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待つのは辛いから

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「戻りました」

 ヒナギが警察署に戻ると、ミツキが書類を睨んでいた。声をかけても顔を上げやしない。そういえば、昔はこの人の近くに行くと警戒されているようだったが、今はそこまで気を張ることはなくなったようだ。

「……ああ、どうだった」
「ゼリーを少し……。あまり食べられないようで、あの、帰らなくていいんですか?」
「今はやることがある」

 ミツキの目の下には暗い隈がある。ソウタが帰ってきて病院にいる時からずっとまともに寝ていないのかもしれない。早く何があったかを明らかにしてソウタを安心させてやりたいのだ。ヒナギはそれも必要なことだろうが、今のソウタはミツキが帰ってくるのを待ってるのだと言いたかった。

 けれども、その前に言わなければならないことがある。

「ミツキさん」
「なんだ」

 返答する時間も惜しいというように、つっけんどんな声だけが返ってくる。

「バレました」

 書類をめくる手がぴたりと止まる。まず目だけでヒナギを見、それからゆっくりと立ち上がった。

「おまえ……」

 無表情から憤りの顔に変わる。怒声になりそうなのを必死に抑えているのがわかる。震える手がヒナギの襟元を掴んだ。

「すみません」
「おまえは、もう人を傷つけないと言ったはずだ」

 協力員になる時、「嘘」をつくなと念押しされた上でヒナギは誓った。人を傷つけることを「捨てる」と。そんな大雑把な約束、奇言カタラであっても強制力は持続しないに等しい。せいぜい三日で消えてしまうものだ。それでも――ヒナギは口にしたからには守りたいと思っていた。そのはずだった。

 ミツキは口うるさいが、ヒナギのことをよく見てくれている。ヒナギが協力員となったのをミツキは嫌がった。泥棒に鍵を預けるなんてバカらしいと。金のために人を切るような奴はろくでもないと。でも、その後、謝罪についてきて一緒に頭を下げてくれたのはミツキだった。不用意に奇言カタラを使った時怒ったのも、逆に上手く行った時よくやったと無愛想ながら言ってくれたのもミツキだった。

 リツだけではなく、ソウタもミツキも悲しませたくはない。そのはずだったのに。

「オレとリツの様子から気づかれました」

 ミツキの手から力が抜け、尻餅をつくようにがっくりと椅子に戻る。頭を抱えて机にうつ伏せた。

「リツに……振ってほしいと言われました」

 しばらく動かなかった。ミツキは目を閉じて考えていた。どうするのが一番いいのだろうと。しかしどう考えても結論はひとつしかない。これ以上、ソウタを騙すことになるのは嫌だった。もう一度裏切れやしなかった。

「……リツに任せる。おれの鍵を渡してくれ」
「はい」

 ヒナギはポケットの中で鍵を握った。ミツキから預かった彼の家の鍵だ。

「ミツキさんも、少し休んだらどうですか」
「おれは出かけてくる。後は頼んだ」

 そう言い捨てると、ミツキはカバンひとつ持って部屋を出て行った。残されたヒナギはぼんやりと天井を見上げた。いつかソウタが帰ってきて、怒られる覚悟はできていた。……そんなのは口ばっかりだ。涙が出そうになるのを堪える。泣きたいのはオレじゃない。

 一度唾を飲み、スマホを出した。経緯はどうあれ知られてしまったからには、リツから話をするのがせめてもの誠実さだろう。

「もしもし、リツ。……話がある」





 カチャと音を立てて、ミツキの家の鍵がリツの手に握られた。リツは話を聞いて、自分がソウタと話をすることに同意している。リツもわかっていた。言う時がくれば自分が言うべきだと。ただ、思っていたより早くその時が来た。

「ごめん、言いにくいことを頼む……」
「ぼくはヒナギくんと付き合ったこと、後悔してないよ。でも……待っていたかったんだ。ソウタさんに帰ってきて欲しかった、それは本当」
「……そうだな。待っていられたらよかった」

 今更のことだ。そうならなかったのは仕方がないのだろう。けれども、ソウタがどこかで苦しんでいる間、自分たちが幸せでいたと言うのは罪悪感があった。彼の帰ってくるはずの場所を無くしてしまったことにも。

「だから、ちゃんと言わなきゃいけないのは、誰でもない、ぼくだ」





「ソウタさん、入るよ」

 玄関ドアを開けるとソウタが顔を出す。本来ならうちに帰って来れたはずなのに、悪いことをしたと思う。ソウタがどこにいたのかまだわからないが、きっと帰りたいと思っていただろうに。帰ってきたらきっとまたリツといられると、以前と何も変わらない生活ができると信じていただろうに。

「リッちゃ……リツ。ミツキくんは?」
「……ソウタさんを探してる男がいたんだ。その行方を追っている」

 そう聞くと、彼は痛そうに、ない腕を押さえた。それがケガのためだけではない痛みにリツには思えて、そっと近くに座る。帰ってきた時よりやつれていた。あまり食べられていないそうだ、無理もない。

「知ってる人だろうか」
「……わからない。よく覚えていない」

 そこで会話が途切れる。リツが自分から言わなければならないと口をひらこうとした時、それを遮るようにソウタが聞いてきた。

「リツはヒナくんとは長いの?」
「……ここ一年くらい」
「そうか。待ってるのは長いもんなあ」

 この家に来てからまだ三日も経っていないのに、ミツキを待つ時間はとてつもなく長かった。病院でただ寝ている時よりずっとミツキが帰ってくるのが待ち遠しく、寂しくて不安だった。だから、リツを責められない。よく三年も待っていてくれたと思う。ヒナギがいなかったら壊れてしまったかもしれない。

「リツが元気そうでよかった。ヒナくんのおかげだなあ」
「……うん」
「もう、俺、いなくてもいいな」

 昔と同じ、朗らかな顔で笑って言うので、リツは何も言えなくなる。

「リツ、ちゃんと振ってくれ。お前のことなんてもう好きじゃないって」

 ソウタは真っ直ぐにリツを見た。それが珍しく真面目に語る時の彼の目であったことを思い出し、リツも居住いを正してソウタに向き直る。嫌いになって別れるわけじゃない。でも、それは彼にとっての救いにはならない。

「……ごめんなさい。ヒナギくんのことを好きになりました。別れてください」
「うん。あんまりヒナくんに心配かけないようにな」

 そんな言葉を言わせてしまった自分に腹が立つ。リツは手を握りしめ、ソウタが悪いわけじゃないことを強調する。

「ぼくが待てなかっただけだ。ミツキはずっと待ってたのに」
「ミツキくんが?」

 なぜと言うようにソウタが目を見開いた。

「そう。あいつはずっと帰ってくるのを信じていた。だから、ミツキのことは信じて欲しい。きっと助けるから」

 ソウタはなくなった手を右手で包み、泣くように顔を歪めた。わからない、自分でもどんな感情かわからなくなる。

「痛い? たしか薬が……」

 ところがそう聞かれた途端、ソウタがはっと身をこわばらせる。見るからに蒼白になり、呼吸さえ困難になっている。手で胸を掻き抱こうとするが、左手首がなくどこか不安定だ。それでもソウタは身を屈めるようにして絞り出す。

「……思い出した」

 何をと一瞬思ったが、意味するのはひとつだろう。ソウタがいなくなってからのこと。

「そっか、仕方ないよな。俺、他のやつのこと『好き』って言ってしまったもん」

 その時、続く切るように着信音が鳴った。リツのスマホからだった。
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