柊子が身構えたのを見て、梓は慌てて首を振った。
「落ち着いて聞いて。母から結果を聞くのに、私にも同席しろと言われたの。私も母が暴走しないように見張っておきたかったから、あなたの身辺調査の報告を母と一緒に聞いたの。……あなたの過去の噂のことは出たけど、あくまで噂の範囲内で、まったく事実無根だって調査員さんも言っていたわ。これも、調査員さんは私たちに言う予定じゃなかったことを、母が手管を使って聞き出したのよ。母は、嘘も、本当のように全く呵責なく言える人だから」
 梓は一息入れ、柊子に対して親身な視線をよこした。
「今日、卓朗は母と会っているはず。この後もし、卓朗が母の嘘を信じているそぶりをしたら、私に連絡してくだ……」
 柊子は目の前で、梓の顔が強ばっていくのを見た。憎悪に歪め、一方で自分を殺そうとしているほどの切羽詰まった横顔だった。梓こそ倒れるのではないかと、柊子が身を起こしたとき、梓は臨戦態勢のように息を吐いた。
「来た」
 窓の向こうに、憤怒の表情をした卓朗が立っていた。
 こうして比べると、切ないほどに二人の顔は似ていた。
 梓は勢いよく立ち上がった。喫茶店に入ってきた卓朗は、足音荒く梓の前に来た。
「俺の妻になにをした」
「あなたの奥さん、貧血を起こしたのよ、早くなんとかしてあげて」
 卓朗が柊子に視線を向けた瞬間、梓はさっと卓朗の傍を通り抜けて喫茶店を出た。卓朗は一瞬梓に顔を向けたが、すぐに柊子の前に膝をついた。
「貧血って、前にあったみたいな?」
「そう。でももう大丈夫」
「……なにが」
 卓朗はいいかけたのだが、柊子の具合が悪いことと、場所も気になったのだろう、そこから黙って、柊子の手に自分の手を重ねた。
「冷たい。立てそうか?」
 柊子はうなずいて、卓朗に手を引かれて立った。会計はすでに梓が済ませていた。
「お騒がせしました」
「いいえ。大丈夫……勝原さんの娘さんも息子さんも、皆さん、お元気ですよ」
 卓朗は目を見開き、辺りを見回し、息を吐いた。緊張を解き、穏やかな顔で喫茶店の店主らしき男性に丁寧に会釈した。
「そうか。ご無沙汰してます」
 卓朗は柊子を車に乗せ、自分も運転席に座ってから、喫茶店を見上げた。
「来たことがあったのに、気が付かなかった」
「いいお店だったわ。とても親切にしてくれて」
「うん。昔も、……昔からそうだった」
 卓朗は車を発進させた。

 卓朗のマンションに戻り、柊子はソファに座らされた。卓朗は、彼が先日熱を出したときに、柊子が用意したカフェインレスの黒豆茶が気に入ったのか、柊子にそれを淹れてくれた。
 時間をかけてお茶を飲み干すと、卓朗にマグを取られた。彼はそれをローテーブルに音をたてて置き、柊子の隣に座った。
「何があった。姉に、何をされた」
 梓に一連の出来事を聞いたあとだったので、柊子は、決して大げさではない卓朗の危惧も理解できた。
「何もなかった。私と話をしたかったって」
「それだけでどうして貧血になる」
 柊子は、まだ動揺している、その自覚があった。どこから話すのがいいか分からないまま、まず話の最初を思い出した。
「木馬の修理を依頼されて」
 卓朗は、思わぬ単語が出たからか、険しい顔から怪訝なそれに変えていった。
「あなたが、梓さんの娘さんに贈った木馬を、綺麗にして従兄弟さんに贈りたいって、あ……従兄弟さんて、田所さんかしら」
 今になって柊子は、点と点が結びついて納得した。卓朗も妙な顔をしていた。
 懐かしさ、意外さ、そして憐憫。
「あれが、まだ、残ってたのか」
「梓さんの息子さんも遊んで、思い出の品で捨てられなかったって仰ってた。写真を拝見したのよ。背景が女の子の部屋みたいで。もしかしたら、乗らなくてもインテリアで飾っていたのかも」
 卓朗は、狐につままれたような顔で、視線を空に置いた。
 彼の姪のことを思い出しているのかもしれない。卓朗も梓も言っていた。卓朗は姪御さんを抱っこして、好きなものを選ばせたという。
 小さな女の子が、すぐに木馬に辿り着いて買ってほしいと言ったとは思えない。きっと彼は、抱き上げたままでいろんな場所を練り歩いたはずだ。
 根気強く、愛情を持って。
「卓朗さんは、こども、好きよね」
 卓朗は我に返って柊子の目を見た。
「ああ、普通には」
「どうして」
「どうして……?」
「卓朗さん、どうしてこどもが好きなのに、必要ないなんて言うの」
 小さなこどもが、卓朗に手を引かれている姿を想像し、胸が痛んだ。複雑だけれど、冷淡なひとではない。激しいものを持ちながらも、慈しむ心もある。洞察力に優れ、何事もすぐに切り捨てたりしない、汲み取れるひとだ。
 父になれるひとなのに。
「まだ、……間に合う、んじゃ、な、いかし……ら」
「なに?」
「こども、欲しい、なら……私は、むり、だから」
 離婚を。
 その言葉がどうしても出せなかった。彼の幸せを望むのであれば、言わなければならないのに。
 自分の幸せをふいにしたとしても。

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