セイレーンの家

まへばらよし

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第一章 桐島柊子

第十三話 腕に抱かれる

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 卓朗は新婚旅行でコツを掴んだのか、躊躇ためらいもなく柊子を抱き上げて移動した。柊子はソファに座らされ、卓朗は隣に座り、肩を寄せて柊子の手を握った。
「手が冷たい。気分が悪いのか?」
 柊子は何も言えなかった。額に手を当てられ、触れ合いに誘われ卓朗の肩に顔をうずめた。
「とうこ……」
 戸惑った声の後半が消え、名だけを呼ばれたような気がした。快感のようなものが背を伝い、柊子は卓朗の袖を掴んだ。
 名を呼ばれることがこんなにも嬉しい。彼の遠慮などいらない。所有されたい。彼に縛られ、身動きが取れないようになりたい。倒錯していると引かれたとしても。
 彼の造り上げた檻のなかにいっそ囲われたい。外のものなど見えなくなるまで。
 不可能であるからこそ渇望する。
「横に、なったほうがいいのか?」
 ひび割れたような声だ。柊子が顔を上げると、卓朗は眉を寄せていた。
「大丈夫」
 息を吐いて、吸って、それを意識して繰り返した。卓朗の存在を間近に感じていると落ち着いてきた。もう一度卓朗の肩に額を置く。柊子の頭の上で、卓朗が大きなため息をついた。
「君の義姉さんの言った通りだな」
「え」
 柊子は肩を抱えられ、やんわりと卓朗から離された。
「こんなふうに甘えてくるのか」
「……嫌だった?」
 柊子は眉をひそめて卓朗を見る。
「まさか。嬉しい、……のは嬉しいんだけど」
 卓朗は目を逸らせ、柊子から手を離し、両肘をそれぞれの膝の上について前屈みになった。
「柊子さんは、どういうところにこだわる?」
「何が?」
「家、俺たちの家。建てるなら、どういったところが譲れない?」
 卓朗は顔を柊子に向けてきたのだが、次は柊子が目を逸らせた。
「……考えさせて」
「考える?」
 その格好のままで二人は黙り込んだ。卓朗はまた顔を前に向け、ぼそりと呟いた。
「嫌そうだな」
 柊子はびくりと肩を奮わせた。嫌なわけがない。卓朗の造るものであれば、牢獄であっても喜んで入る。
 ただ、その牢獄でさえ失うのかもしれない。
 消失が怖い。望んだものを一度手に入れ、それを奪われるのではない、手放さなければならない苦痛など二度と。
 自分でさえ持て余している感情を卓朗に伝える術も分からず、何も言えなかった。

 それからしばらく、卓朗の仕事が忙しく、彼はマンションで過ごす時間が少なかった。ほとんど顔を合わせることなく日々が過ぎた。
 日差しが暑くなってきた頃、定時に戻った卓朗と、久しぶりにテーブルを囲んで一緒に夕食を摂った。
「今週か来週末あたり、でかけないか?」
「行きたいけど、いいの?」
 柊子の二つ返事のような即答が意外だったらしい。卓朗は誘った割に驚いた顔をしたが、やがて表情を緩くしていった。
「いいよ」
 柊子が喜びの感情のままに微笑むと、彼もまた笑顔を見せてくれた。それが嬉しくて、柊子はますます笑った顔になる。
「行きたいなら、柊子さんが誘ってくれてもいいのに」
「次はそうする」
 週末に、卓朗に誘われ向かった先は在宅機器メーカーのショールームだった。柊子はなるほどと思った一方で、当然、卓朗が家を建てることを諦めてなどいないことを汲んだ。
 真新しく、システマチックな水回り器具を見ているのは楽しいが、自分の趣味に一致するものを見るのは辛い。柊子が複雑な気分でそれらを見ているのを、卓朗は厳しい顔をしつつも、黙って観察していた。
「蛇口は、このタイプが便利よね」
「そうだな」
「前に住んでいたところで、両方の蛇口をひねって、お湯の温度調節を毎回しなければいけないのは面倒だったのよ。だからそれからは不動産屋さんに毎回聞いてたの」
「そんなに何度も引っ越ししたのか?」
「そうね。七回ほど?」
 卓朗はふいと首を向けてきた。
「そんなに?」
 卓朗は唖然とした顔をしていたが、気を取り直し洗面台を指さした。
「洗面台にシャワーヘッドがあったほうがいい?」
「それがあった部屋を借りたこともあったけど、一度も使わなかった」
 卓朗はそんなふうに、見学できるものについて意見を聞いてくるが、気に入ったものがあったかどうかは尋ねなかった。
 もう一件、他社のメーカーのショールームも見学に行ったが、卓朗は似たような問答を柊子と交わしただけだった。
 おひるどきになり、車に乗り込み、エンジンをかける前に卓朗は柊子に話しかけた。
「昼は外で食べようか。何がいい?」
「久しぶりに外のラーメンが食べたいかも」
 卓朗はおっと顎を上げた。
「そういや俺も最近食べてないな。いいね。行くか」
 柊子のお勧めの店まで行き、二人でラーメンを食べた。店先の駐車場で、卓朗は道路を挟んだ向こう側を見ていた。
「こんなところに家具屋ができていたのか」
 柊子も知らなかった。惹かれて見ていると、卓朗が笑ったような声を出した。
「入ってみようか」
「ええ」
 一階の通りに面したガラス窓の一画はショールーム型の展示だった。奥にはテレビ台やテーブルと椅子、小型の収納家具などが各種並んでいる。柊子と卓朗は雑談をしながらそれらを見て回った。二階は大型の、ベッドや箪笥などが並んでいた。
「柊子さんはベッドを買わないの?」
「ええ」
 かつては引っ越しのときに荷物になるのと、スペースの問題もあり布団の生活だった。現在も毎日布団を上げ下げしている。柊子が卓朗と住んでいるマンションの、彼女の部屋は狭くはなく、ベッドがないと部屋はがらんとした雰囲気になっていた。
 結局、テーブルや椅子などの家具は新しく借りていない。私用のパソコンはノート型で、卓朗の持っていた食事用のテーブルで事足りている。
「あ。いいな。これ」
 卓朗が見ているのはワードローブだった。重厚でいかにも彼らしい。ふと柊子は、その隣のやはりワードローブに視線を置いた。
 扉に彫刻がある明るい木の素材でできているが、少しレトロな雰囲気を持たせたものだった。見たことはないが、不思議の国のアリスなどで登場しそうな風情がある。
 ここに、自分の服が入っていたら素敵だわ。柊子はそう思いながら見上げていた。
「買う?」
「え?」
 卓朗に尋ねられ柊子は我に返った。
「プレゼントする。結婚祝い。婚約指輪は必要ないって言ったから用意しなかったけど、何が贈りたいって思ってたから」
 卓朗は静かにそう言いながら柊子の様子を伺っている。
「い、いら、ない」
「どうして?」
「どうして? どうしてって……」
 柊子は視線を外し、床を見た。そこには何もないが、柊子は頑なに目線を下に向けていた。
「今の、マンションは、収納があって」
「いや、新しい家に」
 柊子ははっとして顔を上げた。
「収納スペース分をこのワードローブに変更すればいい」
 すでに脳内で製図しているかのように、卓朗はワードローブを見上げていた。
「これは一生使えるいいものだよ」
「い、いらない。のよ。ほんとう、に」
 卓朗は柊子をもう一度見た。大きな疑念を込めた顔をしていた。
「やっぱり嘘が下手だな」
 自分がどんな顔をしているのか、柊子は分からなかった。卓朗は柊子の手を取った。
「冷たい手をしている」
 なお動けない柊子の手を引いて、卓朗はゆっくり歩いた。連れて行かれるがままに二人は店を出て車に乗り込んだ。
「柊子さんは、自分がどんな顔をしてあのワードローブを見ていたか分からないか?」
「え?」
 尋ねられたことが予想外だった。柊子はそれまで膝に視線を置いていたが、顔を上げ卓朗を見た。
 卓朗は少し、寂しいといった顔を見せた。
「君は、自分が気に入った、好きなものを本当に一途に見てるよ」
 掠れた声が出た。
「どうしてあんな」
 だが、卓朗はそこで言葉を切ってしまった。それ以上は何も言わず、車のスターターに手を伸ばした。エンジンがかかり、車はゆっくりと前進した。

 喧嘩、など大したほどではないが、しかしお互い気まずい日が続いた。気まずいと思っているのは柊子だけかもしれない。柊子から思うに、卓朗の言わんとしているところは理解できる。卓朗に後ろ暗いところはないはずだ。
 あるのは柊子の側だけだ。
 柊子は、美晴の家で仕事をしていた。お昼になり、美晴と昼食を食べていると宅配が届いた。
 叔母の友人からの荷物だった。
「叔母さん、いつもの」
「あら。また旅行に行ったのかしらね」
 美晴の友人はマメに美晴にこうしておみやげを贈ってくれる。叔母が早速中を開けている横で、柊子は食器を片付け始めた。美晴は柊子の背に「流しにおいてそのままにして」と言いながら、ガムテープを剥がしている。
「あら、いいわね。香川に行ったのね。何これ」
 叔母が取り出したのはオリーブの瓶詰めだった。
「あ」
「何、柊子、あなた分かる?」
「オリーブよ。それ」
「オリーブ? あのオリーブオイルとかの?」
「そう」
 美晴はまじまじと瓶を眺めていた。
「どうやって食べるのかしら」
「そのままでも、料理に入れても。卓朗さんがおつまみでよく食べてる」
「あら、そうなのね。なら柊子、あなたこれ持ってかえる?」
 美晴は段ボールからもう一つ、同じものを取り出した。
「もうひとつあるし」
「いいの?」
「私はあんまり、食べ物で冒険できるタチじゃないからねえ。彼女はこういう、しゃれたものよく食べるんだけど」
 柊子はありがたくもらって帰ることにした。これをきっかけに、少しでも仲直りしたいと思ったのだ。
 彼は時々、柊子が修理した恩師の椅子に座ってお酒を飲んでいる。フィン・ユールに座る彼を羨ましいと思い、そして、その姿を一生眺めて見ていられるとも思う。彼は貫禄がないというが、そんなものは必要がない。
 彼がああしてくつろいでいる空間こそ、柊子の宝物である。
 誰かが絵に描いてくれればいいのにとひそかに思っている。写真でなくて、絵画がいい。油絵かアクリル絵の具で、筆の跡が分かるような重いタッチのもの。
 
 柊子が仕事を終え、マンションに戻ったとき、卓朗はまだ帰っていなかった。テーブルに美晴がくれたオリーブの瓶を置き、柊子はしばらく、No. 45の椅子を眺めていた。
 玄関で施錠の音がした。ほどなく卓朗がダイニングに入ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 卓朗は鞄を置いたあと、洗面所で手を洗って戻ってきた。卓朗は、柊子からフィン・ユールの椅子に視線を動かした。
「椅子を見てた?」
 柊子は目を見開いた。
「すごい。どうして分かるの?」
 卓朗は笑ったが答えてくれなかった。そしてテーブルのオリーブに目を留めた。
「どうしたの。これ」
「叔母さんがくれたの。叔母さんのお友達がね、送って下さった分で、二瓶あったから、ひとつどうぞって」
「お礼言わないと」
 彼は瓶を持った逆の手で、携帯を操作し叔母に電話を入れていた。
 卓朗は早速、美晴から貰ったオリーブを開けた。小皿に移してそれをおつまみにビールを飲んでいる。件の椅子でなく、何故か柊子の対面で、テーブルで向かい合っていた。
 柊子はそれが嬉しかった。柊子も夫の晩酌に付き合った。
 二人とも、何も言わなかった。仲直りできたのかしらと、柊子は思いながらオリーブに手を伸ばした。

 椅子修理のオーダーを受けた。修理を終えた土曜のある日、柊子は納品に向かった。卓朗の時と同じく貴久と、今回は柊子の師である久司も同行した。久司のツテの仕事だったからだ。
 納品完了後、昼は久司の家でごちそうになった。結婚祝いらしい。柊子が戻ったときは午後三時過ぎになっていた。
「おかえり」
 卓朗が玄関まで迎えに出てきた。今まで、柊子がどこかから戻ったときにこんなことはなかった。意外に思っていると、彼は柊子の持っていた荷物を取った。
「部屋にどうぞ」
 卓朗はそわそわしている。促されるままに柊子はダイニングに入った。ベランダがある大窓の前にはフィン・ユールの椅子、No. 45があった。
 二脚の椅子が。
「え」
 柊子が呆然と、ダイニングに入った戸のすぐ内側で立っていると、卓朗が椅子の、新しい方の背に立った。
「柊子さんの椅子」
 柊子がおそるおそる足を進めていく。椅子を挟んだ卓朗の前に立ち、黙って椅子を見続けた。
「俺からの結婚祝い。これなら喜んでくれるかと思って」
 少しだけ怖々とした、伺うような声だった。それだけ彼にも気を使わせていたのだ。
 こんな自分のために。
「柊子さん……?」
 前が見えなくなった。涙で滲む視界から、全てを消すように瞼を閉じた。もう一度目を開けても、素晴らしい椅子はそこにあった。
 どうして。
 涙が零れて落ちて、床にぽたりと音を立てた。その前に卓朗はやってきた。
「とうこ……」
「どうして、分かるの?」
「なにが?」
 柊子は耐えられず、顔を手で覆った。
「卓朗さんが、あなたの先生のものだった、修理前の椅子を私に見せてくれたときから、ずっと、想像してた」
 柊子の前で、卓朗は目を眇めた。
「No. 45の椅子に、それぞれ座って、一緒に……わたしの、夢だったのよ」
「じゃあ、何故そんなふうに泣くんだ」
「嬉しい」
 卓朗はそれ以上、何も言わず柊子を引き寄せた。なぐさめのようにそっと抱きしめられた。柊子は手を卓朗の背に回す。しがみ付いて力を入れ、肩に顔を埋めたとき、卓朗の手にも力が入った。
 強く抱きしめられ息が詰まった。そのわずかな苦しさが愛おしい。
 顔を上げられた。
 柊子は目を閉じ、卓朗を待った。
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