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もう、離さないで
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**彩矢**
MRI室で倒れてしまって以来、母はまた孫の世話を進んでしてくれるようになった。
それ見たことかと放っておけないところが、この母の良いようで悪いところかもしれない。
そんな母の弱さにつけ込むように甘えている自分が、一番いけないのだとは思うけれど。
保育園のお迎えをしてくれるだけで、とても助かる。
両親に甘えたい気持ちと、一人でやっていけると主張したい自分がいて、母の好意に素直になれない。
子供たちを連れてマンションへ帰ろうとしていたら、病みあがりなのだからしばらく実家から通いなさいと母は言う。
「晩ご飯くらい、ゆっくり食べてから帰ったらいいじゃないの」
母は器に盛りつけた揚げたての唐揚げを、テーブルにおいて引きとめた。
「大丈夫よ。なんでも一人でできるようにしておきたいの。お母さんだって、いつ病気で倒れるかわからないでしょう」
「私は倒れたっていいわよ。だけどあなたは小さな子供がいるんですからね。頼れる旦那さんもいないのに、病気になったらどうするのよ!」
世話にはなっても、母の小言は聞きたくなくて、やはり帰ることに決めた。
「悠李! マンションへ帰るよ」
「はーい!」
悠李はバァバの作った唐揚げを一つ摘んで頬張ると、保育園のバッグを下げてやって来た。
雪花の手をつないで玄関へ向かい、靴を履かせていると、
「じゃあ、これ持って帰りなさい」
夕飯のおかずを詰めたトートバッグを持たせてくれた。
「あ、ありがと……」
小言はいらないけれど、おかずならいるという私はやはり甘ったれだ。
断るのも悪い気がして遠慮なくいただく。
「いつもありがとう。じゃあ、また明日お願いします。雪花ちゃん、バァバにバイバイだよ」
「バァバ、バイバイ!」
雪花と悠李がバァバに元気よく手をふって玄関を出た。
「気をつけてね。悠ちゃん、雪ちゃん、また明日ね」
見送る母は、毎日会っているというのに寂しそうだった。
あんな風にいつか自分も子離れできなくなる日が来るのだろうか。
マンションへ戻り、母が作った夕飯を食べた後、子供たちとお風呂に入る。
さっさと洗って上がりたいけれど、子供たちはお風呂で遊ぶのが大好きだ。
水鉄砲を浴室の壁や天井に向けて撃っていた悠李は、飽きたのか雪花の顔に噴射した。
「うぎゃーぁ!」
最近の雪花は、悠李の欲求不満の吐け口にされているような気がする。
潤一からの電話で私が大泣きしてからだ。
悠李はパパの話しをしなくなって、反抗的な態度もなくなった。
言いたいことも言えずに我慢している悠李が可哀想で、負い目もあってか叱るのに躊躇する。
「雪花ちゃん、大丈夫よ。お風呂は濡れても平気でしょ」
泣きやまない雪花をなだめる。
「ゆうりいじわるー、うぇーーん!!」
勝気でプライドの高い雪花のご機嫌をとるのは簡単ではなく、どっと疲れを感じる。
できることなら雪花をなだめて欲しいけれど、悠李は素知らぬ顔で水鉄砲を撃ち続けている。
「ビューン、ビューン、、」
「悠李、雪花ちゃん泣きやまないんだけど、どうすればいいと思う?」
「知らない! 雪花うるさい!!」
悠李はムッとしながら、また水鉄砲を雪花に向けた。
「もうやめて。悠李は顔に水をかけられたらどんな気持ち? どうして人の嫌がることをするの?」
「雪花のほうがいじわるだもん。いつも邪魔ばっかりするんだから」
「雪花ちゃんはまだ小さいからわからないんだよ。悠李はお兄ちゃんなのにわからないの?」
少し考え込んでから、悠李は水鉄砲を雪花に渡した。
「じゃあ、いいよ、貸してあげる」
声の大きい雪花がやっと泣き止んでホッとする。結局、悠李に我慢をしてもらうことになる。
「ありがとう。悠李はやっぱり優しいお兄ちゃんだね」
褒められても悠李は少しも嬉しくない顔をしてお風呂を出た。
「悠李、待って! ちゃんと体を拭かないと風邪ひくよ!」
こんなとき、よそのお母さんはどんな風に対応するんだろう。
お父さんが一緒にお風呂に入ってくれたら、きっと楽しいのだろうな。
そんなことを考えていると、また暗くなってきそうで慌てて気持ちを切り替えた。
悠李の細い体をタオルで拭き、ドライヤーで髪を乾かす。
「はい、じゃあ、下着とパジャマは自分で着てね。雪花ちゃん、水鉄砲はもうおしまい。体を拭くよ」
水鉄砲で遊ばせていた雪花は、まだ遊び足りないようで呼んでも無視をした。
「じゃあ、ママもう行っちゃうよ、バイバイ」
お風呂のドアを閉めようとしたら、雪花は慌てて出てきた。
「わぁーん、ママ~!」
ドライヤーの風になびく雪花の明るい茶髪は、少し天然パーマになってる。そんな髪質さえも私の小さい頃とよく似ていた。
顔つきは少し潤一さんにも似てきたなと思う。鼻先から唇にかけてのラインとか、耳の形なんかは潤一さんにそっくりだ。
「はい、雪花ちゃん、とっても可愛くなったよ」
あんな裏切り者に似ていても、わが娘はやはり可愛い。
サラサラの髪になった雪花を抱っこしてリビングへ戻る。自分の髪にはドライヤーをあてる余裕がなく、タオルドライのみの生乾き状態。
顔にクリームさえも塗れないでつっぱらせたまま、面倒な子供の歯磨きをする。
「じゃあ、歯磨きをするよ。悠李は自分で磨けるね。あとでママが仕上げをしてあげるから」
「ジュース、ジュース!」
雪花が冷蔵庫を指さして騒ぐ。
りんごジュースを雪花のマグカップに注いで持たせた。
「悠李もジュース飲む?」
悠李は歯ブラシにメロン味の歯磨き粉をつけていた。
「いらない」
食の細い悠李は無駄食いというのをしない。
空腹であるか、のどが乾かないと飲食をしないのだ。
私も間食はさほどしないけれど、それでも美味しそうなものを見ると空腹でなくても食べたくはなる。
我慢をしているわけではなさそうだけど、あまりに要求が少ない気がして不憫に感じる。
なににつけ貪欲で、ストレートに要求する雪花とは対照的だ。
悠李はなんでも自分のしたいようにしている雪花が、妬ましいのだろうか。
歯磨きが終わって、やっとひと息つける。あとは眠くなるのを待つだけでいい。
スマホを見るとLINEに佐野さんからメッセージが来ていた。
どうしても聞きたいことがあるから、今から会いたいという。
今頃なに?
私が聞いて欲しかったときは聞きたくなさそうだったくせに。いじけたような気持ちになり、断りたい気分にかられた。
だけど…………。
期待してしまう気持ちが捨てきれず、 ” 子供が寝てからなら、少し会えます ” と返信した。
九時を過ぎてやっと子供たちが寝てくれて、佐野さんに報告をした。
すぐに返信がきて、駐車場にもう着いているという。
簡単なメイクくらいしたかったけれど……。
沙織さんの美貌にはとても勝てっこないし。
佐野さんは逢いたいわけではなく、聞いておきたいことがある、と言っただけなのだ。
そんなことを思うと、わざわざメイクなどすることが惨めに思えて、さっさとパーカーを引っ被ってマンションを出た。
車から降りて待っている佐野さんが見えた。
小走りでそばまで行くと、車の中で話そうという。帰宅するマンションの住人に好奇の目で見られるのも嫌なので素直に従った。
「り、離婚したって聞いて。俺、、彩矢ちゃんは多分しないんだろうなって、勝手にそう思ってしまって」
戸惑ったように伏し目がちに言った。
言い訳なんてしなくていいのに。いつまでもグズグズと決められなかった私のせいでもある……。
「離婚の原因って、やっぱり俺のせいなんだろ? 」
落ち着きなく視線を泳がせて佐野さんは聞いた。
そうだと言ったらどうしてくれるというのか?
問いつめてやりたいいじわるな感情を押し殺し、” それだけではないから気にしないで。沙織さんと幸せになって ” と言った。
それは本心ではなかったけれど、今更すがりついたところで惨めなだけだと思ったから。
「そんなこと言わないでくれ。……沙織とは別れたんだ」
佐野さん………。
「結婚しよう。俺たち結局こうなることが運命だったんだよ」
訴えるように切なく語る佐野さんの目を見て胸が熱くなった。
本当に、本当にいいの?
悠李と雪花の父親になりたいと言ってくれた佐野さんの言葉にすがりたくて。
母子家庭という不安から逃れたくて。
沙織さんのことはもうどうでもよくなってしまっていた。
「じゃあ、保育園に行くよ~! 悠李、お靴履いて~!」
「はーい!」
朝からご機嫌の私の声に、悠李も雪花も元気な反応を見せた。
やはりお母さんはいつも明るくなくてはいけないんだと、つくづくそう感じた。
その一方で、自分の心の単純さに呆れる。
昨日佐野さんに会うまでは、もう自分の人生など終わったかのように落ち込んでいたというのに。
「悠李、今日はママ、帰りが遅くなるの。バァバのお家で待っててね」
「ふーん、ママお仕事?」
「う、うん、できるだけ早く帰るから、雪花ちゃんと仲良く待っていて」
「わかったー!」
子供には嘘をついちゃダメなんて偉そうに言っていたけれど……。
別に隠すこともなかったかも。悠李と雪花にもそのうち会わせて、慣れさせよう。
最初は宅配のおじちゃんのままでいい。だんだん慣れてから、一緒の時間を増やしていこう。
佐野さんと暮らしたら毎日が楽しくて、潤一みたいな冷たい父親のことなど、すぐに忘れるに違いない。
こんなに心が浮き立つようなことって、本当に久しぶりだ。潤一への気持ちもすっかり冷めてしまって、あんなに後悔して泣いていたのが嘘のように思える。
ジェニファーと仲良く暮らしているはずの潤一を想像しても、それほど腹も立たなくなっているから不思議だ。
今では幸せに暮らしているといいな、なんて思えてくる。帰国したら雪花にも会わせてあげてもいいと思えるほど、今では潤一に寛大になれている。
そう思うと人の気持ちというものの危うさが、逆に心配にもなってくるけれど。
仕事を終え、地下鉄駅に向かって車道を歩いているところを佐野さんが拾ってくれる。
「彩矢ちゃん、どこに行きたい? 食べたいものはある?」
「佐野さんのアパートじゃダメ? まだ離婚したばかりだから、人目につきたくなくて、」
佐野さんのアパートと言ってしまって、少し後ろめたいような気持ちと、恥ずかしさがこみあげる。
佐野さんはどう思ったろう?
「アパートには何もないんだけど、じゃあ、スーパーかコンビニで弁当かなにか買ってもいいかな?」
「簡単なものでよかったら、なにか作るわ」
「それは楽しみだな。弁当は食べ飽きてるから、彩矢ちゃんの手料理のほうが嬉しいな」
「ごめんなさい。……多分、コンビニのお弁当のほうが美味しいとは思うけど。本当に簡単なものしか作れなくて」
「別になんだっていいんだ。……彩矢ちゃんがいてくれたら」
少し照れたように佐野さんが小声で言った。
お互いに恥ずかしくなって、シーンとしてしまったけれど、なんとも言えない幸福感に包まれた。
途中スーパーに寄り、オムライスならすぐに作れると思い、卵にピーマンやハム、玉ねぎなどを買った。
とても男の一人暮らしとは思えないほど、アパートはきれいに整頓されていた。
「相変わらずきれいにしてるね。ウチよりきれいだわ」
「昨日、あれから一生懸命掃除したんだよ。慌ててシーツなんかも色々洗濯して、、あ、いや、その、、」
思わぬ失言に赤面している佐野さんが可愛くて、いじわるな気持ちがわき起こる。
「ふ~ん、慌ててシーツを洗ったんだぁ。クスクスッ」
冷やかすように言って笑うと、開き直ったようにムッとした佐野さんに抱きすくめられる。
「好きだよ、彩矢ちゃん。本当に夢みたいだ」
「遼くん……」
佐野さんの暖かい胸の鼓動が懐かしく心に響く。
このまま、ずっとこのまま、もう離さないで。
オムライスの材料の玉ねぎやピーマンなどを切り、フライパンで炒めた。
オムライスは子供たちによく作ってあげる定番料理だから、味はともかく簡単に作れる。
男の一人暮らしは野菜不足だろうと、買い込んだ野菜を蒸したかったけれど、お鍋がなかった。
仕方なくレンジでチンをしてお皿に盛りつけた。
「うん、卵がトロトロで美味しい。随分手早くなったんだね。さすがは二児の母だなぁ」
ニコニコして食べている佐野さんは、本気で褒めているのかな。
よくわからないけれど、オムライスは家で作るよりも上手にできたので嬉しかった。
「お野菜も食べてね。レンジでチンすると簡単でしょう。一人でもちゃんと作って食べてね」
「えー、もう来てくれないのかい?」
「毎日なんて来れないもの。今日だって、仕事で遅くなるって言って来たし」
「だよなぁ、悠李も雪花ちゃんもママの帰りを待ってるもんな。早く一緒に暮らしたいなぁ」
「それまでにはもう少しレパートリーを増やすね。ごちそうさま。佐野さんはゆっくり食べてて。先に片づけとくね」
未だにお料理しながらテキパキと片づけるという技が身についていない。山積みされているボールやフライパンなどを洗う。
雪花と悠李は夕ご飯を食べ終わっただろうか。
佐野さんが食べ終えた食器を下げて、後ろから抱きついた。
「ごちそうさま。オムライスすごく美味しかったよ。料理上手になったんだね」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。私のお料理を褒めてくれる人なんていないから」
「悠李も不味いって言うのかい?」
「不味いとは言わないけど、バァバの作ったのが食べたいって、いつも言われる」
「ハハハッ、そりゃあ、お婆ちゃんには敵わないよな」
「お料理のセンスがないんだわ。いつまでたってもちっとも上達しないんだもん」
「そうかな? きっと褒めてくれる人がいなかったからだよ。これからは俺が毎日美味しいって食べるから」
「本当? 真っ黒こげのお魚でも?」
食器を洗い終えて、タオルで手を拭いた。
「いいよ、真っ黒こげの魚でも。彩矢ちゃんが食べられるなら。彩矢ちゃんが最高のご馳走だから」
佐野さんの唇がうなじにふれて、ドキドキする。多分こうなるとは思っていたけれど、なんといっても、なん年ぶりのことだから。
「彩矢ちゃん、いい?」
熱っぽく見つめられて、隣の部屋へ手を引かれた。
慌てて洗ったというシーツが敷かれたベッドへ押し倒され、セーターをまくりあげられた。
「遼くん……自分で脱ぐ。電気消して」
「う、うん」
今は佐野さんを愛してるし、結婚だってしたいから後悔はしないと思う。
でも離婚してまだ一ヶ月だということに、少し後ろめたさを感じた。
だけど、結婚していたときは惹かれあっていても、節度のある付き合い方をしていたのだ、私たちは。
………潤一さんとは違うもん。
遠い記憶にある佐野さんの懐かしい匂いと、激しくも優しい愛撫に気持ちが高ぶる。
「愛してるよ、彩矢ちゃん……」
お菓子を待ちきれない子供みたい。
せっかちな佐野さんの抱擁に、このうえない幸せを感じた。
二人のそんな甘い蜜月は二週間ほど続いた。
夕方、いつものように佐野さんに路上で拾われ、スーパーで買い物をしてからアパートへ向かった。
アパートの玄関ドアを開けた佐野さんが、立ち止まって動かなくなった。
「どうしたの? 入らないの?」
佐野さんが乱暴に靴を脱いで、リビングに慌てて入ったので、そのあとへ続いた。
佐野さんが寝室のドアを開けて、
「沙織、何してるんだ、起きろよ!」と言う声が聞こえた。
えっ、沙織さん? となりの部屋に沙織さんがいるの!
そんな、、
苛立ったように佐野さんは、また沙織さんの名前を呼んだ。
「……沙織? 沙織!!」
佐野さんの尋常ではない叫び声が聞こえた。
寝室をそっと覗いてみると、ベッドに沙織さんが眠っていた。
その深すぎる眠りは一見して普通ではなかった。
……し、死んでる?!
かつてのトラウマとも言うべき悲惨な記憶が蘇った。
沙織さんそんな、そんなのあんまりだ。
「救急車だ、救急車を呼ばなきゃ、、」
引きつった顔の佐野さんが、スマホを取り出して救急車を呼んでいるのを、ただ呆然とみつめていた。
MRI室で倒れてしまって以来、母はまた孫の世話を進んでしてくれるようになった。
それ見たことかと放っておけないところが、この母の良いようで悪いところかもしれない。
そんな母の弱さにつけ込むように甘えている自分が、一番いけないのだとは思うけれど。
保育園のお迎えをしてくれるだけで、とても助かる。
両親に甘えたい気持ちと、一人でやっていけると主張したい自分がいて、母の好意に素直になれない。
子供たちを連れてマンションへ帰ろうとしていたら、病みあがりなのだからしばらく実家から通いなさいと母は言う。
「晩ご飯くらい、ゆっくり食べてから帰ったらいいじゃないの」
母は器に盛りつけた揚げたての唐揚げを、テーブルにおいて引きとめた。
「大丈夫よ。なんでも一人でできるようにしておきたいの。お母さんだって、いつ病気で倒れるかわからないでしょう」
「私は倒れたっていいわよ。だけどあなたは小さな子供がいるんですからね。頼れる旦那さんもいないのに、病気になったらどうするのよ!」
世話にはなっても、母の小言は聞きたくなくて、やはり帰ることに決めた。
「悠李! マンションへ帰るよ」
「はーい!」
悠李はバァバの作った唐揚げを一つ摘んで頬張ると、保育園のバッグを下げてやって来た。
雪花の手をつないで玄関へ向かい、靴を履かせていると、
「じゃあ、これ持って帰りなさい」
夕飯のおかずを詰めたトートバッグを持たせてくれた。
「あ、ありがと……」
小言はいらないけれど、おかずならいるという私はやはり甘ったれだ。
断るのも悪い気がして遠慮なくいただく。
「いつもありがとう。じゃあ、また明日お願いします。雪花ちゃん、バァバにバイバイだよ」
「バァバ、バイバイ!」
雪花と悠李がバァバに元気よく手をふって玄関を出た。
「気をつけてね。悠ちゃん、雪ちゃん、また明日ね」
見送る母は、毎日会っているというのに寂しそうだった。
あんな風にいつか自分も子離れできなくなる日が来るのだろうか。
マンションへ戻り、母が作った夕飯を食べた後、子供たちとお風呂に入る。
さっさと洗って上がりたいけれど、子供たちはお風呂で遊ぶのが大好きだ。
水鉄砲を浴室の壁や天井に向けて撃っていた悠李は、飽きたのか雪花の顔に噴射した。
「うぎゃーぁ!」
最近の雪花は、悠李の欲求不満の吐け口にされているような気がする。
潤一からの電話で私が大泣きしてからだ。
悠李はパパの話しをしなくなって、反抗的な態度もなくなった。
言いたいことも言えずに我慢している悠李が可哀想で、負い目もあってか叱るのに躊躇する。
「雪花ちゃん、大丈夫よ。お風呂は濡れても平気でしょ」
泣きやまない雪花をなだめる。
「ゆうりいじわるー、うぇーーん!!」
勝気でプライドの高い雪花のご機嫌をとるのは簡単ではなく、どっと疲れを感じる。
できることなら雪花をなだめて欲しいけれど、悠李は素知らぬ顔で水鉄砲を撃ち続けている。
「ビューン、ビューン、、」
「悠李、雪花ちゃん泣きやまないんだけど、どうすればいいと思う?」
「知らない! 雪花うるさい!!」
悠李はムッとしながら、また水鉄砲を雪花に向けた。
「もうやめて。悠李は顔に水をかけられたらどんな気持ち? どうして人の嫌がることをするの?」
「雪花のほうがいじわるだもん。いつも邪魔ばっかりするんだから」
「雪花ちゃんはまだ小さいからわからないんだよ。悠李はお兄ちゃんなのにわからないの?」
少し考え込んでから、悠李は水鉄砲を雪花に渡した。
「じゃあ、いいよ、貸してあげる」
声の大きい雪花がやっと泣き止んでホッとする。結局、悠李に我慢をしてもらうことになる。
「ありがとう。悠李はやっぱり優しいお兄ちゃんだね」
褒められても悠李は少しも嬉しくない顔をしてお風呂を出た。
「悠李、待って! ちゃんと体を拭かないと風邪ひくよ!」
こんなとき、よそのお母さんはどんな風に対応するんだろう。
お父さんが一緒にお風呂に入ってくれたら、きっと楽しいのだろうな。
そんなことを考えていると、また暗くなってきそうで慌てて気持ちを切り替えた。
悠李の細い体をタオルで拭き、ドライヤーで髪を乾かす。
「はい、じゃあ、下着とパジャマは自分で着てね。雪花ちゃん、水鉄砲はもうおしまい。体を拭くよ」
水鉄砲で遊ばせていた雪花は、まだ遊び足りないようで呼んでも無視をした。
「じゃあ、ママもう行っちゃうよ、バイバイ」
お風呂のドアを閉めようとしたら、雪花は慌てて出てきた。
「わぁーん、ママ~!」
ドライヤーの風になびく雪花の明るい茶髪は、少し天然パーマになってる。そんな髪質さえも私の小さい頃とよく似ていた。
顔つきは少し潤一さんにも似てきたなと思う。鼻先から唇にかけてのラインとか、耳の形なんかは潤一さんにそっくりだ。
「はい、雪花ちゃん、とっても可愛くなったよ」
あんな裏切り者に似ていても、わが娘はやはり可愛い。
サラサラの髪になった雪花を抱っこしてリビングへ戻る。自分の髪にはドライヤーをあてる余裕がなく、タオルドライのみの生乾き状態。
顔にクリームさえも塗れないでつっぱらせたまま、面倒な子供の歯磨きをする。
「じゃあ、歯磨きをするよ。悠李は自分で磨けるね。あとでママが仕上げをしてあげるから」
「ジュース、ジュース!」
雪花が冷蔵庫を指さして騒ぐ。
りんごジュースを雪花のマグカップに注いで持たせた。
「悠李もジュース飲む?」
悠李は歯ブラシにメロン味の歯磨き粉をつけていた。
「いらない」
食の細い悠李は無駄食いというのをしない。
空腹であるか、のどが乾かないと飲食をしないのだ。
私も間食はさほどしないけれど、それでも美味しそうなものを見ると空腹でなくても食べたくはなる。
我慢をしているわけではなさそうだけど、あまりに要求が少ない気がして不憫に感じる。
なににつけ貪欲で、ストレートに要求する雪花とは対照的だ。
悠李はなんでも自分のしたいようにしている雪花が、妬ましいのだろうか。
歯磨きが終わって、やっとひと息つける。あとは眠くなるのを待つだけでいい。
スマホを見るとLINEに佐野さんからメッセージが来ていた。
どうしても聞きたいことがあるから、今から会いたいという。
今頃なに?
私が聞いて欲しかったときは聞きたくなさそうだったくせに。いじけたような気持ちになり、断りたい気分にかられた。
だけど…………。
期待してしまう気持ちが捨てきれず、 ” 子供が寝てからなら、少し会えます ” と返信した。
九時を過ぎてやっと子供たちが寝てくれて、佐野さんに報告をした。
すぐに返信がきて、駐車場にもう着いているという。
簡単なメイクくらいしたかったけれど……。
沙織さんの美貌にはとても勝てっこないし。
佐野さんは逢いたいわけではなく、聞いておきたいことがある、と言っただけなのだ。
そんなことを思うと、わざわざメイクなどすることが惨めに思えて、さっさとパーカーを引っ被ってマンションを出た。
車から降りて待っている佐野さんが見えた。
小走りでそばまで行くと、車の中で話そうという。帰宅するマンションの住人に好奇の目で見られるのも嫌なので素直に従った。
「り、離婚したって聞いて。俺、、彩矢ちゃんは多分しないんだろうなって、勝手にそう思ってしまって」
戸惑ったように伏し目がちに言った。
言い訳なんてしなくていいのに。いつまでもグズグズと決められなかった私のせいでもある……。
「離婚の原因って、やっぱり俺のせいなんだろ? 」
落ち着きなく視線を泳がせて佐野さんは聞いた。
そうだと言ったらどうしてくれるというのか?
問いつめてやりたいいじわるな感情を押し殺し、” それだけではないから気にしないで。沙織さんと幸せになって ” と言った。
それは本心ではなかったけれど、今更すがりついたところで惨めなだけだと思ったから。
「そんなこと言わないでくれ。……沙織とは別れたんだ」
佐野さん………。
「結婚しよう。俺たち結局こうなることが運命だったんだよ」
訴えるように切なく語る佐野さんの目を見て胸が熱くなった。
本当に、本当にいいの?
悠李と雪花の父親になりたいと言ってくれた佐野さんの言葉にすがりたくて。
母子家庭という不安から逃れたくて。
沙織さんのことはもうどうでもよくなってしまっていた。
「じゃあ、保育園に行くよ~! 悠李、お靴履いて~!」
「はーい!」
朝からご機嫌の私の声に、悠李も雪花も元気な反応を見せた。
やはりお母さんはいつも明るくなくてはいけないんだと、つくづくそう感じた。
その一方で、自分の心の単純さに呆れる。
昨日佐野さんに会うまでは、もう自分の人生など終わったかのように落ち込んでいたというのに。
「悠李、今日はママ、帰りが遅くなるの。バァバのお家で待っててね」
「ふーん、ママお仕事?」
「う、うん、できるだけ早く帰るから、雪花ちゃんと仲良く待っていて」
「わかったー!」
子供には嘘をついちゃダメなんて偉そうに言っていたけれど……。
別に隠すこともなかったかも。悠李と雪花にもそのうち会わせて、慣れさせよう。
最初は宅配のおじちゃんのままでいい。だんだん慣れてから、一緒の時間を増やしていこう。
佐野さんと暮らしたら毎日が楽しくて、潤一みたいな冷たい父親のことなど、すぐに忘れるに違いない。
こんなに心が浮き立つようなことって、本当に久しぶりだ。潤一への気持ちもすっかり冷めてしまって、あんなに後悔して泣いていたのが嘘のように思える。
ジェニファーと仲良く暮らしているはずの潤一を想像しても、それほど腹も立たなくなっているから不思議だ。
今では幸せに暮らしているといいな、なんて思えてくる。帰国したら雪花にも会わせてあげてもいいと思えるほど、今では潤一に寛大になれている。
そう思うと人の気持ちというものの危うさが、逆に心配にもなってくるけれど。
仕事を終え、地下鉄駅に向かって車道を歩いているところを佐野さんが拾ってくれる。
「彩矢ちゃん、どこに行きたい? 食べたいものはある?」
「佐野さんのアパートじゃダメ? まだ離婚したばかりだから、人目につきたくなくて、」
佐野さんのアパートと言ってしまって、少し後ろめたいような気持ちと、恥ずかしさがこみあげる。
佐野さんはどう思ったろう?
「アパートには何もないんだけど、じゃあ、スーパーかコンビニで弁当かなにか買ってもいいかな?」
「簡単なものでよかったら、なにか作るわ」
「それは楽しみだな。弁当は食べ飽きてるから、彩矢ちゃんの手料理のほうが嬉しいな」
「ごめんなさい。……多分、コンビニのお弁当のほうが美味しいとは思うけど。本当に簡単なものしか作れなくて」
「別になんだっていいんだ。……彩矢ちゃんがいてくれたら」
少し照れたように佐野さんが小声で言った。
お互いに恥ずかしくなって、シーンとしてしまったけれど、なんとも言えない幸福感に包まれた。
途中スーパーに寄り、オムライスならすぐに作れると思い、卵にピーマンやハム、玉ねぎなどを買った。
とても男の一人暮らしとは思えないほど、アパートはきれいに整頓されていた。
「相変わらずきれいにしてるね。ウチよりきれいだわ」
「昨日、あれから一生懸命掃除したんだよ。慌ててシーツなんかも色々洗濯して、、あ、いや、その、、」
思わぬ失言に赤面している佐野さんが可愛くて、いじわるな気持ちがわき起こる。
「ふ~ん、慌ててシーツを洗ったんだぁ。クスクスッ」
冷やかすように言って笑うと、開き直ったようにムッとした佐野さんに抱きすくめられる。
「好きだよ、彩矢ちゃん。本当に夢みたいだ」
「遼くん……」
佐野さんの暖かい胸の鼓動が懐かしく心に響く。
このまま、ずっとこのまま、もう離さないで。
オムライスの材料の玉ねぎやピーマンなどを切り、フライパンで炒めた。
オムライスは子供たちによく作ってあげる定番料理だから、味はともかく簡単に作れる。
男の一人暮らしは野菜不足だろうと、買い込んだ野菜を蒸したかったけれど、お鍋がなかった。
仕方なくレンジでチンをしてお皿に盛りつけた。
「うん、卵がトロトロで美味しい。随分手早くなったんだね。さすがは二児の母だなぁ」
ニコニコして食べている佐野さんは、本気で褒めているのかな。
よくわからないけれど、オムライスは家で作るよりも上手にできたので嬉しかった。
「お野菜も食べてね。レンジでチンすると簡単でしょう。一人でもちゃんと作って食べてね」
「えー、もう来てくれないのかい?」
「毎日なんて来れないもの。今日だって、仕事で遅くなるって言って来たし」
「だよなぁ、悠李も雪花ちゃんもママの帰りを待ってるもんな。早く一緒に暮らしたいなぁ」
「それまでにはもう少しレパートリーを増やすね。ごちそうさま。佐野さんはゆっくり食べてて。先に片づけとくね」
未だにお料理しながらテキパキと片づけるという技が身についていない。山積みされているボールやフライパンなどを洗う。
雪花と悠李は夕ご飯を食べ終わっただろうか。
佐野さんが食べ終えた食器を下げて、後ろから抱きついた。
「ごちそうさま。オムライスすごく美味しかったよ。料理上手になったんだね」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。私のお料理を褒めてくれる人なんていないから」
「悠李も不味いって言うのかい?」
「不味いとは言わないけど、バァバの作ったのが食べたいって、いつも言われる」
「ハハハッ、そりゃあ、お婆ちゃんには敵わないよな」
「お料理のセンスがないんだわ。いつまでたってもちっとも上達しないんだもん」
「そうかな? きっと褒めてくれる人がいなかったからだよ。これからは俺が毎日美味しいって食べるから」
「本当? 真っ黒こげのお魚でも?」
食器を洗い終えて、タオルで手を拭いた。
「いいよ、真っ黒こげの魚でも。彩矢ちゃんが食べられるなら。彩矢ちゃんが最高のご馳走だから」
佐野さんの唇がうなじにふれて、ドキドキする。多分こうなるとは思っていたけれど、なんといっても、なん年ぶりのことだから。
「彩矢ちゃん、いい?」
熱っぽく見つめられて、隣の部屋へ手を引かれた。
慌てて洗ったというシーツが敷かれたベッドへ押し倒され、セーターをまくりあげられた。
「遼くん……自分で脱ぐ。電気消して」
「う、うん」
今は佐野さんを愛してるし、結婚だってしたいから後悔はしないと思う。
でも離婚してまだ一ヶ月だということに、少し後ろめたさを感じた。
だけど、結婚していたときは惹かれあっていても、節度のある付き合い方をしていたのだ、私たちは。
………潤一さんとは違うもん。
遠い記憶にある佐野さんの懐かしい匂いと、激しくも優しい愛撫に気持ちが高ぶる。
「愛してるよ、彩矢ちゃん……」
お菓子を待ちきれない子供みたい。
せっかちな佐野さんの抱擁に、このうえない幸せを感じた。
二人のそんな甘い蜜月は二週間ほど続いた。
夕方、いつものように佐野さんに路上で拾われ、スーパーで買い物をしてからアパートへ向かった。
アパートの玄関ドアを開けた佐野さんが、立ち止まって動かなくなった。
「どうしたの? 入らないの?」
佐野さんが乱暴に靴を脱いで、リビングに慌てて入ったので、そのあとへ続いた。
佐野さんが寝室のドアを開けて、
「沙織、何してるんだ、起きろよ!」と言う声が聞こえた。
えっ、沙織さん? となりの部屋に沙織さんがいるの!
そんな、、
苛立ったように佐野さんは、また沙織さんの名前を呼んだ。
「……沙織? 沙織!!」
佐野さんの尋常ではない叫び声が聞こえた。
寝室をそっと覗いてみると、ベッドに沙織さんが眠っていた。
その深すぎる眠りは一見して普通ではなかった。
……し、死んでる?!
かつてのトラウマとも言うべき悲惨な記憶が蘇った。
沙織さんそんな、そんなのあんまりだ。
「救急車だ、救急車を呼ばなきゃ、、」
引きつった顔の佐野さんが、スマホを取り出して救急車を呼んでいるのを、ただ呆然とみつめていた。
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